66
その日の夜も、その次の日の夜も。私は不思議な夢を見て、真夜中に目を覚ました。
どんな夢だったのかは覚えていないのに、心臓が煩く騒いでいて、何かに追い詰められているような気分で・・・それでも、背中に感じる温もりが私を眠りに導いてくれて、私はそっと息を吐き出して・・・。
そして気づいたら、朝がやって来ていた。
・・・あの変な夢は、いろいろ起きたことを私の小さな脳が懸命に整理しようと働いた後に残った、燃えカスみたいなもの。
きっと、そこに意味なんかない。
「つばき?」
「ん・・・?」
大きな手は、今日も器用に私の髪を編み上げていく。
うわの空で返事をした私に、彼は穏やかに囁いた。
「今日・・・分かってますね?」
「うん」
静かな朝だ。いつもと何一つ変わらないことをしているはずなのに、何かが違うように思えて仕方ない。頭の芯が澄んでいて、とてもすっきりしているのだ。よく眠れたとか、疲れがとれたとか、そういう類の感覚じゃない。
神経が研ぎ澄まされていて、そう、緊張や不安が限界を超えてしまった時のよう。
周りの音がよく聞こえる。目に入る物の細かいところまで、意識しなくてもはっきり見える。
「帰って来たら、研究室に・・・だよね」
「ええ。
大丈夫・・・?」
髪を結い終えた手が、後ろからそっと私の両肩に置かれた。
「昨日も一昨日も、夜中に何度も目が覚めていましたよね?
体に不調はありませんか?」
「知ってたんだ・・・」
「当たり前です。全く・・・眠れないなら、言ってくれればいいのに・・・」
結い上げて風通りのよくなった首筋を撫でて、そう呟く彼に、私は苦笑を漏らす。
「それは・・・そうなんだけど」
振り返ると、空色の瞳が柔らかく細められた。
ぼやいているようにも聞こえたのに、その目は私を甘やかす時の目だ。
「甘えてくれるのを待ってたんですけどねぇ」
「うん・・・」
彼と間近で見詰め合うことにも慣れたと思うのに、未だに私を甘やかそうとする瞳を目の前にすると、どうしても鼓動が跳ねる。
それを紛らわそうと曖昧な言葉を返した私は、困ったように微笑んだ彼に手を引かれて、いつものようにお屋敷を後にした。
これが、私の人生で、一番長い1日の始まり。
この日は、終わりに辿り着くまでが、本当に長かった。
・・・このまま、終わらないんじゃないかと思うくらいに。
「あれ?
今日は、あの髪留めじゃないんだね?」
「あー・・・そうなんです。ちょっと、修理中なんですよね」
図書館の一角で資料を探していた私は、キッシェさんのちょっかいに言葉を濁す。
私のトレードマークと化していた赤い花の髪留めは、念のために古代石の部分を別の石に取り替えよう、という話になったので、教授に預けてきた。
あれは露店で買ったものだけど、私が身に着けてから2回もホタルを発生させたのだから、きっと何かの因果関係があるはずだ、というのが教授の主張だった。
「なぁんだ」
キッシェさんが、ため息混じりに呟くのが聞こえて、そっと見上げる。
「補佐官殿の逆鱗、じゃなくなったのかと思ったのになぁ」
「・・・薄茶の髪に、赤い花。ですよね?」
ふざけているのか何なのか分からない彼に背を向けて、自分からは見えない髪留めを指差す。噂通りの容姿になるようにと、ジェイドさんが用意してくれたのだ。
「ざんねーん。
・・・リアちゃん、僕の好みなんだけどなぁ」
肩を竦めて間延びした声を出した彼が、振り返った私に流し目を送ってくる。
それを右から左へ聞き流した私は、彼の視線も見て見ぬ振りで本棚から資料を取り出していく。
「あ、その上の赤い本お願いします」
「・・・ハイ」
綺麗に無視すると、キッシェさんが肩を落として私の指差した、私には高くて届かない所へ手を伸ばしてくれる。
「そんなに補佐官殿がいいの?」
「・・・私、」
図書館で資料を探すのも、もう何度目になるか分からない。その度に、キッシェさんに反応に困るような、さっきのような台詞をぶつけられている私は、もう慣れっこだ。最初は戸惑ったけど、今となっては社交辞令のようなものなんだろう、と解釈して受け流している。
また探している資料を見つけて、手をかけた私は呟いた。
「ジェイドさんの、特別になりたいんです。
一番じゃなくてもいいから、特別になりたいの。
・・・あの人の、必要不可欠なところに、いたい」
今日は朝から何かが研ぎ澄まされているから、探している物がすぐに見つかる。資料も、自分の気持ちに沿った言葉も。
自分と世界の隔たりがなくなったような、おかしな感覚に酔っているのかも知れない。
私は、一度滑り出てしまった言葉を止めることが出来なかった。
「・・・そっか」
「はい。
・・・あ、ありがとうございます」
