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「つばき」

短く、硬い声が私を呼んだ。

耳はちゃんとそれを捉えたのに、口の中が乾いてしまって声が上手く出せない私は結局、何も言えないままジェイドさんの腕にしがみ付くしかなかった。

そしてその手に彼の手が重ねられて初めて、私は自分の手が小刻みに震えているのに気づく。

これは、寒さからくるものじゃない。

目の前に浮かんだ謎の黄色い光・・・私が昼間窓越しに見たものと同じ。

得体の知れないものを目の前にして、体の底から震えが上がってくるようだ。

「昼間見たのは、これですか」

その問いかけは半ば断定的でもあって、私が肯定する前に彼が一歩前に出る。

しがみついた腕にぎゅっと力を込める私の頭をぽふぽふしてから、彼は私の手を解いた。

「・・・大丈夫ですよ」

彼が言いながら、ふわふわとその場に浮かぶ光を見据える。

「もしこれがホタルなら、害はないはずです」

「え・・・?」

彼の言葉が信じられなくて、私は眉をひそめる。

そんなことを言われても、彼の声が硬くてとてもじゃないけど大丈夫だという雰囲気じゃない。

一瞬も光から目を離さない彼の姿は、まだ私を安心させてくれそうになかった。

「ホタルって、虫じゃないんですか・・・?」

私の世界に存在する、お尻の部分が光る昆虫を思い浮かべながら呟いた。

目の前に浮かぶ光は、どう見てもアニメやマンガで目にしたことのある、人魂の類いに見える。

彼は視線をこちらに向けることなく、小さく頷いて説明してくれた。

「実際に見たことがないので、これがそうだと断言は出来ませんが・・・。

 ホタルは子どものこぶし程の大きさの光で、死者の想いが具現化したものだと・・・」

彼の言葉に、私は震え上がった。

・・・それ、あっちの世界では亡霊とかって表現されるものなんじゃないの。

絶句した私をよそに、彼はさらに言葉を並べる。

その間も、彼はホタルと呼ぶ光をまっすぐに見つめていた。

「迷信のようなものだと思っていましたが、本当に目にする日が来るとは・・・。

 ・・・ホタルの出現報告が多いことで有名なこの地域に住む者ですら、一生に一度

 見ることがあるかどうか、と言われています。

 半信半疑の者も・・・私もその中の1人でしたけれど・・・」

その間、私の目もホタルと呼ばれる光に釘付けで、彼の言葉が頭まで流れてこなかった。

全く理解出来ない。

理解の範疇を軽々と飛び越えたものが目の前で揺れている現実に、私の思考回路はショートしてしまったみたいだ。

・・・もしかしたら、ホラーなもの全般が苦手な私だから、それに拍車がかかっているのかも。

光は、私の髪留めの上でゆらゆらと小さく揺れている。

一向に動きもしないけど、消えもしない。

「・・・ほんとに、危なくない・・・?」

開いた口から、白い息が漏れた。

それを見て少し現実味が戻ってきたところで、彼が頷く。

「ええ、目撃した者がどうにかなったという事例は今までに聞いたことがありません。

 怪奇現象のようなものかとも思っていたので、少し警戒してはいましたが・・・」

まだ硬い声だけど、彼はきっぱりと大丈夫だと言った。

何も知らない私はもう、それを信じるしかないんだろう。

「害がないなら、もう、ホタルはもう放っといてお屋敷に戻ろ、ジェイドさん・・・」

怖がる必要がないと分かっても、怖いと感じる気持ちを止めることが出来ない私は、前に立つ彼の横顔に向けて言う。

でも、彼がそれに頷いてくれる様子はなかった。

まだここに立っていなくてはいけないのかという不安の波がやって来て、思わず彼の服の裾をぎゅっと掴むけど、それに対しても何も反応はない。

何か言ってくれるのを待つのももどかしくなってきた手から、もう震えは消えていたけど、気味の悪い気持ちはずっと喉元に居座っていた。

冷たい風が吹き抜けて、体の芯がかすかに震える。

そして、どうやって立っていればいいのかすら分からなくなりそうになった頃になってやっと、彼はおもむろに口を開いたのだった。

「・・・そうですね、せっかくですからもう少し観察したいところですが・・・」

「ジェイドさん?!」

やっと何か言ってくれたかと思えば、こともあろうに観察だなんて。

非難めいた言葉をぶつけた私を、彼が肩を竦めながら振り返った。

「分かっています。

 ・・・つばきは怖がりさんですねぇ」

困ったように微笑む彼の顔には、もう緊張の色も戸惑いも見つけることが出来ない。

何も危ないことはないと判断出来たからなんだということは、簡単に想像出来たけど・・・。

私は彼の、からかい半分のような言葉にも真剣に、それも何度も頷いて、彼の服の裾を強めに引っ張った。

この際ちょっとくらい伸びたって、いくらでも新しいのを買える人なんだから多めに見て欲しい。今の私は必死なのだ。

「もう気持ち悪いし、戻ろ・・・」

そして、気持ちが逸って早口になった瞬間だ。


・・・きゅぃぃぃぃ・・・


「・・・いっ・・・」

耳鳴りのような超高音が体を突き抜けていく感覚に、思わず耳を塞ぐ。

「・・・たぁ・・・」

耳を塞いでも入り込んでくる不快な音に顔を顰めながら、彼の顔を見上げると、彼もまた振り返った体勢のまま不快そうに眉間にしわを寄せていた。

私は耳を塞いでも耐えられそうにないというのに眉根を寄せただけで耐えられるなんて、これは人としてのレベルの差なんだろうか。

