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ひたすら本を片付けていたら、少しずつ手の震えが落ち着いてきた。
まだ鼓動の音が耳元で聞こえるような気がするけど、それも気持ちが落ち着けば自然と落ち着いてくるだろう。
私は時折深呼吸をしながら、気を紛らわせるために必死に片付けに専念しようとしていた。
じゃないと、あの本に描かれた絵のことが脳裏をよぎってしまう・・・。
あれが何を表しているのかなんて、ちゃんと読んでもいないけど・・・なんだか、見てはいけないものを見てしまったような、そんな気持ちになるのだ。
「リアちゃん、補佐官殿が・・・」
突然聞こえた声に、体がびくついてしまう。
驚いて、手にしていた歴史書を取り落としてしまった。
とさっ、と体の脇で音がする。
やって来たキッシェさんは全く悪くないのに、申し訳なさそうにしている彼を見ると、思わず謝まりたくなる。
私の座り込んでいる場所は、ドアからだいぶ離れているから、大きな声を出さないと聞こえなかったんだろう。
「キッシェさ・・・」
咄嗟に出た言葉は、彼の登場にかき消された。
「つばき?」
「・・・ジェイドさんっ」
ドアの向こう、キッシェさんの前にジェイドさんの姿が見えて、無意識に私は立ち上がる。
「・・・いぃっ・・・たぁ・・・」
足首を捻挫してたことが、一瞬頭から抜け落ちてしまっていたらしい。
ずきん、と走った痛みを座り込んでやり過ごしていると、本の海から湖程度に落ち着いた中を、ジェイドさんがかき分けて進んでくるのが目に入る。
その向こうでは、キッシェさんが私に向かってゆるゆると手を振って、もと来た方へと去って行こうとする姿があった。
ジェイドさんがやって来たことを知らせるために、声をかけてくれたのだと、ようやく気づいた私は、本をかき分けて進んでくる彼のことを見る。
なんだか表情が険しいような・・・。
ばさばさ、がさがさ、と本同士のぶつかる音がだんだんと近づいて、空色の瞳がしっかり見えるくらいの距離まで彼が迫ってきている。
目の前まで来た時には、私は彼に何と言われるんだろう。
そう考えたら、今朝彼が止めるのをうやむやにして出て来てしまったことを思い出して、気まずい気持ちがふつふつと湧き上がってきてしまう。
治まりつつあった動悸が再びやってくる予感に、私は所在なげに手を組んでみたり足をさすってみたりして。
「つばき」
間近で聞こえた声に視線を上げる。
どう声をかけたらいいのか考えている間に、彼は私の目の前にやって来ていたらしかった。
空色の瞳の下、寝不足と疲れのせいだろう、今朝よりもクマが濃くなっている気がする。
「ジェイドさん・・・」
それが痛々しく見えてしまって、私は何を言えばいいのかと口を噤んでしまった。
私の足が痛いのとは、全然比べ物にならないんじゃないかと思う。
「・・・足、まだ痛みます?」
「・・・今は、体重かけちゃったから・・・」
私と同じように本の上に胡坐をかいた彼が、そっと足に触れてくる。
そういえば、貰った湿布を貼り換えないと・・・。
「まったく・・・」
目の前でため息を吐かれてしまっては、私も俯くしかない。
呆れてるんだろうな、きっと。
そう思って、視線で散乱している本の表紙を辿っていた、その時だ。
ぺし、という乾いた音がして、額に痛みが走った。
いや、痛み自体はたいしたことはなかったけど、ただ、ちょっと驚いた。
視線をあげれば、ジェイドさんがにっこり笑って私を見ているじゃないか。
私には分かる。
ちょっとだけ、怒ってるカオだ。
「・・・自分が怪我してることくらいは、頭の中に入れておいて下さいね」
言い切ったその手の形を見て分かった。
これは、あれだ。デコピンされたんだ、私。
それで痛かったのかと妙に納得して、じーん、と痺れるような痛みが疼く額を押さえようとしたら、その手を捕まれる。
思わずその手を凝視していたら、彼が控えめに言葉を紡いだ。
