55
乾いた喉元を、湿った空気が通り抜けていく。
私の視線は、目の前の壁画に釘付けになっていた。
「リアちゃん・・・?」
「・・・教授・・・」
掠れた声しか出ない自分が可笑しい。
自分の事をどこか遠くから冷静に見ている私の所へ、教授が真剣な目をして近づいてきた。
「リアちゃんには、その壁画はどんなふうに見えるの?」
「どんな・・・?」
質問の意味がよく分からなくて、彼の言葉をそのまま呟く。
でも、いつもにこやかな彼が真剣な顔を崩さない。
きっと大事な話をしてるんだろうと思った私は、呟きながらも頭をフル回転させる。
すると、彼が先に話し始めた。
「僕みたいな研究者の間では、いろんな解釈の仕方があるんだ。
・・・例えば、これは古代の人々が作り上げた神話なんだ、とか。
古代人の生活を描いた記録なんだ、とか・・・どれも決定打に欠けるんだけど」
「・・・そうなんだ・・・」
彼の話に、曖昧に頷く。
頭の中では、大昔の文明が栄えた場所や、大きな岩を積み上げて作られた物の目的なんかが解明されていない、なんて話が次々と思い浮かんだ。どれもこれも、向こうの世界の話だ。
あれだけの高度な文明でも分からないことがあるんだから、この世界に溢れるほどの謎が転がっていたって、全く不思議じゃない。
個人的には、謎は謎のままだからワクワクするのに、なんて思ってたけど、今回ばかりはそうもいかない、かも知れない。
「この人は、たぶん、私のいた世界の人じゃない・・・と思うんですけど・・・」
そう言いながら、私は壁画の中の人間を指差す。
「この目の色・・・どこにも、いないんじゃないかな・・・」
思い出しながら呟いた私の言葉に、教授が壁画にもう一歩近づいた。
「・・・不思議な色だね。
目の色まで気にしたこと、なかったな・・・何色なんだろう」
「うーんと・・・あ・・・」
描かれた目に指先で触れた私は、その部分がざらついて粉っぽいことに気づく。
岩を削って出た砂みたいなものだろう、と思って指先を擦り合わせてその粉を落として・・・そして、自分の目を疑った。
指先から、キラキラと何かが落ちていくのだ。
「え・・・?!」
「どうしたの?」
思わず声を発した私に、教授が訝しげに言葉をかける。
もしかしたらランプの光の具合で、彼にはこの煌く何かが見えてないのかも知れない。
私は顔を上げて彼を見た。
そして、自分の指先を見る。
・・・やっぱり・・・。
「この人の目、金色です・・・ほら、」
言いながら、金色の粉のついた指を、彼に見せた。
「・・・ほんとだ・・・」
彼は一瞬目を見開いて驚いた後、呆然と呟いている。
そんな彼を横目に、私は確信していた。
「金色の目の人、あっちにはいないと思います」
もしかしたら、私みたいに色素が薄くて、光の加減で何色にも見える人はいるかも知れないけど、金色一色の目をした人はいないと思う。
私は力を込めて言葉を紡いで、壁画の中の人を見つめていた。
すると黙っていた彼が、おもむろに壁画に手を伸ばす。
その手には、小さなライトが握られていた。
光を目の部分に当てると、キラキラと何かが光を反射する。
まるでアイシャドウみたいだ。
「・・・キラキラする粉と、黄色い何かを混ぜてるみたいだね。
黄色い色は、他の部分にも使われてるからいいとして・・・この粉は・・・」
呟きながら、彼がそっと指先を滑らせた。
そして、指についた粉を擦り合わせて見つめている。
「あ、そっか。星の石だ」
唐突に閃いたのか、ぽろ、と言葉が零れ出たのを聞いて、私は自分の指についたままの粉を見つめ直した。
