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一瞬でも緊迫した空気に怯えた自分が馬鹿だった。
「リアちゃぁぁん!」
ドアを壊すつもりなのかという勢いで部屋に飛び込んできたのは、教授だったのだ。
「・・・きょーじゅ・・・」
肩で息をする彼に、脱力した私は声をかける。
「どうしたんですか、そんな、血相変えて・・・」
栗鼠さんが、「お水お水」と小走りに用意をしに行った。
あ、せっかく柔らくていい匂いだったのに。
「やー、リアちゃんが倒れたって聞いてさ・・・」
言いながらハンカチを取り出して、額を押さえる彼。
よく見たら、なんだか荷物をいくつも持っている。
私は栗鼠さんがお水を用意してくれたのを見て、彼をソファに座るよう勧めた。
「・・・そんなことになってるんですか・・・」
呆れて口が塞がらない。
喋ったら、栗鼠さんに頭を、くい、と持ち上げられた。
人が来たから、髪を結い上げてもらっているのだ。
ほわほわした彼女は、思いがけない機会に鼻唄混じりに頑張ってくれている。
「うん」
お水を含んで落ち着いたのか、教授が教えてくれた。
「可愛がってるコが倒れて、補佐官殿は早く帰るために仕事の鬼になってるってさ」
「・・・事実が絶妙に脚色されてる気がする・・・」
私のため息が、テーブルの上を滑っていく。
せっかく元気になったのに、これじゃお手伝いに行きづらいなぁ。
人の視線が上手く受け流せない私は、日本に馴染むのに時間がかかったものだ。
こっちに来てから、誰の目を引くこともなくて伸びやかに過ごせてたんだけどな。
「まあ、でも、元気になったんだったら、良かったね」
「おかげさまで」
紺色の瞳が細められて、私も微笑み返す。
栗鼠さんも、ずっと居てくれるわけじゃないし、1人でいるといろいろ考えてしまうから、教授が来てくれてよかったな、と思う。
「出来ました」と囁きがあって、彼女の離れる気配がした。
「ありがとうございました」と返事をすれば、彼女は頬を染めて、「また結わせて下さいね」なんて言ってくれる。
そして、そのまま別の仕事があるからと出て行った。やっぱり鼻唄混じりで。
「そういえば、いつ王都に着いたんですか?」
「今朝だよ。
王宮に寄って、いろいろ挨拶して回って、それで噂を聞いたの」
「なるほどー・・・」
相槌を打ちながら、栗鼠さんが用意してくれたカップの中身をかき混ぜる。
甘い匂いを、湯気が運んできて鼻をくすぐった。
ジェイドさんが、なんと鉄子さんから預かってきたというお見舞いの品だ。
木のスティックに刺さったチョコレート。
温めたミルクの中でくるくる回せばチョコレートが溶けて、ホットチョコレートになる。
あと2つあるから、ジェイドさんと一緒に、暖炉の前で飲もう。
ひとくち含めば、甘くてほっと息が漏れる。
そんな様子を教授は見ていたみたいで、ふふ、と忍び笑いをされてしまった。
「シュウさんは・・・一緒だったんですか?」
彼は笑みを浮かべたまま頷いて、栗鼠さんがお水と一緒に置いていってくれたお茶を飲んだ。
彼も彼で、ほぅ、と息をつく。
「うん、王宮で別れたんだけどね」
「ジェイドさんには、会いました?」
仕事の鬼だなんて、どれだけ根詰めて働いてるんだろう。
休憩取ってるかな。大丈夫かな。
ここにない彼の姿を思い浮かべて尋ねれば、彼がにこにこして首を振った。
「あの子、僕が仕事場に行くと怒るから。
それに仕事が終われば、この家に帰ってくるからいいかな、と思ってさ」
チョコレートの甘さに浸りつつ、私は頷いた。
「リアちゃん、雰囲気が変わったね」
教授が小首を傾げるのと一緒に、グレーの髪がさらりと流れる。
一瞬かち合った目が、私の奥の方を覗こうとしている気がして、なんとなく目を伏せた。
私は残り少なくなったカップの中身を見つめながら、どう反応したらいいものか言葉に詰まる。
「そ、ですか・・・?」
ちら、と視線を投げれば、彼がにこりと笑う。
「うん、柔らかくなったよ」
「そうかなぁ・・・」
そう言われても、自分の変化に自覚のある人間なんていないだろう。
ただ首を捻るばかりだ。
教授がソファに体を預けて、足を組む。
その姿はジェイドさんによく似ていて、思わず見とれてしまった。
「最初に会った時は、もっと張り詰めてた気がする」
「あぁ・・・それは・・・」
北の街に行った時のことを思い出す。
まだそれほど日が経ったわけではないのに、ずいぶん前に感じるな。
「お姉ちゃんのことと、自分のことで、頭が破裂しそうだったんです・・・」
「そっか」
教授の相槌が心地良くて、自然と言葉が零れる。
きっとこんな断片的な情報じゃ、何のことを言ってるのか分からないだろうけど。
「だから、帰る方法がないって教授が教えてくれて、良かった・・・。
ジェイドさんからいろんなことを聞いて、それで吹っ切れたから・・・」
「うん」
あの時から私は、彼の隣にいたいと思うのを、躊躇わなくなったんだった。
素直になろうと思えた。
紺色の瞳が細められたのを見ていたら、なんだか恥ずかしくなって視線を彷徨わせる。
見せなくてもいい自分を、つい出してしまった気がした。
「そっかそっか、よかったよかった」
満足そうに何度も頷く彼に、噴出してしまう。
同時に、この人は1を聞いたら5くらいまでは理解してしまうんじゃないかと思った。
