52
「何をしてるんですあなたは!」
ほらね、怒られた。
「ごめんなさ・・・」
「ああもう、こんなにびしょ濡れになって・・・!」
謝りかけた私にお小言を被せながらも、ジェイドさんはバスタオルで包んでくれる。
「ロウファがいますけど、一度髪を解きますよ?
・・・気にしませんよね?」
「私は、全然気にしませんけど・・・」
言葉の前半を向けられた私は、ふたつ返事で頷いた。
一方言葉の後半を向けられた紅の団長はというと、椅子に腰掛けたまま「どうぞー」ととても軽い返事と一緒に手をぱたぱたさせる。
ルルゼというものがありながら、他の女性の髪を下ろした姿を目にしても問題ないんだろうか・・・。
この世界の常識に欠ける私には、想像すら出来ないけど、とりあえず本人がいいと言ってるわけだし、あんまり気にしないようにしよう。
そんなことを思っていると、ジェイドさんがさっき結い直したばかりの髪を解いて、雨に打たれて重くなった髪から、タオルで丁寧に水分を吸い取ってくれる。
「ほんとにもう、もう少し慎重になりなさい。
傘だって用意出来るんですから・・・」
「はい、ごめんなさい」
素直に頷いて謝ると、それ以上言葉を向けるのは諦めたのか、彼のため息が聞こえる。
黙ったまま手際よく世話をされて、私は拾ってきた物についてどう話をするか考えていた。
一度部屋に戻って着替えた私は、再び食堂の椅子に腰掛けた。
ジェイドさんと紅の団長は、すでに仕事の話を終えていたようで、私が戻るとすぐに、2人の視線が向けられてなんとなく落ち着かない気持ちになる。
とりあえず落ち着こうと、用意されていた温かいお茶を勧められるまま口に含んで、じんわりと熱が体を巡る感覚にほっと息をつく。
すると、隣に腰掛けていたジェイドさんが私の膝にブランケットをかけてくれた。ついでに、とでも言うかのように、私が庭で拾い上げた物を膝に乗せて。
私は受け取ったそれを指でつつきながら、自分で思っているよりも体が冷えていることを自覚して、思わず手を擦り合わせた。
彼に叱られて当然だと、今さらながら自分の無鉄砲さに反省する。
「・・・さっきは、ごめんなさい」
ありがとう、の意味も込めて呟くと、隣から手が伸びてきて頭をぽふぽふされた。
「それで、何があったんです?」
ジェイドさんが言ったのとほぼ同時に、食堂に入ってきたメイドさん達に無意識のうちに、ちらりと視線を投げる。
表情を変えたつもりはなかったのに、人に聞かれない方が良さそうだと思ったのが伝わっていたんだろうか、紅の団長が食事を運び終えたメイドさん達に、呼ぶまで来なくて良い、というようなことを言ってから私を見た。
「・・・これ・・・なんですけど・・・」
膝の上に乗せたそれを持ち上げて、思い切ってテーブルの上に乗せる。
食事を前にお行儀が悪いとは思うものの、見せなければ説明も出来ない。
「ぬいぐるみ、だよな」
団長が訝しげに覗き込んでくる。
ジェイドさんは、ただ静かに私の言葉を待っているようだった。
鼓動が少しずつ速くなってくるのを感じて、深呼吸する。
・・・大丈夫、きっと信じてもらえる。
そう思い込むことにして、私は団長に向かって頷いてから口を開く。
「ぬいぐるみなんですけど・・・。
これ、私の世界のものなんです・・・」
「・・・どうして、そう思うんです?」
並べられた食事が良い匂いを漂わせる中、テーブルには微妙な緊張感が横たわっていた。
外の嵐は今も続いていて、時折強風が窓を揺らして、大粒の雨が音を立てる。
雷はもう遠ざかっているようだけど、それでも雷鳴がゴロゴロと聞こえてきた。
混沌とした状況から切り離されたように静かな食堂で、ジェイドさんに視線を投げる。
表情は少し強張ってるけど、それでも私の言葉を受け止めようとしてくれてるのを感じて、私は震えそうになる喉に力を入れた。
「これ・・・私のいた世界では、とっても有名で人気があるの。
少なくとも、私やお姉ちゃんの暮らしてた国みたいな・・・ええと・・・、
ある程度の文明を持った国の人だったら、知らない人はいないくらい、有名で・・・」
