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「・・・つばき?」
唐突に聞こえたジェイドさんの声に体がびくついてしまった。
どれだけ意識が飛んでたんだ、私・・・。
「どうしました、外に何か?」
反応が普通じゃないと思ったんだろう、彼が広い歩幅を駆使して近づいてくる。
私は窓の側から足を動かせずに、ただ立ち尽くして彼がやって来るのを待つしかなかった。
まだ背中が寒い。
「つばき」
いつもの柔らかい声じゃない。
短く、ただ呼ばれたのだと解る声色だった。
もう触れられる距離、その向こうを見ることが出来ないくらい近くに来た彼が、私の頭を抱きこむのと同時に窓の外に視線を投げる。
ちらりと一瞬だけ見えたその瞳は、冷たく澄み切った空の色で、怒ってるのかと思うくらいの真剣さが滲んでいた。
「ジェイドさ・・・」
きゅ、と腕に力を入れられて、言葉の最後が、もふ、と彼のセーターに吸い込まれる。
安心していいはずなのに、目を瞑ると頭からホタルもどきの飛び去る姿が離れてくれない。
おおむろに息を吐きながら、彼が腕を緩めた。
「・・・危険を、感じたわけではないんですね・・・?」
そっと覗きこむように確認されて、私もゆっくりと頷く。
危険ではなかった、と思う。
「びっくりさせないで下さい・・・」
肩の力を抜いた彼は、目つきも纏う雰囲気も、すっかりいつも通りに戻っていた。
「ごめんなさい・・・」
咄嗟に謝れば、彼が目を細めて息を吐いた。
「黄色い光、ですか・・・」
私の説明に、彼はカップを持ち上げたまま首を傾げた。
「私もホタルを実際に見たことはないのですよ」
ふと目を上げた彼は、同じようにカップを持ち上げていた私を見つめる。
「でも、あの図書館職員・・・」
「キッシェさんのこと?」
言葉を引き継いでその名前を出したところで、ス、と彼の目が細くなった。
剣呑な色を湛えるその瞳を見ていられなくて、私はそっとカップの中身を口に含む。
なんでこんな、殺伐とした雰囲気の中でお茶を飲んでいるんだろうか。
・・・ウェイルズさんという、このお屋敷に住む10の瞳が街から戻るのを待つ間に、お茶でも飲みながら私が見たものについて説明して欲しいと言われて、ジェイドさんの部屋でこうしてお茶を片手に隣り合って座っているわけだけど・・・。
なんとも居心地が悪い。
「・・・あの、ジェイドさん?」
「いえ、何でもないですよ」
耐えられずに彼の様子を伺うと、まるで私が見たのは幻だったと思えてしまうくらいに、いつもの彼に戻っている。
・・・まあいいか、何でもないってことで・・・。
掘り下げても良いことは出てこないだろうと思った私は、そのまま彼の話の続きを促した。
「まあ、この辺りの出身だという彼の話にも出てきましたから、つばきが見たのは、
ホタルだったのかも知れませんね」
「・・・ホタルって、虫でしょ、水辺に棲んでるっていう・・・」
私が見たのは庭先だ。全然違う。
そう主張したくて言ったのに、彼はきょとん、とほんの少しだけ口が開いたまま固まった。
「・・・虫なんですか・・・?」
「え、違うの・・・?」
彼の反応に戸惑っていたその時だ。
突然ドアがノックされて、お屋敷の主が戻ってきたという知らせを受けた。
結局10の瞳であるウェイルズさんに挨拶をするために、彼は部屋を出ていった。
めずらしく、1人だけ連れてきていた事務官と一緒に街に出るようにと、私に買い物リストを握らせて・・・。
そして、私と事務官は街まで車で送ってもらって、迎えに来てもらうまでの間に買い物を済ませようと、慣れない土地をあちこち歩き回っていた。