たぶん私なんかの考えることは、見透かされてるんだろうな。
そう思うと余計に、素直になってしまえと踏ん切りがついて、私は彼といろんなことを話して過ごしたのだった。
それこそ、最近彼と一緒にカップケーキを作った話とか。
盛り上がりすぎて、今度教授とも一緒に作る約束をしちゃったんだけど・・・。
ともかく、楽しいと時間はあっという間に過ぎ去っていくもので、気づいた時には窓の外が薄暗くなってきていた。
「・・・あ」
唐突に、教授が顔を上げた。
ちょうど2人で、簡単なボードゲームをしていた時だった。
ボードの上には、駒がいろんな所に並んでいる。
「どうしたんですか?」
私が変なふうに駒を動かしてしまったんだろうか、と彼の顔を見たけれど、彼は私に見られていることには気づいてないみたいだ。
視線が一点を見つめて、静かに耳を澄ませている。
そして、微笑んで私を見た。
「帰ってきたみたい」
「え?」
すぐには理解出来なくて、思わず顔を見返すと、にっこり笑ってはぐらかされる。
楽しそうな教授の様子に内心首を傾げていると、突然ドアが規則正しいリズムでノックされた。
・・・この音。
ピンときた私は、急いで立ち上がってドアノブに手をかけた。
重いドアノブがもどかしい。
ぐい、とドアを自分の方へ引き寄せながら、その先に待っている彼を見て。
「おかえりなさい!」
「・・・ただいま」
鼻先がほんのり赤い彼は、たった今戻ったのだと分かる。
空色の瞳が細められて、ぽふぽふと私の頭に手を置いた。
「お土産がありますよ」
言って、手のひらを自分の後ろに向ける彼。
「え?」
言われるままに視線を投げれば、そこには。
「熱が出たらしいな?」
「・・・シュウさん!」
久しぶりに感じる彼がジェイドさんの後ろにいて、私は思わず声を上げてしまった。
お姉ちゃんについて話して間もないけど、彼女とジェイドさんの間のことは、ゆっくり自分の力で消化すると決めてある。
それに、シュウさんがお姉ちゃんの旦那様なら、私にとってはお兄ちゃんだ。
会えた嬉しさに、自分の顔に自然と笑顔が浮かぶのを感じる。
「・・・元気そうだな」
苦笑しながら言われると、私も笑って肩を竦めるしかない。
だって、本当に元気なんだから。
私達が見合ったまま、そのやり取りをしていると、ふいにジェイドさんの指先が、私の前髪をそっと端に寄せるようにして横に流れていった。
「そうじゃなくて・・・。
元気に、なったんですよ。ね?」
そしてそのまま、おでこに唇を寄せてくる。
冷たいものが触れて、思わず首を竦めてしまった。
「・・・ジェイドさんっ」
何をされたのか理解した途端に、顔が熱くなる。
シュウさんも教授もいるのに!と思って視線を走らせたら、「うえぇ」とでも言っているかのような、微妙なカオをしたシュウさんと目が合った。
それはそれで、なんだか癪だ。
そうしている間にも、ジェイドさんは素知らぬ顔で部屋の中に入っていく。
全く、人の気も知らないで・・・。
熱くなった頬を押さえながら、私は仕方なく息を吐いた。
「おかえりー」
シュウさんが中に入るのを待ってから、ドアを閉めて振り返る。
教授はボードゲームを片付けながら、ジェイドさんに声をかけていた。
「聞きましたよ、血相を変えて元補佐官殿が駆け抜けて行ったと・・・」
「うん、リアちゃんが心配だったから」
そうだった、教授、すごい慌ててこの部屋に飛び込んできたんだった。
思い出して小さく噴出した私を、ジェイドさんが一瞥する。
何があったのか聞きたそうにしてるから、私はぱたぱた手を振って笑った。
「教授が入ってきた時のことは、後で話しますから。
・・・お茶、淹れます?
あ、もう夕食の時間かな・・・?」
茶器を並べようとしつつ、小首を傾げて待っていたら、彼が言った。
「今はいいですよ。
お茶は、いつもの時間に一緒に飲みましょうね」
いつもの、というのは暖炉の前で寛ぐ時間のことだろうか。
そう見当をつけて、私はこくりと頷く。
手持ち無沙汰で彼の側に寄ると、彼の大きな手に、ぽふぽふされる。
手の届く範囲に落ち着いた私は、されるがままに身を任せた。
視界の隅で、教授とシュウさんが何か話しているのが見える。
「これから皆で夕食を摂って、その後、2人が調べてきたことを伺おうと思ってます。
つばきも、念のために熱を測って、問題なさそうなら一緒に聞きましょうね」
彼の声につられて視線を上げると、空色の瞳が私を見下ろしていた。
それからジェイドさんは、私に熱を測らせるから、と教授とシュウさんを追い出して。
「もう元気なのに」とぼやいた私を膝の上に横抱きに座らせて、彼が体温計を差し出した。
何故その体勢なのかも疑問だったけど、2人を部屋から出す理由も今ひとつよく分からない。
・・・とは思うものの、ここは彼の言うとおりにしておいた方が無難だ。
どこに意地悪スイッチが隠されてるか、分かったもんじゃないからね。
ここ数日間で彼について学んだ私は、彼のしたいようにしてもらうことにした。
結局熱はなく、完全復活を宣言した私は夕食後の話し合いに参加することになったのだった。
平熱を示した体温計をジェイドさんに返したら、どういうわけか「もう一回測りなおして見ませんか」なんて真顔で言われたんだけど。
私のこと、外に出さないつもりなのジェイドさん・・・。