そう、私が拾い上げたのは有名なキャラクターのぬいぐるみ。
夢の国の、黒いネズミの住人だ。
テーマパークなんて単語は、きっとこの世界には存在しないだろうから、どうしても抽象的な言葉でしか説明出来ない自分がもどかしい。
理解してもらえないかも知れない、そんな不安もよぎるけど、私にはこれが世界を渡って現れたものなんだという確信があった。
だって、あっちの世界でも模造品なんかが出回って問題になったりもしてるけど、このぬいぐるみには、ちゃんと付いてるのだ。
日本語と英語で、何かが書かれていたらしいタグが。
もう擦り切れて、何と書いてあるのかはよく分からないけど、きっと洗濯表示か取り扱いの注意事項か何かだろう。
昂ぶった気持ちだけで言葉を紡いだ私に、ジェイドさんが相槌を打ってくれる。
「・・・なるほど・・・」
私はそれを片耳で受け取って、さらに言葉を並べた。
「ホタルがぶつかって消えたのと同じ場所に落ちてたの。
髪留めも隣にあったから、場所は間違ってないと思う・・・。
・・・きっと、偶然じゃない・・・」
そこまで言って、私はぬいぐるみを抱きしめる。
きっと誰かの物だったんだろう。大切にされてたなら、思い出のぬいぐるみが突然消えて、きっと戸惑ってるんだろうな。
そんなことを思いながら、目を閉じる。
ちくりと刺す胸の痛みを久しぶりに感じて、向こうにいる人達に思いを馳せた。
すると、団長がめずらしく低い声で、真面目に言った。
「・・・やっぱり、異世界から人が渡ってくるのと、同じ原理・・・?」
「そうみたいですね・・・」
ジェイドさんがその言葉に頷いて、私は小首を傾げた。
私の腕の中で、ぬいぐるみだけはニッコリと笑っている。
彼らは私が着替えている間に、今日庭で起きた一連の出来事を共有していたんだそうだ。
ジェイドさんは、見たことを。団長は、私達が倒れていた時のことを話し合って。
そして、私が拾ってきた物と、その出所を聞いて「やっぱり・・・」と結論付けたらしい。
「・・・つまり、」
ジェイドさんがいろいろ並べた言葉を整理しようと、口を開く。
「ホタル同士が接触して発生する嵐が、渡り人の現れる条件になっている・・・」
「・・・渡り人の・・・」
突きつけられた仮説に、私は半ば呆然と呟いた。
「これは、結構信憑性がありますよ。
まず、私達が直接この目で見てきた光景は事実ですし・・・ロウファ、」
彼が団長に視線を投げると、団長が少し表情を曇らせる。
「・・・オレも、見たことがあるんだ。ウチの庭で、ホタルを・・・。
まあ、それ自体はこの街じゃ天地がひっくり返るほどの出来事でもないんだけど」
いつもの軽い口調をどこかへ置いてきてしまったのか、団長の素顔が覗いていることに驚いて、思わず凝視してしまう。
団長は、そんな私に気づかない様子で言葉を並べた。
「その日・・・ホタルを見てからどれくらい経ってからなのかは覚えてないけど、
庭に渡り人が現れたらしい。拾ったのは、オレじゃないんだけどさ・・・」
「この家にも、渡り人がいるんですか?!」
予想もしなかったことを聞いて、私は嬉しさに思わず身を乗り出した。
もし今もいるなら、ぜひ会いたい。
そんな思いが滲み出てしまっていたのか、隣でジェイドさんが苦笑いしているのが、視界の隅に入り込んだ。
向かいに座った団長は、そんな私を一瞥すると首を振る。
その表情がルルゼの目の話をしていた時の彼を思い起こさせて、私はなんとなく、これは良い話ではなかったんだ、と思った。
ジェイドさんの苦笑いの意味を悟って、喜びに上がっていた口角が少しずつ落ちていくのを感じながら、私は団長の言葉を待つしかない。
「・・・雑用ちゃんも知ってるでしょ。消滅した渡り人のこと」
「覚えてますか?」
ジェイドさんが穏やかな口調で確認するのに、私は記憶を辿ってから頷いた。
辿り着いたのは、ホルンの街での記憶。
あの時、渡り人が消滅してしまうことを知ったんだ。彼の話では、お姉ちゃんとシュウさんがその場にいて、男の子が消滅してしまったのに引き摺られるようにして、お姉ちゃんまで消えかけたという話だったけど・・・。