言われてみれば、光を受けて輝くところなんか、ダイヤモンドらしいけど・・・。
「・・・でも・・・」
心の中で頷いていた私を振り返って、彼が表情を曇らせた。
「この世界にも、金色の目なんて・・・」
「・・・金色の目・・・金色の・・・。
・・・あっ」
彼の力にない言葉を繰り返して、私は息を飲んだ。
いるじゃないか。身近に。
「シュウさん、目が金色になったことあるって・・・」
「あ・・・」
思わず早口になって言うと、彼がはっとしたように声を漏らす。
そう、シュウさんは以前話していたのだ。
王宮の小火騒ぎの時に、飛び降りたお姉ちゃんを受け止めようとして、気づいたら目が金色に変化していたらしい。
しかもその時、お姉ちゃんの体がふわりと羽になったかのように、落下速度を緩めて腕の中に落ちて来て・・・。
そんな不思議な現象が、この壁画の得体の知れない不思議さと重なると感じてしまうのは、私の気のせいなんだろうか。
ちらりと隣に視線を遣ると、表情を強張らせた彼も私のことを見ていた。
「・・・そうだね、エル君・・・」
「あの、教授・・・」
私は思い切って、壁画を見て感じていたことを全て話してみることにする。
そう決めた瞬間に、頭の中がすっと冷えていって、自分の鼓動の音が耳元で響いた。
脳裏に昨日のホタルが蘇る。
肌を駆け上がってくる、ぞわぞわとした感覚に、思わず腕を擦った。
本当はジェイドさんと、教授には人の目がない環境で・・・例えば王都のお屋敷に戻ってから、シュウさんも呼んで皆で食事をしながら・・・と話していたのだ。
でも、目の前に壁画がある今の方がいいような気がしてしまう。
この気持ちごと、教授に伝えたくなってしまった。
・・・ごめんねジェイドさん。
心の中で、早く王都に戻るために仕事と戦っているであろう彼に謝ってから、私の言葉を待っている様子の教授に向かって口を開く。
「・・・上手く説明出来るか、分からないんですけど・・・」
「・・・なるほど」
彼は私の話に小さく頷いた。
「ごめんなさい、分かりづらかったと思うんですけど・・・」
言葉を探りながら話をした私は、やっぱり上手く伝えられなかったような気がしてしまって、思わず謝っていた。
それに軽く首を振った彼は、私を見て表情を強張らせたまま言った。
不思議そうな顔をされなかったということは、この言葉に出来ない気味の悪さや不思議さも、それなりには伝わったと思っていいんだろうか。
「この壁画を描いた頃の人間は、この世界と違う世界を、繋げる方法を知ってた・・・」
そう言って壁画を見る彼。
「・・・世界を、繋げる・・・」
しっかりした彼の言葉を聞いて、何かが腑に堕ちたんじゃないか、とその表情を見つめてしまう。
私にはまだ、彼の言いたいことが全く分からなかった。
「・・・そう。
どうやってか、ホタルを2つぶつけて、竜巻を起こして・・・」
彼は壁画の中の人間を指差して言うと、私に背を向けて、胡坐をかいて座っていたところへと歩いて行ってしまう。
なにやら身を屈めて、何かを探しているようだった。
「その後の嵐の中、この世界と別の世界が繋がるんだろうね。
・・・君らの言う通り、渡り人が嵐の中やって来るのも同じ理屈なんだと思う・・・」
「・・・ホタルの生み出した嵐の中、私は渡ってきた・・・」
彼の言葉に、私はかすかな声で呟いて、視線を壁画へ向けた。
・・・でも昨日は、同じようにして嵐が起きたのに、人じゃなくてネズミの彼が・・・それなら、人とは限らないってこと・・・?