高い場所にあった本を受け取ってお礼を言うと、キッシェさんが微笑む。その微笑みがなんだか温かいような気がした私は、やっぱりあれは社交辞令だったと思うことにしよう、と胸の中で呟いた。
そして、別の話題を探して、思い出したことを口にする。
「ああ、そういえば・・・」
「うん?」
「ホタル、見ました。ヘイナで」
「ほんと?!」
片手で抱えるには重くなってきた量の本を、両手で抱え直しながら頷くと、彼はこちらの予想を上回る表情で驚く。
ここは図書館だ。しかも、一般利用者がたくさんいる区画だから、大声を出したら目立って仕方ない。
そう思いながらも、掴みかからんばかりの距離にやって来た彼の形相に気圧されて、私は何も言えないまま、ただこくこくと頷くしかなかった。
「どんなだった?色は?形は?」
「き、黄色で、丸くて、ふわっとしてました」
外見のことなら答えても大丈夫だろう。さすがに、詳しいことまで話すわけにはいかないけど。
私は頭の中で、話してもいいことと悪いことを振り分けながら、彼に向かって答える。
すると彼は、声を潜めて疑問を口にした。
「・・・光ってた?」
「見たこと、あるんですか?」
私も声を潜めて問い返す。まだ模範解答の振り分けが出来てないのだ。彼が何をどこまで知っているのか、私が知らなくちゃ墓穴を掘る。ジェイドさんも教授も傍にいないんだから、私がしっかりしなくちゃいけない。
冷静に、落ち着いて・・・と、呪文のように心の中で唱えた。
「うん・・・子どもの頃にね」
「へぇ、そうなんですか」
無難な相槌を打ちながら、彼が話すのを待つ。自分から話を展開させていくのは、危険な気がした。
本を探す振りをしていると、彼は周りを見回してから囁いた。
「これくらいの、」
言いながら、彼が両手で球体を思わせる形を作る。
「黄色くて、光るものが見えたんだ。
夜中で、眠れなくてキッチンに水を飲みに行ったら、いて。
・・・子どもだったし、死者の思い云々の言い伝えもあったから怖くて、足が竦んだ。
声なんか出なかったし、ただ、がくがく震える足で立ってるのが精一杯で・・・」
「ああ、確かに子どもの頃に見ると怖いですよね」
「うん、僕、気が小さかったし。
あの時・・・ホタルが、僕に向かって飛んできたんだ。
取り憑かれるのかと思った。でも、ぶつかった瞬間ぱーっと光って、消えた」
「ぶつかって、消えた・・・?」
聞き捨てならない台詞に、思わず振り返る。
人にぶつかってくるなんて、そんなことあるの。
「そ、そんなに驚かなくても・・・」
私と目が合った彼が、驚いたカオをして言葉を紡いだ。
どんな表情をしていたんだろうか。
「あ、ごめんなさい」
慌てて取り繕った私は、手をぱたぱた振りつつ言葉を探す。
「私、そういう話が苦手で・・・怖いのに想像しちゃうんですよねぇ。
良かったです、私が見た時、そういうふうにならなくて・・・」
「肝が据わってるのに、意外と怖がりなんだねぇ」
くすくす笑いながら彼が言うのを見て、気づかれないように胸を撫で下ろす。とりあえず、ヘイナでのことについて詳しく聞かれることはなさそうだ。
「でも・・・」
優しいカオをしていた彼の表情が翳って、言葉が途切れる。
小首を傾げて続きを待っていると、ふいに視線が合って、彼が眉根を寄せたことに気がついた。
「あれからなんだよね、僕の体がおかしくなったの・・・」
「え・・・?」
今、何か大事なことを聞かなかったか。
彼は私の呟きを気に留めることもなく、言葉を吐く。
「ホタルを見たことも信じてもらえなかったから、誰にも言えなかったんだけど。
・・・今思えば、夜中に目が覚めた子どもが寝ぼけたんだ、と思ったんだろうね」
その当時のことを思い浮かべているんだろうか、彼が視線を落とした。
「キッシェさん・・・」
思わず声をかけると、彼ははっとしたように視線を上げて、微笑む。
「でもまぁ、世の中には納得のいかないこともたくさんあるってことだよね。
それが分かるくらいには、大人になったからさ。
こうなっちゃった体とも、上手く付き合っていくしかないんだよね」
そう言って、彼はそっと息を吐いた。
「なるほどね。
それは興味深いなぁ・・・今回のことが落ち着いたら、ちょっと調べてみようか」
「・・・必要ありません」
教授に、昼間キッシェさんから聞いた話をしたところで席を立つ。ジェイドさんからお茶を頼まれたからだ。
背中でジェイドさんが、教授の言葉に不満そうに声を上げるのを聞く。彼はどういうわけか、キッシェさんが絡んでくると機嫌が悪くなるのだ。
コンロにかけておいた薬缶から湯気が出てきている。お湯が沸くまではもう少しかかりそうだ。茶葉とカップを用意して、なんとなく部屋の中を見回す。
一昨日、地震や旋風でぐちゃぐちゃになった研究室は、すっかり綺麗に片付いていた。片付いているというか、物がほとんどなくなっていた。お屋敷で働く皆さんの手を借りて、危険そうなものはとりあえず、別の部屋に移したらしい。
