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軽く息が上がって、首元がじんわりと汗ばんでいるのを感じて、私は着ていたコートのボタンを外して風を入れる。
隣を歩く教授は、顔色ひとつ変えず、というかむしろ目をキラキラさせていた。鼻唄まで聞こえてきそうな、そう、子どもが遠足にきたみたいな表情だ。
さすが学者さん、興味が湧いたもののためには疲れなど感じないらしい。
私は背中のバックパックに入れておいたボトルを取り出して、中身を少しだけ口に含む。
ひんやりとした水がすっと喉を通る感覚が心地良くて、ほぅ、と息を吐いた。
小道はぼこぼこして歩きにくいから、歩き始めてからずっと、私の目は地面ばかりを見ていて、真剣に歩きすぎたのか、なんだか目がチカチカしてきた。
「・・・リアちゃん、だいじょぶ?
もうちょっとだからね~」
教授が気遣わしげに尋ねてきて、私はやっと顔を上げる。
だけど、地面から目を離すのが怖いから、ほんの一瞬だけ。
「ん、大丈夫、です」
土の盛り上がった部分を避けるようにして足を進めていると、教授の足が止まった。
それにつられて、私も立ち止まって彼を見上げる。
「ほら、」
そこには、遠くを見て指を差す彼の姿があった。
「・・・見えてきた」
それは深い森を抜けた場所、吹き抜けのように青空が見える、断崖絶壁の麓。
間近で壁の伸びる方を見上げれば、そのままひっくり返ってしまうかと思うくらい、その終わりが見えなかった。
くらくらして首を振っていると、教授が近づいてきて言った。
「この断崖絶壁をくり抜いた、洞窟みたいな場所があるんだ。
壁画は、その中の壁に描かれてる。
・・・おいで、こっち」
彼が私の背中をそっと押して、歩調を合わせて歩き出す。
断崖に沿って歩いていくと、やがてぽっかりと壁が口を開けているような、私の背よりもはるかに天井の高そうな、洞窟の入り口が見えてきた。
「・・・あれ、でも・・・」
思わず言葉がついて出る。
立ち入り禁止の看板と、蜘蛛の巣を張り巡らせたように鎖で、入り口が封鎖してあるのに気づいたからだ。
「大丈夫」
彼はそう言うと、背負っていた荷物の中から一通の封筒を取り出しながら言う。
「ちゃんと白の騎士団から承諾を得て、王立学校の教授が正式な調査に来たんだよ。
最近綺麗に変身しつつある、可愛い助手を連れてね~」
指で摘んで、ひらひらと靡かせたそれは、立派な許可証が納められている封筒だったらしい。
そうか、と私は納得した。
・・・だから教授は、1日遅れて現地集合するって言ってたのか・・・。
それにはきっと、ジェイドさんの根回しがあったことは簡単に想像がつく。
・・・私的な目的で、私的にいろいろと調査を試みているってこと、ちゃんと白の騎士団は知ってるんだろうか・・・。
いやそれもきっと知っていて、お姉ちゃんとシュウさんのためにひと肌脱いでるって可能性が濃い気がする・・・。
なんとも表現しがたい複雑な気持ちを抱えていると、彼が封筒をしまいながら私に言った。
「鍵も預かってきたから、早速中に入って壁画を拝んでみよう」
「はい」
・・・ここまで来たら、状況も方法も気にしたって仕方ないか。
私は意気揚々と鎖を外している彼の背中に返事をして、暗闇の向こうにあるはずの壁画に意識を向けることにした。
許可されているのは僕と助手の2名だけだから、と、彼は入る前と同じように鎖をしてからランプに火をつける。
小さな灯りでも、外からの光が差さない洞窟の中では、私の足元を照らしてくれるには十分だ。
時折炎が揺れると私の影も一緒に揺れる。
最初は眩暈を誘われそうだったけど、薄暗さに目が慣れるに従って、真っ直ぐに前を向けるようになってきた。
「壁画はすぐそこだよ」
ゴツゴツした岩に囲まれて声が反響するからか、彼が囁くような小さな声で教えてくれる。
私はそれに頷いて、湿気の多い足元が滑らないように注意を払いながら、慎重に彼の背中を追いかけた。
「・・・わ・・・!」
思わず呟きが漏れた口を、慌てて塞ぐ。