耳鳴りに似た音が聞こえてきてから刹那の間、そんなことを考えて気を紛らわせていると、ふいに視界に淡い光が飛び込んで来た。

彼の背後、ちょうど肩越しに見える辺り。

最初、それは私の髪留めから浮かび上がったホタルなのかと思った。

一度も動かなかったのに、と体が硬直しそうになるのを、どうにか堪えていたところで気づく。

「ジェイドさん・・・!」

眉根を寄せたまま、まるで頭痛を我慢しているかのように目を閉じた彼の腕を、ばしばし叩いてなんとか彼の名前を絞り出した。

片手でも離してしまうと、すぐに耳が痛くなる。

音が自分の体を射抜いていくような錯覚に陥っている私の視界の片隅で、光が2つ、揺れた。

私の髪留めから浮かんだホタルと、もうひとつ、新しいものが浮いているのだ。

もしかしたら私が昼間に見たのと同じものかも知れない。

痛みの中でそう思った私に思い切り腕を叩かれた彼は、怪訝な顔をして私の隣に立って、指差した方を振り返った。

動きが止まって息を飲んだ気配に、私は耳を塞いだまま横目で彼を見る。

そして、彼が目を見開いたのを視界の端に捉えてから、私もホタルの行方を探した。

1つは髪留めの上でふわふわと浮いたり沈んだりしていて、後から出てきた方の光は、落ち着きなく漂っていて、髪留めの上で光を放つものの周りをくるくると回っているように見える。

彼はこの光景をどう見ているんだろう。

そんなことを思うのに、尋ねるだけの気力が湧かない。

耳鳴りは今も続いているし、何より、2つのホタルの動きが気になって気になって仕方なかった。

いつの間にか危険かも知れないとか、気味が悪いとか、そんな感情はどこかに飛んでいってしまったみたいだ。

2つの光はまるで、太陽と地球。

ぼんやりと眺めていたら、くるくると回っていた方のホタルがだんだんと浮き沈みしている方へと引き寄せられているように見えてきた。

彼はどう見ているのかと視線を送ろうと、ホタル達から目を離した、その時。

目を開けていられないほどの強い光に思わず目を瞑ってしまった私は慌てて視線を上げたけど、時はすでに遅かった。

・・・何もなかったのだ。

あの2つのホタルが消えてしまっている。

思わず言葉を失って立ち尽くした私の横で、眉根を寄せていたはずのジェイドさんが、戸惑いを隠すことなく口元を手で押さえていた。

彼は見ていたんだろうか、その一瞬の出来事を。

「・・・ジェイドさん、今の見てた・・・?」

気づけば耳鳴りも消えている。

私は視線が定まらない様子の彼を心配しつつも、目の前で起きたことを知りたかった。

彼の驚きようだと、きっと見ていたはずだ。

冷たい風が吹きつけてきて、私は両腕を擦る。

そうして静かに言葉を待っていると、ややあってから彼が口を開いてくれた。

「ええ・・・。

 2つのホタルが、引き合うようにしてぶつかって・・・消えましたね・・・」

「やっぱり、消えちゃったんだ・・・」

あんなに気味が悪くて、ホラーの部類として見てしまっていた私が、もったいないな、なんて感じてしまうのは違う気がするけど・・・。

複雑な気持ちになって言葉を紡ぐと、彼が頷いた。

「2つ同時に目にする機会など有得ないと思っていました・・・。

 しかも、衝突してどちらも消えてしまうなど・・・聞いたことがありません」

「・・・衝突して、消えた・・・」

半ば無意識に彼の言葉を繰り返せば、横から彼の腕が伸びてきて私を絡め取る。

くっついた体半分から伝わってきた温もりに、寒いと感じる神経が麻痺していたことを知った。

「・・・中に入りましょうか。体が冷え切っていますよ。

 この件は、父に相談してみましょう。彼は謎めいたことが大好きですから・・・」

「ん・・・」


私は彼の切り出した内容にこくりと力なく首を縦に振って、大きな手に促されるまま歩き出した。

かさ、と草を踏む音が響く。

まるで、最初から何もなかったかのような静けさだった。

なんとなく空を見上げると、どれだけの時間が過ぎていたのだろう、星が瞬き始めていたことに気づいて小さくため息を吐く。

緊張が緩んで、どっと疲れが襲ってきた。

足が重くて、なかなか進めない・・・そんなふうに弱くなりかけている気持ちを叱咤して、隣を歩くジェイドさんを見上げる。

彼はいつも通りの姿に戻っていて、私はそれになんとも言えず安心したんだけど・・・。

背後で空気が揺れた気がして、思わず足を止めて振り返る。

なんとなくだけど、ホタルがまた現れたように思えてしまったのだ。

出現率の高いこの土地に暮らす人達ですら、目にする機会が一生に一度あるかないかという存在だから、同じ日に何度も見ることなんて、あるわけがないのに。

胸の内で自嘲しながらも、私はその姿を探してしまう。

でもやっぱり、淡い光を放つそれが、この庭にいるはずもなく。

私は小さく自分に苦笑を送ろうとして、固まった。

しゅるるるる、と渦巻く風が、私の視線の先で音を立て始めたのだ。

思わず言葉もなく見入ってしまった私に気づいて、彼もそれとなく背後に視線を送る。

超常現象の匂いがぷんぷんするものを見てしまったことに気づいて、私は自分の体が硬直したのを感じた。

新たに気づいたことに動揺してしまって、上手く声も出ない。

風が渦を巻き始めたのは、確かにあの2つのホタルがぶつかり合った場所の辺りだった。

そして、私はジェイドさんの名前を呼ぼうとして口を開けて・・・。






そこで、意識が途切れた。







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