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傷ついても構わない。そう思うくらい、好き。
・・・何かに書いておけばよかったな。
そうしたらきっと、私のこと忘れられないよね。
夜空の向こうの、見えない力が私を連れて行こうとしている。
ほんの少し前までジェイドさんと抱き合って、お姉ちゃんが戻ってきたことを喜んでいたのに。かろうじて彼が離さずにいる片方の手だけが、私達を繋いでいる・・・。
「・・・もういいよ、ジェイドさん」
彼が空色の瞳を歪めた。それだけ必死になってこの手を捕まえてくれているんだと思うと、嬉しさが涙と一緒にこみ上げてくる。
本当に、どうしようもないな。
そんなことを頭の隅で考えていると、手首から先に力が入らなくなっていることに気づいた。きっと彼が力の限りに掴んでいるから、血が通わなくなってしまっているんだろう。でも、そんなことはもう、どうでも良かった。
痛いだなんて言ったらきっと、彼は掴む手に力を込めるのを躊躇するに決まってる。
この状況を脱する方法なんてないと分かるのに、離す以外にどうしたらいいのか分からないのに離して欲しくない。矛盾してることも分かってる。だけど、彼が離さないでくれることが嬉しくて仕方ない。
心が震えるって、こういうことだったんだ、なんて頭のどこかでぼんやりと思う。
「よく、ないでしょう・・・っ」
ぎし、と手首が軋む音を、痛みと一緒に感じ取った私は、彼のひと言で我に返った。
ゆっくりと首を振って言葉を紡ぐ。
引き摺り込もうとする力が私の体を揺さぶっていて、首を振ったことすら彼には分からなかったかも知れないけど。
「・・・でも、」
「煩い!」
ギリ、とさらに手首を圧迫された私は、痛みに声を上げそうになりながらも、彼の大声に驚いて言葉を失った。
「えっ・・・」
こんな怒られ方をしたのは、初めてだったのだ。
いつだってチクチクとお小言をくれるばかりで、かと思えばその後は砂糖漬けにされるのかと思うくらいに甘やかされて。そんな、どこか余裕たっぷりな彼ばかりを見てきた私は、思い切り言葉をぶつけられたことに、ただただ驚いてしまった。
そして、彼の足が少しずつ前へと動いて来ていることに気づく。踏ん張りがきかなくなってきているのだ。見えない力に抗えなくなるのは、もう時間の問題だろう。
言葉を失ったままそれを見ていた私に、彼は更に言い募った。
「もういいだなんて、見え透いた嘘を・・・!」
「嘘じゃな、」
「これで、」
反論した私の目を真っ直ぐに射抜く空色の瞳が、怖い。
強い何かを帯びていて、一度決めたはずのものを、ぐらつかせた。いともあっさりと。
「いいわけ、ないでしょう・・・!」
ずず、と彼の足が前へ出た。かくん、と私の体が気流に弄ばれる飛行機のようになって、その衝撃に手首が軋んだ。
襲ってきた痛みに目を閉じて、歯を食いしばる。でもそれだけ彼が一生懸命、私を繋ぎとめようとしてくれているということだ。だから、痛いだなんて絶対に言わない。
でも、離さないで欲しいとも、言えなかった。
「つばき」
彼の声に、鼻の奥が痛くなる。握られているのは手首なのに、変なところが痛くなるものだ。つん、とした痛みが走って、目を開けていられなくなる。
空色の瞳が綺麗だと思ったのは、私が目覚めた時だった。金髪に青い瞳をしていたから、咄嗟に英語で話しかけて・・・指を指して手を払われた記憶がある。
その時の声とは、全然違うんだな。それはそうか。私達、一緒にいたんだから。
「やっぱり・・・」
張り詰めた声から、穏やかなそれに戻ったことに気づいて、私はそっと目を開ける。飛び込んできたのはやっぱり空色の瞳で、何故かほっとしたように細められていた。
「つばきは泣いていても、可愛いんですね」
そのひと言に、私は自分が泣いていたことを知る。条件反射でそれを拭おうとするけど、空いている方の手はいうことをきいてくれそうになかった。
ひと粒ふた粒と零れた涙すら、見えない何かに持って行かれるのが分かる。私の気持ちすら、ここに残ることが出来ないのかと思ったら、悲しく悔しくて、どうしたらいいか分からなくなった。
泣いてちゃいけない。でも、止められない。
頭の中がジェイドさんでいっぱいになってしまった、その時だった。口が勝手に、動いていた。
「ごめんなさい」
顰めた顔を、いっそう苦々しく歪めた彼が吐き出すように言う。
「あなたまだ、そんなことを・・・!」
「離しちゃ、やだっ」
もう自分の力で彼の手に捕まっていられない。手首から先が千切れてなくなってしまったみたいに、感覚がなくなってしまった。首から下が、もう何かに飲み込まれてしまったような気がする。
「つばき・・・」
かくん、とまた一歩彼の足が前へ出て、私の体が風に吹かれる旗のように揺れる。
自分の体が夜空に近づいていることに、彼は気づいているんだろうか。怖く、ないんだろうか。
・・・傷つくなら、私だけ。私では、そういうふうにしか彼を守れないと分かってる。
なのに、肝心なところで私は選べなかった。
「・・・離しちゃやだっ!ジェイドさんが好きなの!