その証拠、とは言えないくらいに不確かだけど、この壁画には列車や高層ビルが描かれている。
彼の靴の音だけが静かに響く中、私は自分と対話していた。
「うん。
気候や天気によって、エルゴンの値が変わるみたいなんだ。
いや、もしかしたら、そっちをエルゴンが左右してるのかも知れないけど・・・。
きっと、ホタルがぶつかり合ったことが、その辺りの空を漂うエルゴンの濃度か何かに
影響したんだと思う・・・」
「・・・そうなんですか?」
起きたことは見て知っているけど、何がどうなって起きたのかは、全く考えもしなかった。
いつだって、目の前のことを受け止めるので精一杯だ。
私は感嘆を込めて言ってから、ホタルが消えた後、空気が揺れたような違和感を感じたことを思い出して腕を擦る。
・・・もしかしたらあの違和感、エルゴンの濃度と関係あるのかな・・・。
・・・ああ、今すぐジェイドさんと話したい。
そんな気持ちを抑えて、私は教授の言葉を待つ。
「・・・昨日、王都では暗くなってから雨が降り出した。
僕はその時ちょうど、外に出てエルゴンの濃度を調べてて・・・。
・・・そうするのには実は理由があるんだけど、それはまた王都に戻ってからね。
ともかく、雨が降り出す少し前に、空気中のエルゴンの値が変わったのを見たんだ」
彼の説明に、私はどんな言葉で相槌を打てばいいのか分からなかった。
ただ、真剣な眼差しを向けて、静かに続きを聞こうと深呼吸する。
「だから、自分の体験も踏まえて君の話を聞いて、やっと解った」
その表情が今まで見たことのないくらいに、無表情に近いくらいに緊迫している。
にこやかな彼が顔から表情を奪われるほどの何かに気づいたのだと、私は頭のどこかで思いながら、その言葉を聞いていた。
洞窟の中には湿った空気が流れているのに、私達を包む空気は乾いている。
だって、口の中がカラカラだ。
ゆっくりと瞬きをすると、目が痛んだ。
そんな中、何かが蠢いているような気配を感じて視線を投げると、手にしたままだったランプに火を入れた彼が、それをそっと壁画の側に置くところだった。
・・・でもその場所は、端の方だから照らす必要は・・・。
そう思って口にしようとした時だ。
「・・・っ」
私は絶句して、息を飲んだ。
背中を冷たいものを伝う気がして、気分が悪いのに、私は身じろぎすら出来ない。
そして息をするのも忘れて、目の前の光景を必死に受け止めた。
隣で彼が、小さく息を吐くのを聞く。
「・・・見たいと言ってたのは、本に載ってた部分だけかと思ってたから・・・」
囁かれた言葉に、私はぎこちなく小さく頷いた。
「はい・・・。
あの本には、その壁画しか載ってませんでしたから・・・。
・・・こっちにも、あったんですね・・・」
「うん」
ランプに照らされて目の前に広がったのは、もう1つの壁画。
現れたそれを見て、私は息を飲んで絶句した。
なぜなら、そこには彼の話がそのままに再現されていたから。
2つを繋ぎ合わせて眺めると、金色の目をした人の横には、2つのホタルと竜巻が描かれていて、その向こうには列車や高層ビル、信号機などが存在している。
そして、追加されたランプが照らす都会的な背景を追っていくと、新たに描かれたものが目に入ってくるのだ。
まるで、誰かがひと繋がりの物語を語っているのを描いたかのように。
「・・・この、もやもやした何かが、空気の揺らぎで・・・。
このたくさんある線が、嵐・・・?」
私は自分の鼓動の音が大きく強くなるのを感じながら、それでも恐怖心や気味の悪さは欠片も湧き上がってくることはなかった。
「2つのホタルがぶつかって消滅する瞬間の衝撃が、空気中のエルゴンに働きかける。
そして竜巻が起こって、やがてそれは嵐を呼んで・・・。
・・・もう少しだね。もう少しで、僕らの手で彼女を呼んであげられる」
彼の呟きに頷きながらも、私は目の前に広がるものに手を伸ばしていた。
最初のものと同じように、つるりと平坦な部分と、ざらついた部分があるのに気づく。
触った感触だと、どちらも変わりはないように思える。
「リアちゃん・・・」
唐突にかけられた声に、私は我に返って振り返った。
すると、ぺたぺたと物怖じせずに触る私を、彼が苦笑して見ていたのに気づく。
「あ・・・」
思わず呆然と声を漏らすと、彼はますます笑みを深くした。