「ごめん、ちょっと強かったかな・・・痛かったですか?」
私はそれに、こくんと頷く。
すると、彼は空いた手で私の前髪をそっと端に寄せて、「あ、ちょっと赤くなっちゃいましたね」と苦笑しながら、額に小さくキスをくれる。
恥ずかしいと思いつつも、一瞬で全身に広がっていく温もりが嬉しくて、頬が緩んでしまった。
「・・・これで治る・・・?」
顔に集まり始めた熱を逃がすように呟けば、彼がぽふぽふと頭に手を置いて。
「治らなかったら、もう一回してみましょうか」
なんてこと言うんだ、とぶんぶん首を振れば、彼が声を漏らした。
それを聞いて、絶対に私の反応を楽しんでるんだと確信して、彼の肩口をぽかりと叩く。
そうしたら今度は、声を上げて笑われた。
・・・元気じゃないの、ジェイドさん。
「それで、片づけの方はどうですか?」
「えっと、ご覧の通りです」
本の海から湖くらいまでには出来たけど、連なってそびえ立つ本棚には空きスペースがたっぷり残されている。
ちなみに倒れて岩のように本の海に浮かんでいたものも、昨日のうちに戻されたらしい。
私が座りながら戻していったのは、シュウさんの背ほどもある本棚の下から3段目くらいまで。
一応、ほんとに一応、似たような背表紙の本同士がかたまるように戻していったから時間がかかって、それほど片付いたようには見えないんだけど・・・。
「ま、今日一日でどうにかしようなんて、誰も思ってないですからね」
私の頭をぽふぽふして、彼は「お疲れさま」と囁いた。
そんなに優しい声で言われたら、もう頷くしかないと思う。
すると彼は、そんな私の頬に手を添える。
「さて、明日は、屋敷で大人しくしているか・・・執務室で大人しくしているか」
どっちがいいですか、なんて微笑んでるけど・・・。
「お、おやし・・・つむしつでお願いします・・・」
・・・選ぶ権利がないのに2択になさるんですか。
かろうじて絞り出した苦し紛れの回答に、彼は満足そうに頷いてから私に背を向けた。
心地良い温かさが、広い背中から伝わってくる。
くるりと背を向けた彼は、そのまま両腕を後ろに差し出して「ほら」と言った。
負ぶって連れて行くという彼に、ただただ戸惑う私の手を掴んだかと思えば、次の瞬間には、ひょい、と私を背負って歩き出した。
ごくたまにだけど、彼は強引だと思う。
足元は本だらけだから、もちろん安定なんてしない。
たまにぐらっと傾きそうになるたびに、彼の首に巻きつけた両腕に力が入る。
私はそれだけで十分怖いのに、彼は何だか楽しそうだった。
いいように転がされてるのを自覚して、なんだか腑に落ちない思いを抱いていた時だ。
偶然見つけた歴史書の類のことを、はっと思い出した。
「ジェイドさん」
彼に、この違和感が伝わるかは分からないけど、私が一番信頼している人だ。話しておいた方がいいに決まっている。
私の声音が、さっきと違うことを感じ取ってくれたのか、彼は足を止めた。
そして、視線だけをこちらに向けて尋ねる。
「どうしました?」
「さっき、気になる本を見つけて・・・」
「気になる本?」
カウンターの中で、キッシェさんが1人で事務作業をしている。
その横には車イスがあるから、きっと私達が帰るだろうからと、しまっておいた場所から出してきてくれたんだろう。
・・・他の職員さん達が見当たらないけど・・・。
ジェイドさんに背負われたままの格好で、きょろきょろしていたら、ペンを片手に難しいカオをしていた彼が顔を上げた。
「お疲れさまです」
キッシェさんが息をついてからジェイドさんに声をかける。
私やシュウさんに対する時とは、違う声だ。
「ああ。
・・・この本、借りても?」
彼が私の手の中に収まっている本を視線で指して尋ねたのに対して、キッシェさんは何故か私に向かって微笑んだ。
「・・・それが気になったの?」
ジェイドさんの背中に体を預けてキッシェさんと目線の高さが同じくらいになった私は、彼の問いかけに頷く。
「それ、各地の遺跡や壁画が載ってたでしょ?