思い出して頷くと、彼が少し椅子をずらして近寄って、私の背に手を当てる。
「その時の消滅してしまった渡り人が、この家の子どもだったんです」
「え・・・」
小さく目を見開いた私を見て、団長が頷いた。
ジェイドさんの手が、背中を行ったり来たりしている。
「もともとオレは、そんなに興味がなかったんだけどさ・・・。
家族に迎え入れた奴がいなくなったって聞いたら、やっぱりいい気分はしないよね。
まあ、両親になった兄夫婦の絶望は、それとは比べ物にならなかっただろうけど」
「ごめんなさい、私・・・」
「あぁ、大丈夫。
今は兄夫婦も、子どもが出来て少し落ち着いたからさ」
言って微笑む団長は、今まで一番温かさが滲む、人間らしい表情をしていた。
「ああ、だからウェイルズは夕食を放り出して出て行ったんですね」
何かに納得したように、ジェイドさんがひとりごちる。
それを聞いた団長は、肩を竦めた。
「やっぱり行ったか。
義姉さんが身重で心配すぎて、オレの別荘借りたいとか言い出す始末でさ。
まあ、この街の郊外だから執務には影響してないみたいだけど・・・。
・・・やりすぎじゃない?これからが心配でならない」
小馬鹿にした感じで言いながらも、その表情は目じりが下がって優しい。
接すれば接するだけ、彼の人柄を見ることになってなんだか戸惑ってしまうな・・・。
気づけば昨日までの彼の印象とは、ほぼ真逆のところまできてしまった。
「静かな所で誰にも詮索されずに過ごした方が、彼女にはいいと思ったんでしょう。
・・・母子共に元気に過ごして下さいと、伝えておいて下さいね」
「え、自分で言えばいいじゃん」
「嫌ですよ、秘密にされてショックなんですから、これくらい仕返しさせて下さい。
あ、栄養のつく物を贈りましょうか」
「うわ、嫌味な奴だねー」
「あなたに言われたくありませんよ」
「え、オレのは仕事だもん。ジェイドのは素でしょ」
目の前で飛び交う言葉の応酬に、私は半ば呆れてこっそりと息を吐いた。
「・・・話が逸れましたね」
一連のやり取りに気が済んだのか、ジェイドさんが話題を元に戻そうと口を開く。
「ロウファは、私達のしていることを、ほとんど全て知ってますね?」
「ん?ああ・・・子守ちゃんを連れ戻そうっていう、アレでしょ?」
何の前触れもないジェイドさんの話に、団長はあっさり頷いた。
慌てたのは私だけだ。
「え、知ってるって、どうして?」
咄嗟に飛び出た疑問に、彼はこれまたあっさり答えてくれる。
「言ったでしょ、紅の専売特許。
細かいことは分からないけど、大体は理解してるよ」
「・・・えー・・・」
なんとなく紅の団長のことだから、監視と諜報を駆使して探っているだろうとは思っていたけれど、まさか筒抜けだったなんて。
私の反応を意に介した様子もなく、彼は肩を竦めた。
「ま、頑張ってよ。
邪魔はしない代わりに、協力も出来ないんだけどさ」
「ええ、それは構いません。
あなたはあなたで、いろいろと忙しくしているようですから、ね」
言葉の応酬に慣れていない私でも分かる、何かを含んだ物言いに団長が息を吐く。
「わかってるよ。
今日のことはオレから陛下に報告するつもりはない。危険視もしてない。
それに本当に手が必要になったら、出来る限りのことはする・・・と思う」
ため息混じりに観念したような口調で言った団長が、言葉の終わりに私を見た。
突然視線を向けられて、内心戸惑ってしまう。
視線を揺らさずに受け止めるのが精一杯で、表情が強張ってしまったのが分かる。
そんな私を見て苦笑した団長は、口を開いた。
「・・・でも、オレが協力するとしたら、借りがある雑用ちゃんに、だからね。
彼女の件、春になったらヨロシクね。楽しみにしてるみたいだから」
言われて、それがルルゼと友達になる、というお願いのことだと理解した私は、頬を緩めて頷いた。
「私も楽しみにしてます」
団長を目が合って、どちらからともなく微笑が零れる。
