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「おなかに赤ちゃんがいたの?!」
教授の素っ頓狂な声が響く。
怒ってるわけではなさそうだけど、平静を保ってるとも言えなさそうな表情でシュウさんを見つめて、言葉を放ったまま固まっていた。
「ええ」
さらっと肯定してグラスを傾けたシュウさんは、そんな教授の様子を歯牙にもかけてないようで。
「何か問題でも」
「いやないけどさ・・・」
ジェイドさんの方を見れば目が合って、微笑まれる。
その表情は、お姉ちゃんの妊娠について何かを思っているようには見えない。
それを見て胸のどこかでほっとした私は、やっぱまだ、もやもやの消化中なのだ。
ため息を吐いた教授は、そのまま頬杖をついて口を尖らせる。
「・・・もっと早く教えてよ」
「すみません」
間髪入れずに謝ったシュウさんの顔には、苦笑いが浮かんでいた。
教授は、どうやら問題があるわけじゃなくて、自分が知らなかったことが不満のようだ。
「それなら、のんびりしてられないね。
生まれるまで、どのくらいなんだろう・・・?」
「さあ・・・」
何かを考えているのか、教授が首を捻る。
それにシュウさんがはっきり答えることはなく、完全に傍観していた私に一瞥をくれた。
突然話をふられて、慌てて計算する。
「えーっと・・・たぶん、ですけど・・・あと、130日くらいは大丈夫・・・?
向こうにいた時、まだお姉ちゃんは病院に行ってなくて・・・。
だから、ちゃんとした日数は私にも分からないんです・・・」
私も首を傾げつつ答えるしかなかった。
確か、こっちにいた時から「おかしいな」とは思ってたって・・・。
でも自覚するほどの何かがあったわけでもなく、あっちに戻ってから、検査薬を試してみようと思ったんだって・・・。
早速買いに行って、使ってみたら陽性反応が出て、慌ててもう1つ試したらしい。
それも陽性反応だったから、信じられなくて三度目の正直だと思って、もう1つ。
やっぱり陽性反応で、もう疑いようもなくて赤ちゃんの存在を認めたんだと言っていた。
悪阻がある様子もなかったから、ほんとに初期だったのか・・・それとも、お姉ちゃんに悪阻がなかっただけなのか・・・。
いずれにしても、今何週目なのかなんて、本人に聞くしか確かめようがない。
「時間が経過するスピードは、大体同じくらいだろうとは思うけど・・・そうだね、
とにかく急いだ方が良さそうだ」
教授が真面目なカオをして、何度も頷いてから黙り込む。
シュウさんもグラスを置いて一点を見つめていた。
もしかしたら、あっちにいるお姉ちゃんとおなかの子のことを考えているのかも知れない。
沈黙が広がる中、しばらく静かに様子を見ていたジェイドさんが訝しげに教授を見た。
「・・・今さらですが・・・」
なんだか彼の顔色が悪いような気がして、私はそっとその表情を観察する。
教授もその声音が硬くなっているのを感じたのか、真剣な表情を崩さずに黙って先を促した。
「渡り人がこちらで生きていくのにも、多分な負担がありますよね。
あちらで健康だった者ですら、精神的に追い詰められたらあっという間に病気になるほど。
いつかの子どもなど、消滅してしまったくらいです・・・。
・・・ミナのおなかの中の子は、あちらで無事に育っているんでしょうか・・・」
ジェイドさんの言葉に、私も教授も絶句してしまった。
確かに、そういう可能性がないとも言い切れない。
一度考えてしまったら悪い方にしか想像出来なくなって、重苦しい空気が流れてくる。
私はなんとなく息苦しくて、グラスの中で温くなった水を口に含んだ。
「・・・俺も、その可能性は考えた」
シュウさんが、沈黙を破る。
私はグラスを持ったまま、彼の言葉に耳を傾けた。
「この世界から、あちらへ渡ったという話は聞いたことがなかったし、調べても何も出ては