その中に、僕の地元も載ってるんだよ」
「そうなんですか?」
遺跡や壁画の本だったんだ・・・。
心の中で感嘆していると、キッシェさんは私が地元の話に食いついたのかと受け取ったのか、続きを話し始めた。
「東の町から、少し離れた所なんだけど・・・壁画が残されてるんだ」
「壁画・・・」
「そう。いつの時代のものかも、誰が描いたのかも分からないんだけどね。
それから、ホタルっていう・・・」
「つばき、」
キッシェさんの言葉を遮るようにして、ジェイドさんが肩越しに視線を寄越して私の名を呼ぶ。
視界の隅に、肩をすくめたキッシェさんが映りこんだけど、それに焦点を合わせるつもりはない。
「はい?」
身を乗り出して尋ねた私に、彼は少しだけ口角を上げた。
「そろそろ戻らないと・・・。
湿布も、新しいものと交換しましょう」
「あ、はい」
頷いた私をそのままに、彼はキッシェさんに視線を投げる。
「・・・この本を借りたいんだが」
「ええ、どうぞ。
本来なら持ち出し禁止の部類ですから、明後日までに返却していただければ」
「分かった」
ものすごく淡々とした会話に、なんだか居心地が悪くなる。
自分に向けられた声ではないはずなのに、ちくちく肌に刺さるものを感じて、私は内心でため息をついていた。
分かってはいるのだ。
普段のジェイドさんは、私の知ってる彼じゃないんだということくらいは。
ぷにょっと冷たい湿布は、最初こそ刺激が強すぎたけど、その冷たさがだんだんと体温と溶け合っていくと、とても心地良かった。
「あんまり腫れなくて良かった」
図書館から戻った私は、タイツを脱いで湿布を新しいものに交換してもらった。
・・・当然、タイツを脱ぐ時は、ジェイドさんに向こうを向いてもらって。
ジェイドさんが私のお腹のあたりからブランケットをかけてくれたおかげで、タイツがなくても足が冷えることはなかった。
彼はブランケットからほんの少しのぞいた私の足にやんわり触れながら、具合を確かめる。
私はそれすらマッサージのようで心地良くて、うっとりと目を閉じそうになってしまった。
「すぐ治るかなぁ・・・」
うっとりしすぎて、つい口調が緩むのを自覚するけど、ジェイドさんが微笑んでいるのを見てしまったら、もうそういうところはどうでも良くなった。
彼は、私の足首を撫でながら頷く。
「足が痛いのを忘れなければ、きっとすぐ良くなりますね」
ちくりと意地悪なことを言われて、うっとりしていた意識が少し浮上する。
「・・・いじわる・・・」
悔し紛れに呟くと、彼がくすくすと笑い声を漏らした。
そして湿布を固定するために床に膝をついていた彼が、ゆっくりと隣に座る。
裸足になった私の足の下にクッションを敷くのを忘れないあたり、さすがだなと思ってしまう。
「・・・そういえば・・・」
感心していると、彼が口を開いた。
私は静かにその言葉に耳を傾ける。
「紙切れの件で、白の騎士と紅の侍女を1名ずつ、処分しました」
「・・・っ」
穏やかな口調に息を飲む。
知りたかったことなのに、急に言い渡されると動揺してしまう。
まだ、心の準備が出来てなかったということなのかも知れない。
「私に話しても、いいの・・・?」
「どうして?」
恐る恐る尋ねたら、きょとん、としたカオをされた。
「だって・・・」
目を伏せると、自分の素足が目に入る。
大きな湿布は、私の足首を飲み込むようにして貼り付いている。
彼が、膝に置いた私の手を握った。
「白の騎士は、以前彼の兄弟が失態をした結果、実家が取り潰されていたんです。
で、紅の侍女は、その騎士本人の婚約者だった者のようですね。
・・・あの日、紅の本部に民間人から、不審者の目撃情報が寄せられたそうです。
交代で持ち場を離れて、本部に情報を共有しに行っている間に、あなたの動きに
合わせて、紙切れを置いたのでしょう」
「・・・も、いい・・・」
淡々と並べられた言葉を聞いても、気が晴れることはまったくなかったし、まして怒りが湧くこともなかった。
終わったことだ。
「ジェイドさんが、いいように済ませてくれたなら、それで・・・」
遠慮がちに言うと、彼はぽふぽふしながら、
「そうですか・・・」
「うん・・・」
頷いて、そっと隣の彼を見る。
空色の瞳は、感情を映し出すでもなく、ただ、綺麗に漂っていた。
そしてその瞳が、やんわりと細められる。
「それから足が治ったら、王宮内であれば1人で好きに歩き回ってもいいですからね」
「え?」
思いもよらない発言に、咄嗟に聞き返してしまった。
そんな私に微笑むと、彼が私の頬を指先でさすりながら言う。
「聞いたでしょう?
補佐官殿の逆鱗は薄茶の髪に赤い花、の女性なんです。
足が治る頃には、おかしなことを考える者もいなくなると思いますから」
・・・それって、噂がひとり歩きしてるんですよね・・・。
そのひとり歩きが終わる頃には、噂に尾ひれがたくさん付いていそうだな。