ありがたいことに、もう雪の季節は終わりを迎える頃で、幸い歩道が歩きにくいことはない。
通りに並ぶ店の中を窺いながら歩いても、転ぶ心配もないだろう。
そう思って、ちらりとメモを握る手に視線を遣る。ホルンから帰ってからずっと小指に嵌めていた指輪も、赤い花の髪飾りも外してきたのを思い出した。
心配だから貴金属類は外して行くように、とジェイドさんに念押しされたのだ。
・・・そこまで心配するなら、いっそのこと打ち合わせの後で一緒に来れば良かったのに・・・。
心の中でぐちぐち言いながら、手の中にあるメモをもう一度見る。
鉛筆とノート、チョコレート。その他いろいろ。
鉛筆とノートは分かる。忘れたなら買えばいいのだ。
・・・チョコレートが3つ目の項目に入っているのはおかしくないか。
嬉しいを通り過ぎて、彼が真面目に視察をするつもりで来たのか怪しく思えてしまった私は、そっとため息を吐いた。
隣を歩く事務官からは、そんな私を何気なく眺めているような、生温かい視線を感じる。
私はそれを受け流して、渡されたメモの通りに買い物を済ませようと、店先やウィンドウに飾られた品物をチェックしながら歩いていた。
そして、食べ物を扱う店ばかりの通りの中で、ようやく文房具がウィンドウに飾られた店の前を通りかかった時だ。
ちゃりんちゃりんちゃりんっ。
金属音がして、目の前にコインが転がってくるのが見えた。
それはするすると真っ直ぐに私の足元まで転がってきて、くるくるくる、と小さく円を描きながらその場で回りだす。
私は地面に落ちるその一瞬前にそれを拾い上げて、音のした方へと視線を投げた。
そこにいたのは、巾着を広げようとした格好のまま固まる少女の姿。
これといった特徴のない、けれどなんだか違和感を感じさせる佇まいの少女だ。
何かを言おうと口を開いた事務官をそのままにして、私は彼女に駆け寄る。
お金が散らばっていってしまったのだ。きっと困っているに違いないと思った。
「・・・大丈夫?」
声をかけると、びくり、と体が震えるのが見て分かる。
彼女から駆け寄る私は見えていると思っていたのに、私に気づかないくらいにお金をぶちまけてしまったことが、ショックだったんだろうか。
彼女は私の方に向き直って、小さく「あ・・・」とだけ声を漏らす。
その時の違和感は、なんと表現したらいいのか分からなかった。
可愛らしい顔をしているのに、なんだか視線が定まらないのだ。
私は内心で小首を傾げながらも作り笑いを浮かべて、そっと彼女の手にコインを乗せる。
「はいこれ」
すると、
「・・・あっ」
彼女は手のひらにコインが落ちた瞬間に大きく震えたかと思えば、手のひらに乗ったはずのコインを取り落としてしまった。
「え・・・?」
おかしいと思いながら、私はまた屈んで落ちたコインを拾う。
そして、もう一度彼女の手のひらに乗せようとして、固まった。
目の前に、彼がいたのだ。
「・・・何、カツアゲ?」
突然の登場に驚いて絶句しながらも、必死に首を横に振る。
もう眩暈がしても構わなかった。
動揺しきっている心を宥めながらも、私は頭をフル稼働させる。
ピアスが何連にもなってぶら下がる耳が、まだ冷たい空気に晒されて少し赤い。
私は彼にも寒いと感じる心が多少はあるんだと信じて、煩い鼓動を無視して息を吸った。
「どうして、ここにいるんですか・・・」
まだ彼の目に見つめられるのは、どうにも苦手なのだ。
ここは穏便に、何事もなかったとジェイドさんに報告出来るように、綺麗に爽やかに撤退させてもらえないだろうか。
「・・・紅の団長・・・」
口にしたその名を聞いた瞬間に、彼の表情が雷雨を引き連れてきそうなくらいに曇った。