声が反響したら、煩いからだ。
足元にばかり注意を払っていた私は、彼が立ち止まった気配に視線を上げたのだ。
そうしたら急に、視界いっぱいに鮮やかな壁画が現れた。
「・・・すごい・・・」
小声で呟いたのに、彼にはしっかり聞こえていたのだろう、隣で何度も頷いているのが視界の隅に映りこんでいる。
しん、と静まり返った洞窟の中で、早鐘のように打ち付ける自分の鼓動が響いているような気がして、深呼吸を繰り返した。
こんなふうに震えていたら、躓いたりして壁画に傷を付けかねない。
そんな想像をして、ありえる、と納得してしまった私は、その場から動かずにしばらく壁画を眺めていることにした。
「本で見た通りだ・・・」
ランプの明かりで見渡せる限り、壁一面に描かれているのは、高層ビルや列車、飛行機、車・・・鉄塔のようなものも見える。
丸い何かが3つ連なったあれは、もしかして信号機だろうか・・・。
見覚えのあるものばかり、でも統一感のない絵に、なんだか違和感を感じてしまう。
これを描いた人は、よっぽど芸術センスに溢れていたんだろう・・・私みたいなセンスの欠片もない人間には理解出来そうにない。
絵を見て、もとの世界を連想している私に、彼がおもむろに口を開いた。
「・・・リアちゃんは、どうしてこの壁画を見たかったの?
僕みたいな、研究者にとっては興味深いものなんだけどね。
リアちゃんみたいな年頃の女の子が、興味を持つなんて意外でさ・・・」
そして小さく「ごめんね、でもどうしても不思議で」と小さく呟くのを聞いた私は、壁画から視線を剥がして、遠巻きに壁を見ている彼に向かってそっと囁く。
「・・・私の世界にあったものがたくさん、描かれてるんです・・・。
確認するのが私1人だから、絶対なんて、言えないんですけどね・・・」
「そうなの?」
私の言葉を聞いた瞬間、彼の表情が一変した。
興味スイッチが入ったのが分かって、なんとなく腰が引けてしまうのが情けない。
気の済むまで問い詰められたりしたら、普段まともに使ってないから、簡単に頭がパンクしてしまいそうで怖い。
「はい・・・だから本で見つけた時は、本当にびっくりして。
それもあって、ジェイドさんの視察にくっついて来ちゃったんですけど・・・」
そっと言葉を紡ぐと、彼が生返事をしたのが聞こえた。
きっと何かを考えているんだろうと思って、私は肩を竦めて壁画に近寄っていく。
いつの間にか手の震えや、叩きつけるような鼓動の音は気にならなくなっていた。
「・・・日本かな・・・でも・・・この信号機は、欧米かも・・・」
見慣れた物に視線を走らせて考えていると、絵の中のある部分が目に付いた。
「なに、これ・・・?」
思わず手を触れそうになって、手を握りこむ。
・・・あぶなかった。ジェイドさんに、慎重になれって言われたばっかり・・・。
私は深呼吸をして、まだ何か考えている様子の彼に向かって尋ねた。
「あの、ちょっとだけ触ってみてもいいですか?」
小さな声で呼びかけたつもりなのに、思いの外声が反響してしまうのに身を小さくする。
彼はそんなことは気にならないくらい、思考の海に沈んでしまったようだ。
私を一瞥して一度だけ頷くと、その場に胡坐をかいて座り込んでしまった。
咄嗟に、大丈夫ですか、と声をかけそうになるけど、私は何も言わずに壁画に向き直る。
そしてそっと、傷を付けないように指先で岩肌に触れてみた。
「・・・ザラザラしてる・・・」
何も描かれていない場所は、見た目に反して指先に引っかかりを感じないけど、絵の具で塗られたような、色の付いた線の部分は、触れるとざらついていて、時折ちくりとするのだ。
そして、なんとなくいろんな場所に触れているうちに、もしかしたら少し削ってからの方が、岩肌に色を入れるには良かったのかも知れない、と思った。
・・・ということは、と思い至る。
今色が付いていない場所でも、描かれた当時は鮮やかな色が入れられていたかも知れない。
私は何かありそうな、空白になっている場所を手当たり次第に触っていくと、ざらざらした部分が小さく円を描くようになっているのに気づく。