「あんまりべたべた、触っちゃダメだよ」
「ご、ごめんなさい・・・」
・・・さっき聞いたんだけど、なんて言えるはずもなく、私はそっと謝った。
「ううん、いいよ。
触ったから解ったことも、あったでしょ?」
緊張が解けたのか、彼がいつものように微笑んで言葉を紡ぐ。
「色が入ってなくても、ざらざらしてる場所には、色が入ってたみたいなんだ。
それは、触らないと気がつけないことだと思うよ」
言われて私は、ぷぅ、と頬を膨らませた。
「・・・知ってたんですか・・・?」
すると彼は苦笑して、ごめんね、とひと言をくれる。
私はそれに息を吐いてから、肩から力を抜いて指を滑らせた。
そして、あれ、と気がつく。
そのまま指を止めて彼を見ると、彼も私を見ていた。
「ここ、なんか、大きな円か何かが・・・」
円状に、結構な大きさでざらついた部分があるのだ。
ぐるぐると指を滑らせてから、何かついていないかを見てみるけど、そこについていたのは、さらさらとした砂だけ。
「・・・なんだろ・・・」
何かを表しているんだろう、と想像してみるけど、もうフル回転させて力尽きた私の頭では、ちょっと無理があるみたいだ。
考えても考えても、何も浮かんではこなかった。
「うーん・・・なんだろうね・・・」
彼も隣に来て、その部分を指でなぞるけど、特に何か思いつく様子もない。
「・・・ま、いいんじゃないかな」
困ったように微笑んだカオが、ジェイドさんを彷彿をさせて、私は思わず顔を顰めてしまった。
「・・・なんか、ジェイドさんみたい・・・」
「言っとくけど、僕の方が原型なんだからね」
そんなことを言う私に、頬を膨らませた彼が言い返す。
・・・でも仕事中はジェイドさんの方が大人っぽいけどね、なんて、言えもしない感想を抱いて、私はこっそり頬を緩めたのだった。
「あー疲れた~・・・」
いい加減集中力が切れてきたようで、私はぐっと両手を伸ばす。
そのまま酸素を脳まで届けていると、彼も頷いて首をこきこきと鳴らしていた。
「そうだね、そろそろ帰ろっか・・・」
そう言った彼が、地面に置いてあったランプを手にしようと屈んだ、その刹那。
私は自分の手が冷たくなっているのに気づいて、思わず擦ろうと目を落とした。
そして、またしても息を飲んだ。
「・・・やだ、なに・・・?!」
凝視した自分の手、小指の付け根に光る指輪が、青白く輝きだしたのだ。
ランプの光を受けているのとは違う。
「リアちゃん・・・?!」
彼が珍しく衝撃を受けているのか、掠れた声を出して私の肩を掴んだ。
自分の身に起こったことで頭がいっぱいの私は、彼のことを気にかけている余裕はもうない。
慌てふためいて指輪を外そうとするけど、あまりにも冷たくて、とてもじゃないけど素手では触れられなくて思わず手を引っ込める。
そして、冷気が白く漂っているのを見てしまったら、もうこれは尋常じゃないということを嫌でも悟ってしまった。
このまま凍傷にでもなったら、最悪指を切り落とす必要だって出てくるのだ。いや、指一本で済んだら運が良かったと思うべきかも知れない。
雪の多い国で育った私は、濡れたタオルを振り回したら凍る、というのに似た実験結果を、生活の中で目の当たりにすることだって多かった。
だから、寒さや冷たさから身を守ることの大切さも、分かってるつもりだ。
そうやって、ずいぶん久しぶりに頭の中を駆け巡ったものを整理して、はた、と気がついた。
・・・不思議と、指輪を嵌めている手が痛くも何ともないのだ。
ただ、雪の日に手袋もせずに外を歩いているくらいの冷たさを感じるくらいだ。
そのことに気がついた私は、途端に最悪の事態を想像するのをやめてしまった。
そうして身に迫る危機よりも、不思議さに気を取られた私は、もう頭の中が混乱することもなく静かにその光景を見ている。
私は、教授が固唾を飲んで見守る中、ただ、その場に立ち尽くしていた。
そして、その指輪にも変化が起こる。
いつか見た無重力状態の映像の、水が空中へと浮かび上がる時のように、青白い光の塊が、ぷくり、と指輪から浮かび上がった。
それと同時に、私の手から冷たさが霧散していく。
ほっと息を吐いた私は、目の前に浮かぶ青白いものに、赤い花の髪留めから浮かび上がったホタルを思い出していた・・・。