傍に、いたいよ・・・!」
堰を切ったように言葉が飛び出して、彼が頷く。手首に力がかかって、痛みを超えた何かが腕から肩まで突き抜けた。
「エル君、」
ふいに教授の声が聞こえて、私は自分の体に走って衝撃から立ち直る。
「ホルンでリアちゃんから預かったあの機械、持ってる?」
・・・携帯だ。
すぐに閃いたけど、首を巡らせて教授に顔を向けるのにも時間がかかる。私は諦めて、ジェイドさんだけを見つめたまま、言葉を聞くことにした。
ジェイドさんも、手にも足にも力を入れて踏みとどまっているのに精一杯なのか、私から目を離すことはなかった。
「これ、ですか」
「あ・・・」
シュウさんの声に、ルルゼが呆けたように呟く。彼女は、酷使した目が回復したんだろうか。
「ルル、見えるか」
「ホタルが・・・」
「やっぱり!
ルルちゃん、何色?!」
「あ、あの・・・っ」
「ルル、大丈夫。皆いる。ルルにしか見えないんだ。頼む」
団長の短い言葉が聞こえて、教授が叫ぶ。
「ルルちゃん!何色?!」
「・・・あ、青・・・青です!」
「やっぱり・・・!」
言葉が飛び交っているのを耳にして、私は思い出した。私が使い込んだあの携帯が、少し変わっていたことを・・・。
頭の隅で携帯のことを考えた刹那、ぞくぞくというあの感覚が背中を打った。それまでの這い上がる感じとは全く違う、私の体の中心を折ろうとしているかのような衝撃。一瞬息が出来なくなって、吐き気に似た何かに襲われる。体の中に何かが入ってきて、力任せにかき混ぜているんじゃないかと思ような違和感があった。
あまりの気持ち悪さに、これはいよいよ、と心が萎みかけた時だ。
ジェイドさんの手がほんの少し緩んで、ずるり、と手が離れる。ふわり、と体が波に乗って引き摺られるような感覚に、私は力の入らない手を伸ばした。
「つばき・・・っ」
「ジェイドさん!」
彼の手が、離れかけた私の指先を掴む。痛みが走って、肘も腕も痺れていく。
その瞬間、私の体ががくん、と揺れた。そしてまた、背中をぞくぞくとした何かが這う。
「エル君、それ・・・!」
教授の声が飛んでいったのを耳にしながら、私はジェイドさんの瞳を見つめていた。
もう、いつこの手が離れるか分からない。今かも知れないし、次の瞬間かも知れない。もしかしたら、あと少しかも知れない。
「ジェイドさん」
私の呟きに、彼の瞳がゆらゆらと揺れた。ちゃんと、聞こえるだろうか。
指先が痛い。でも、痛いくらいが嬉しかった。いつも余裕たっぷりな彼が焦ってくれて、嬉しかった。
「ありがとう、私、」
「つばき!」
ぎゅ、と指先を握る手に力が入る。痛い。彼のカオが怖い。でも、嬉しい。
・・・いつだったか、暖炉の前で怒られたっけ。よく考えたら私、お小言もらってばっかりで、あんまり良い子じゃなかったな。
「忘れな、」
するりと指先が彼の手から抜け落ちた。
言おうと思ったことが途中で遮られた私は、胸の内でそれを非難する余裕もなく、勢いよく宙へと持ち上げられる。
「まっ・・・!」
彼のうわずった声が追いかけてくるけど、私が引き上げられるのは止められなかった。
・・・終わるんだ、全部。
でも、お姉ちゃんのことは呼び戻せたから。私が代わりにあっちに行くんだとすれば、それはそれで元通りってことなんだ。
そう考えながら、意味もなく強制的に終了させられるんじゃない、と信じて目を閉じる。閉じていなければ彼の表情が見えてしまって、きっと私は発狂してしまうだろうから。
自分の体が、冷たい何かに包まれていくのを感じる。
瞼の向こうで、皆が何かを叫んでいる。会話のようでもあるし、ただ何かを叫んでいるようにも聞こえる。それぞれが、何を言っているのかまで聞き取れないのが悲しい。ジェイドさんは、私に何か言ってくれてるんだろうか。
やっぱり、最後に顔、見ておけば良かったかな。
そう思うのに、一度閉じた瞼を上げようとしても、体はいうことを聞いてくれなかった。もう、遅いということなのか。
諦めに似た感情に苦笑して、そっと息を吐こうとした、その刹那。
背中が冷たい。冷たくて、痛い。
最初に感じたのはそれで、次には吐き気を感じるくらいの耳鳴りが頭に響き渡った。
キィィイィィィィィイィィィィィイィィィ・・・
くわんくわん、と強弱をつけて響いてくる。頭蓋骨が揺れてるんじゃないかと思うくらいの、耐えられない音に思わず顔を顰めた。
・・・一体、何が起きてるの・・・?