よく見れば、薄く線が引いてあるようだった。
辿っていくと、小さな円から、段々と線の広がりの幅が大きくなっていくようでもある。
「なんだろこれ・・・ぐるぐる・・・ぐるぐる・・・」
呟きながら、ざらついた岩肌の上を、小さな円を描くようにくるくると指を滑らせる。
「・・・ぐるぐる・・・ぐるぐる・・・。
・・・あっ!」
小さな悲鳴が、口からついて出た。
慌てて口を塞いで振り返ると、彼はすっかり1人の世界に入り込んでしまったのか、私には見向きもしないようだ。
そんな彼にほっとしながらも、私は悲鳴の理由を呟いていた。
「これ・・・竜巻だ・・・」
円を描くような線が、辿っていった先では最初よりも上に上がって、円の開きも大きいのだ。
形からして、竜巻だろうと想像がつく。
「でもなんで・・・全然先進国っぽくないけど・・・」
言葉の解説を催促する声が聞こえてこないことに安心しながら、私はひとりごちる。
竜巻なんて、列車や高層ビルと並べて描くようなことだろうか。
見慣れた物を並べて眺めている私からすると、この取り合わせは違和感を抱いてしまう。
「・・・ん・・・?」
そんなことを考えて眉をひそめていると、竜巻の近くに、人に見える何かが描かれていることに気づいた。
変な服を着ている。古代人だろうか。
「・・・あ、でも、なんだろこれ・・・」
古代人て、あっちで言う原始人みたいなものなのかな・・・と妙に納得しそうになったところで、私は描かれた人の隣に、小さな丸いものが2つ、あともう少しで綺麗に重なるように描かれているのを見つけた。
「・・・っ」
息を飲んだ瞬間に、鳥肌が立つ。
きっとこれは、昨日見たばかりのものだ。
・・・ここにジェイドさんがいてくれたら、一緒に確認出来たのに。
仕方のないことを思いながらも、私は鳥肌でぷつぷつした腕を一生懸命擦った。
なんだか寒い。
人らしきものの横に描かれた小さな丸いもの、それはたぶん、ホタルだ。
それも、2つ。
昨日見たばかりの光景が歴史的な壁画に描かれているという偶然に、なんだか得体の知れないものを感じてしまうのは、人として当たり前の反応だろう。
いや、こんな経験をした人なんて、私以外に今までいたとも思えないけど・・・。
そんなことを考えながら、これをどう教授に説明して理解してもらおうかと視線を彷徨わせていると、もうひとつ、大事なことに気がついた。
「・・・あ・・・!」
思い切り叫ばなかったのは、かろうじて私のどこかがまだ冷静さを保っているからか。
私は気を緩めたら大声で教授を呼んでしまいそうだと思いながら、必死に呼吸を整える。
昨日も今日も、驚くことばっかりだ・・・。
「・・・ジェイドさんも、仕事放り出して来てもらえば良かったかも・・・」
何もかもをかなぐり捨てた選択肢を思い浮かべて、私はため息をついた。
気づいたもうひとつのことは、竜巻だ。
フラッシュバックしたのは、昨日の夕方、ウェイルズさんのお屋敷の庭に、ジェイドさんと2人で佇んでいた時の光景。
私の髪留めから浮かび上がったホタルに、どこからか引き寄せられるようにしてやって来た別のホタルがぶつかって、眩い光を放ったかと思った瞬間に2つとも消滅した。
そして、旋風が起きた。
風を切る音がして振り向いた私は、どんどん大きくなるそれに飲み込まれて、弾き飛ばされてしまったのだ。
咄嗟に私を守ろうと抱き込んだ、ジェイドさんごと・・・。
痺れたように思うように動かなくなった頭で、私は考えを巡らせる。
・・・これは偶然の一致?
小さい円から段々と大きな円へと移ろっていくように描かれた線が、竜巻を表していると思うのは、私が自分に都合よく解釈してるから・・・?
この2つの丸いものが重なりそうで重ならない、微妙な距離感で描かれているのも、描いた人が一瞬筆をブレさせたせい・・・?
私は自分の解釈を打ち消そうとしながらも、体の芯から湧き上がってくる、気味の悪い感覚を持て余して壁画と向かい合い、佇んでいた・・・。