私が花のように笑う彼女のことを思い出して笑顔を浮かべていると、横からジェイドさんの腕が伸びてきて、そのまま体がふわりと浮いた。
突然のことに絶句した私の膝にかかっていたブランケットの裾が、ひらひらと舞う。
そして着地したのは、なんと彼の膝の上だった。
いつものごとく、横抱きにされたまま顔を覗きこまれる。
「なっ、なっ・・・?!」
「はいはい、落ち着いて。
・・・駄目ですよ、他の人に愛想を振りまかれては困ります」
慌てて言葉が出ない私に、背中をぽんぽんと叩いてジェイドさんが囁く。
どうして今、ここでそういうことをするのジェイドさん・・・。
恥ずかしいやら困るやら、いや、呆れてしまって言葉も出ないような気持ちにも似ている。
こみ上げてきた思いを飲み込んで彼の目を見ると、空色の瞳が柔らかく細められた。
意図せず鼓動は煩く騒ぐけど、私はそれに目を瞑って団長に目を向けた。
「とにかく、王都に彼女が来たら教えて下さいね」
さっきよりも目線が上がって、団長と同じ高さで目が合う。
その表情は、少しだけ驚いているようだった。いや、呆れてるのか。
「・・・雑用ちゃん、肝が据わったねぇ・・・」
「そう、ですか?」
この際褒め言葉ということにしておこう、と頬が緩むのを抑えられない私の肩に、ジェイドさんの重たい顎が乗せられるけど、気にしないことにして。
ぬいぐるみに関する私の話を信じてもらえた安堵感と、団長とまともに話が出来て良かったと思う気持ちに浸っていた、ほんのわずかな時だ。
「・・・つばき」
ジェイドさんの硬い声に、私は我に返る。
「どうしたの?」
咄嗟にそう尋ねて、気がついた。
私が抱きしめていたぬいぐるみが、ほのかに光を放っていることに・・・。
「ジェイドさん、どうしよう・・・?!」
熱くはないけど、やっぱりどうしても気味が悪くて、指先でぬいぐるみを摘む。
すると、彼の手がそれを掴んだ。
「大丈夫です。
たぶん、渡り人の持ち物と同じようになるのでしょう・・・」
「・・・消えちゃうの・・・?」
私の持ち物もこっちに来てしばらくしたら、消えてしまったのを思い出す。
なんだか寂しくて、気づいたら思わずジェイドさんの手からネズミの彼を奪うようにして、抱きしめていた。
「せっかく来てくれたのに・・・」
自分の口から漏れた呟きに、自分で驚いてしまう。
意外と平気だと思っていたのに、いざもとの世界を垣間見てしまうと、それに縋りたくなってしまうものなのか。
だからって、今さら帰りたいだなんて思わないけど・・・。
腕の中で、光が少しずつ強くなっていく。
もう消えてしまうのは止められないんだと分かって、私はそっと腕の力を緩めた。
目の前の高さに彼を持ってくると、大きな耳の端の輪郭がぼやけ始めているのに気づく。
そしてすぐに、さらさらと、音もなく光の粒になって虚空へと流れ出す。
耳が消えて、鼻先が消えて、と見ていると、いつの間にかジェイドさんの腕が私の腰に巻きついて、離すまいと力を込めていた。
きっと、私も消えてしまうんじゃないかと、心配になってるんだろう。
お姉ちゃんの時は、男の子が消えるのを見て引き摺られたって、言ってたから・・・。
彼が私に執着してくれてると、こんな時に実感するなんて可笑しい。
ネズミの彼は、もう私が掴んでいる胴体の部分を残して虚空へと還っていった。
空いた方の手でジェイドさんの腕をそっと撫でると、いっそう力が込められて苦笑してしまう。
私がどうにかならない、という保障もないのに心が凪いでいるなんて。
・・・やっぱり、団長の言うとおりに肝が据わったんだろうか。
そんなことを考えているうちに、ネズミの彼はすっかり跡形もなく、虚空に還っていた。
一番最後の瞬間、ジェイドさんのことを考えてしまってたなんて、ちょっと薄情だったかな。
もう一度、ジェイドさんの腕を撫でる。
「・・・大丈夫、私は消えたりしないよジェイドさん・・・」
囁きは、虚空に還ることなく彼に届いただろうか。
私は彼に向けて囁いたのに、何故かその言葉が自分に跳ね返ってきて、「ああ、私は消えたくないんだな」なんて、すとんと何かが堕ちてきた。