・・・この場合の「危険なもの」は、ホタルに関わる現象が起きた時に危険そうなもの、だ。だから、ソファとテーブル、部屋に備え付けられているもの以外は綺麗になくなっているわけだ。すごく寒々しい。引越したばかりのアパートみたいだ。
そんなことを考えていると、人の気配を感じる。薬缶のお湯が吹き零れないように注意を向けながら、視線を入り口の方へ投げると、そこには団長とルルゼの姿があった。
かちゃかちゃ、とカップのぶつかり合う音が静かな研究室に響く。
あれから程なくしてシュウさんも合流して、お茶を飲んで少し話をして・・・全員分のカップを片付ける。今日は皆でお茶をするために、こんなにがらんとした研究室に集まったわけではないのだ。
簡易キッチンで使ったものを全部片付けてソファに戻ると、教授が蓋の開いた木箱から、古代石を取り出しているところだった。
「これは?」
「空ですね」
教授が1つずつ取り出してはルルゼに見せて、中にホタルが入っているかどうかをチェックしているらしい。
私は2人のやり取りを邪魔しないようにと、物音を立てないようにしながらソファに腰掛ける。するとすぐに隣から手が伸びてきて、私の手を握った。
今日の私は、見なくてもそれが誰の手なのか分かる。目を向けずにそっと握り返せば、隣で息を漏らす音が聞こえた。
「これは?」
「入ってます」
「光の強さはどう?」
「・・・並べて比べてみないと何とも・・・」
空のものと、ホタルが入っているものを分けて、それからホタルが出てきそうなものを探しているらしい。ルルゼが、ホタルの入っているものを手元に置いていくのを眺めてから、私はシュウさんに声をかけた。
「眠れました?」
「ん?・・・ああ、それなりにな」
足を組んでいる姿を見る限り、緊張しているようには思えないけど・・・。
「その割りに、さっきから目頭、触ってますよね」
寝不足だからなのか感覚の鋭くなっている私は、彼が現れてから時折目頭を揉んだり押さえたりしていることが気になっていた。
眠れなかったのかと思ったけど、本人はそうではないと言う。
「・・・そうか?」
どうやら自覚がなかったらしい。彼は訝しげに眉根を寄せて、私に尋ねてきた。
こくりと頷けば、ジェイドさんが間に入って口を挟む。
「違和感でもあるんですか?」
「少し視界がぼやける時があるくらいか。
目が疲れてるんじゃないか。アッシュが書類を山のように送り込んでくるおかげで」
「書類?」
「・・・まあ、俺も蒼の飾りでしかないからな。便利なんだろ。
ああ勘違いするな。本来ならお前のところのだ。
今回の礼を、前払いしてると思ってくれていい」
「・・・あなたって人は本当に・・・」
ぽんぽん飛び交う言葉を聞きながら、私は教授とルルゼが石を見ているのを眺めることにする。
彼女の手元に置かれた石は、5つになっていた。
「そうだ、明日の昼ごろあの人がやって来ることになってる」
「あの人って・・・本当ですか」
「ああ・・・一応、これまでの経緯も知らせてあって・・・。
あまりに張り切っていたから、1日ずらして教えておいた。
この状況で面倒ごとを連れて来られたら堪らないからな」
「・・・さすが。長い付き合いは伊達じゃないですね」
耳から入ってくる会話に小首を傾げていた私は、2人の会話の合間を縫って口を開いた。
「あの人って、誰ですか?」
「・・・ああ、つばきも、」
苦笑したジェイドさんが私の頭をぽふぽふして、それが誰なのかを教えてくれようとしていた、その時だ。
「え、うそっ」
ルルゼの慌てた声が上がって、私達の目はそれに釘付けになった。
彼女の手元に置かれた古代石の中の1つが、淡く輝き始めたのだ。
「来たか」
シュウさんの声が緊張を孕んでいるのが分かって、私は思わず腕を擦る。そうでもしないと、体が強張って咄嗟に動くことが出来なくなりそうだった。
「ソファ、端に寄せた方がよくないか?」
団長が口早に言って立ち上がる。
やっとここまで辿り着いた。
お姉ちゃんを呼び戻すまで、あと少し。
私は男の人達がソファを移動させているのを背中に感じながら、深呼吸をする。
心臓はばくばく早鐘を打ちつけているし、指先は小刻みに震えている。頬が引き攣ってしまうのを感じながらも、私は不思議な体験をしていた。
視界がやけに、くっきりしているのだ。それに、音がとてもクリアに聞こえる。空気が肌を刺す感じがしてしまう。
まるで、全身で何かを予感しているみたいだった。
どうか、今日1日が無事に終わりますように。
そして新しい1日を、希望を持って迎えられますように。
自分の鼓動を聞きながら、私は祈るような気持ちで少し長めの瞬きをした。