もしかして、このまま私の体はバラバラになってしまうんじゃないか・・・そう思ってしまうような、得体の知れない音。
その音に混じって、私を呼ぶ声が聞こえた。
「つばき!」
聞き間違いじゃ、ない。
・・・いっそのこと空耳でもいい。私の妄想でも構わない。
もう一度聞けるなら、と耳を澄ませた。
耳を澄ませると、甲高い金属を削るような、耳鳴りが頭中に響き渡る。それは、私から考えることを奪おうとしてるようにも思える。
・・・思い出すことも、させてくれないの。
絶望を感じた、その時だ。
どこかで何かが割れる音が聞こえた気がして、同時に、大きな、ものすごく大きな手に思い切り背中を押されたのを感じた。
思い切り、そう、高い所から力任せに突き落とそうとしているかのような。あまりに突然で、思い切り叩かれるようにして落とされたから、息が出来なくて。
がつん、という衝撃に、勝手に目が開いた。
「ん、ん・・・」
視界がやけにくっきりしていて、その端の方で揺れている金色が、鮮やかに目に入ってくる。肌を撫でる空気が優しくて、背中に何か暖かいものが触れているのが分かる。澄ませてもいないのに、耳には少し速めに規則正しくリズムを刻む鼓動の音が聞こえていた。それに合わせるようにして、私の視界が上下に揺れる。
「・・・つ、あぁぁ・・・」
片方の耳がその声を聞き取っている間、もう片方の耳の触れている部分から振動が伝わってきた。その揺れが、耳から頭へ、胸へ、腕へ、つま先まで伝わっていった頃になってやっと、意識が覚醒した。
そして理解した瞬間、私は思い切り頬を寄せる。
「ジェイドさん・・・!」
名前を呼んだら、涙が堰を切って流れ出した。唇がわなわなと震えて、もう名前を呼ぶので精一杯だ。もっと言うべきことがあると思うのに、全然ダメで。しゃくりあげるのも、堪えられなかった。
唇を噛んでいると、ふいに何かがそこへ触れる。
「あんまり力入れると、切れちゃいますよ・・・」
思い切り甘やかす時の声だ。私の奥の方がくすぐったくて、身を捩りたくなる。
唇に触れたのが彼だと気づいた時には、その親指がゆっくりと私の唇を撫でていた。
私はそれがどうしようもなく心地良くて、目を閉じてしまいそうになる。まどろんでいたくなる。
・・・今日も一緒に眠れるんだ。
実感して、また涙が零れる。自分の涙が熱いと感じたのは、初めてかも知れない。
「ストーップ!」
突然響いた教授の声にびくついた体を、彼の腕が、ぎゅっと押さえるように抱きしめてくれる。私はそっと息を吐いて、やっと自分がどこにいるのかが分かった。
夜空に吸い込まれなくて済んだのは分かっていたけど、まさか、まさかジェイドさんの上に重なっていたなんて思わなかった。
だから、彼の胸が私の顔の下にあったのか。
「ごめんなさい、今・・・っ?!」
慌てて飛び起きようとした私は、その場で悶絶した。
「いぃっったぁぁぁ!
・・・何これ・・・?!
痛い痛い痛いー!」
生まれて初めて感じた痛みに、混乱してよく分からない言葉を放つ。
「おい」
シュウさんが転げる私を見て、言った。
「病院に行くぞ。
・・・全員だ。
ミナも気がつかないし、リアは手首がおかしなことになってる」
思いのほか冷静なシュウさんの言葉に、自分を手首を見た私は愕然として絶句した。
手首に、大きな手形がついていたのだ。
・・・こんなの、ホラーだ。