こなかったからな・・・きっと、前例はないんだろう。
あったとして、この世界では人がひとり消えた、くらいの記録になるはずだ。役に立たない」
こつ、とワインボトルがグラスにぶつかる音が響く。
いつもよりも控えめな量を注いだ彼は、そのままグラスに口をつけてから続きを話し始める。
「考えても分からないから、考えるのはやめたが・・・。
おそらく、大丈夫だろう。
俺とミナの半々で出来ていると思えば、あちらの世界との繋がりが全くないわけでもない。
それに、俺の子だ。きっとしぶとくて執着心が強い。
ミナも、見かけよりずっと強い・・・だから、大丈夫だと信じることにした」
言って、ワインの残りを一気にあおった。
一緒に何かも飲み込んだように見えたのはきっと、私だけじゃないはずだ。
「どーぞ」
「ありがとう」
暖炉の前に座った彼にカップを差し出すと、ほんのり笑顔を浮かべてくれる。
夕食の前に話していた通りに、私はお茶を淹れた。
もちろんいつも通り、極めて普通の手順で何も気にせず。
こんなんで「はー・・・」と和んでくれてるんだから、良しとしよう。
彼のことをちゃんと聞いた今では、こうやって和んでる時間は、本来の自分に戻ってるんだろうと勝手に解釈することにした。
手にしていたトレーを手の届く場所に置いて、ゆっくり腰を下ろす。
炎の爆ぜる音が耳に心地良いな、と思いつつ、ジェイドさんにくっついた。
触れた腕から、彼が小さく笑う振動が伝わってくる。
「どうしたんです?」
言いながら、両手でカップを持った彼がそっと顔を覗き込んできた。
「ん・・・」
自然と言葉にならない声が漏れて、彼の顔に視線を向ける。
空色の瞳は、いつもと変わらない色をしていた。
それを確かめてから、私は溜めていたものを吐き出した。
「・・・ほんとに、お姉ちゃんを呼び戻せるのかなぁ・・・とか」
「とか?」
高くもなく低くもない落ち着いた声が、そっと差し出される。
彼にくっついた方の体半分が温かくなってきた。
「ジェイドさんは、お姉ちゃんが戻ってきたらやっぱり嬉しいのかなぁ・・・とか」
「・・・とか?」
今度は笑いを堪えた相槌が返ってくる。
「シュウさん、だいじょぶかなぁ・・・とか」
「・・・彼は大丈夫ですよ」
暖炉の炎が落ち着いて、小さくぱちぱちと燃えている。
私はカップと一緒に膝を抱えて、ため息を吐いた。
難しい話をしたせいなのか、頭の中がぐるぐる回っているみたいで、一度は凪いだはずの心が波立ってしまっている気がする。
なんだか、いろんなことが気になって、落ち着かなかった。
「ミナを呼び戻せるかどうかは分かりません。
父がなんとなく道筋をつけてくれると思いますが、それでも上手くいくのかどうかは、
私達の誰にも分からないでしょうね。
・・・もちろん、彼女が戻ってきたら嬉しいですよ。
あなただって、そうなったら嬉しいでしょう?」
同じように膝を抱えた彼が、もう一度私の顔を覗き込んだ。
さらさらと流れる金色の髪が、目の前で揺れる。
私はこくりと頷いた。
彼の目が、柔らかく細められる。
「エルとミナが幸せに過ごせるように、私達は出来ることで頑張りましょう。ね?」
「・・・うん・・・」
「それから、」
力なく首を縦に振った私の背を、大きな手が何度も上下に行ったり来たり。
こういう時の彼は、私を包む親鳥だ。
「もっと砕けて接してもらえると嬉しいです。
私はこんな話し方しか出来なくて、申し訳ないんですけどね・・・」
「くだけて・・・?」
どういう意味ですか、と言外に含めて首を傾げると、彼が苦笑した。
彼は私に分からないことがある時、困ったり嬉しそうにしたりすることが多い気がする。
ひょい、と私の手からカップを取り上げて少し離れた所に置いた彼が、その両腕を伸ばして私を後ろから包み込んだ。
こういうペンギンの親子をテレビで見たな、なんてしょうもないことを思い出してしまう。
「砕けて、というのは、もっと近くに来て下さい、ってことですよ」
「近くに・・・?」
「ええ」
耳元で囁く声が、さっきよりも低い気がした。
背中がむずむずしてきてしまって、なんだか体が落ち着かない。
彼はそんな私にはお構いなしで、更に言葉を続けた。
「一番近くに来て欲しいんです。言葉も、気持ちも」
「・・・さらっと・・・言いますよね、そういうこと・・・」
昨日の今日でもやもやを引き摺っている私には、効果てきめんな台詞だ。
顔が熱くなるのを自覚して、両手で頬を押さえる。
幸いなことに彼は後ろにいるから、真っ赤な顔を見られる心配はないわけだけど・・・。
彼はこんな気障っぽいことを言って、何ともないんだろうか。
「さらっとは、言ってませんよ。
一応考えてから言葉にしてます」
心外だ、とでも言うかのように至極真面目な声で囁かれたら、恥ずかしいと感じた私が間違ってるみたいに思えるじゃないか。
振り回されてる気分で文句のひとつも言ってやりたい気持ちになるけど、それよりも、胸に広がる温かい気持ちに意識が向かってしまう。
そっか、やっぱり私は一番になりたいのか。
すとん、と何かが落ちてきて、頬が緩んだ。
「私が、近くに行ってもいいんですか・・・?」
思わず尋ねたら、ふに、と頬をつねられた。
それも、絶妙な力加減でだ。
戸惑いつつもされるがままにしていたら、ふにふにふに、とそれは何度も繰り返されて。
彼は何も言わなかったけど、代わりに小さく息を吐く音が聞こえた。
呆れてるのか、また困ったように微笑んでいるのか・・・。
確かめたくて、少しだけ後ろを振り返ろうと首を巡らせる。
すると彼は待ち構えていたかのように、私の目を覗き込んだ。
近すぎてドキドキする。
分かってる。この人に敵う日なんて、絶対来ないんだ。
「今夜も一緒に眠ってくれますよね?」
「むりれふっ」
ふにふにされたまま声を発したから、ものすごく間抜けなカオをしてるに違いない。
彼が思わず、といったふうに噴出した。
そして笑いを堪えようとしてるのか、困ったカオになったかと思えば、ふにふにしていた手がぱっと離れていった。
私は離れていった両手が、なにやら後ろの方で動いているのを感じて尋ねる。
「・・・何してるんですか?」
「ん?」
曖昧な返事が、なんだか楽しそうだ。
これは何かある、と感じ取った時には遅かった。
ぱさ、と音がして、視界に薄茶の柔らかい髪が下りてきていたから。
「・・・一緒に寝ましょうよ。ね?」
髪に鼻先を埋めているのか、くぐもった声が後頭部から響いてくる。
他にどう言葉にすればいいのか、といったふうな、ちょっと情けない響きが含まれている声を聞いて、私は声を殺して笑ってしまった。
一番近くに、という言葉が頭の中で繰り返される。
そのせいなのか、知らない間に何かのフィルターが外れた私は、友達に接するような口調になって彼に言っていた。
「もう・・・。
ベッドに線、引いてもいいならね・・・?」
そのひと言は予想以上に彼を困らせたらしく、その後いろんな交換条件を提示された。
絶対に首を縦には振らなかったけど。
王都のガイドブックに載るほどのお菓子屋さんの、個数限定のチョコレートの焼き菓子を買ってきてくれると言われた時にちょっとだけ、心が揺らいだのは秘密だ。
「つばき、息は止めちゃ駄目ですよ・・・」
「・・・じぇいどさぁん・・・」
「大丈夫だから、ほら、力を抜いて・・・」
「・・・手、手繋いでて・・・!」
「はいはい・・・、あと少しですから、ね・・・?」
大きな手に励まされながら、私は目を固く閉じた。
目を閉じたら神経が研ぎ澄まされることなんか、すっかり忘れて・・・。
思っていたよりも近いところに、彼の息遣いが聞こえる。




