33
「今朝は、ごめんなさい・・・」
体は軽くなったのに、まだ少し頭がふらつく私は、ジェイドさんに言われたとおりに横になって大人しくしていた。
今朝、ジェイドさんよりも少し遅れて部屋にやって来た彼女は、まだ私が彼に話をしていないと察してくれたようで、すぐにドアを閉めて出て行った。
自分から言い出したことで困らせてしまったことが申し訳なくて、私は彼女がジェイドさんの言いつけで様子を見に来てくれた時に、すぐに謝った。
ベッドの上だから、頭を下げることは出来なかったけど。
彼女は「気にしないで下さい」と微笑んで、持ってきた果物や小さな焼き菓子とパン、レモンのはちみつ漬けをテーブルに並べ始めた。
甘くて美味しそうな匂いが漂ってくる。
私がテーブルの上に気を取られている間にも、彼女はポットでお湯を沸かしながら、手早くお茶の用意をしてくれた。
「もし食べられるようだったら、何かおなかに入れませんか?
無理そうだったら、喉の痛みにいいハーブティーだけでも・・・」
ベッドの脇まで近づいてきて、心配そうに眉根を寄せつつ小首を傾げられて、誰が断れるというんだろうか。
栗鼠さんの仕草に胸がきゅんとしてしまう。
「ありがとうございます。いただきます」
ひとつ頷いて返せば、彼女がにっこり微笑んだ。
ゆっくり起き上がれば、視界のぐらつきもほとんどないらしい。
私は自分でももどかしいほどの速さで移動して、ソファに腰掛ける。
テーブルの上に並べられたものは、ベッドから眺めていたよりも多く感じた。
「どうしよう、ほとんど残しちゃうかも知れません・・・」
残したら捨ててしまうんじゃないかと思うと、手を伸ばすことを躊躇してしまう。
気が引けてしまった私に、彼女が笑顔で言った。
「シェイディアード様が、お嬢様が残された分はとっておくように、と仰ってました」
「ジェイドさんが?」
聞き返すと、またしても彼女は笑みを浮かべる。
「はい。残した分は、シェイディアード様が夕食の後に召し上がるそうです」
「えええ・・・」
「お嬢様がどれくらい食べられたのかを知りたいんだと思いますけど・・・」
「えええ・・・」
私の反応を見て楽しんでいるのか、彼女はにこにこしながらお茶を用意してくれる。
「何を用意するかも、お出かけになる前にメモを渡されましたし」
話しながらでも、きちんとお茶を淹れられるところに感心しつつ、私は彼女の教えてくれたジェイドさんの行動に感嘆してしまっていた。
本当にあの人は、よく気がつく人だ。
私なんて、あんなことしちゃったと自覚した途端に叫びたくなって、しばらくの間、頭まで毛布を被って唸ってたっていうのに・・・。
今だって、思い出すと動悸が・・・。
火照り始めた頬を押さえていると、彼女がくすくすと笑い出した。
笑われて顔が熱くなった私は、果物を少しと、小さなパンをひとつ食べて。
きっとジェイドさんに言われていたんだろう、彼女が差し出した体温計で熱を測った。
そしてまた、ベッドへ逆戻り。
病人らしく寝てるなんて、何年ぶりだろう。
私は天井を見上げながら、息を吐く。
窓の外は穏やかで、日の光が部屋を満たしている。
昨日は眩しくて仕方なかったけど、今日はこの明るさが心地良い。
ぼーっとしていると、ふいにコートの中に入っている紙切れの存在を思い出した。
ジェイドさんが今でも未菜お姉ちゃんを想っている・・・。
書庫での逢瀬を知っている・・・。
あの紙切れを読んで、彼の心の中にお姉ちゃんがいるんだと思ったら、胸がものすごく痛くなって、何も考えられなくなった。
私にだって元カレが何人かはいるし、ジェイドさんの年ならお付き合いした人数なんか、片手じゃ足りないくらいにいるだろう。
そんなことは、彼に触れるたびドキドキするようになって、すぐに考えた。
きっと、私なんかより素敵で魅力的で大人なひとと、忘れられないような恋をしたこともあるだろう、となんとなく想像してた。
ほとんど諦めに近い気持ちにもなった。
私の序列がその中を勝ち上がって一番になることなんか、ないかも知れないと。
それでも私が必要としてるんだから、側にいられればいい、と思ってたのに。
彼の見つめていたひとが、自分の従姉妹かも知れないと解ってしまった。
まだ紙切れのことを完全に信じたわけじゃない。
でも、彼がお姉ちゃんのことを「ミナ」と呼ぶことに改めて気づいてしまったから・・・。
陛下やレイラ様、紹介された皆さんは彼女のことを「ミーナ」と呼んでいた。
呼び方がどうかしたかと訊かれても、確かな答えがあるわけじゃないけど、頭の中がもやもやする。
名前をちゃんと呼びたいと思うのは、好きだからなんじゃないかと思うのだ。
ジェイドさんに尋ねればいいと思うのに、昨日のうちに出来なかったのは、もし紙切れの言うとおりだったらと思うと怖くて仕方ないからだ。
それに、どこか彼に対する怒りもあったからかも知れない。
「・・・ばかみたい・・・」
渦巻いた感情が、ちょこっとキスしただけで消えうせた。
現金なもんだ、と自分でも思う。
ほんの少しでも、彼が私のことを考えてくれてる、と思えたら、こんなに気持ちが軽くなるなんて。
しかも熱まで下がったから驚きだ。
病は気から、を立証出来ちゃった自分が可笑しい。
「ジェイドさん・・・会いたいよぉ・・・」
本人が目の前にいなければ、こんなに素直に言えるのにな。
呟いて目を閉じれば、眠気はすぐにやってきた。
ふわり、と宙に浮いて空を漂う夢を見た。
そして、そのまま夢に身を委ねていたら、急に瞼の向こうが明るくなった。
ゆっくり目を開けると、目の前には小さな天体盤。
・・・あれ・・・?
・・・ダメだ・・・あたま、ぼーっとする・・・。
いつも寝ない時間に爆睡してしまったからなのか、体が変な感じがする。
私は目を擦りつつ、毛布に包まったままぼんやりと自分の周りを眺めた。
そして、おかしいな、と気づく。
「ここ、どこ・・・?」
いつもの部屋じゃない。
そこに思い至って、がばっ、と身を起こした。
すぐにクラクラと眩暈がやってくる。
きっと食べてないから、体が急な動きに対応出来てないんだ。
私は目を押さえて眩暈をやり過ごすと、ゆっくりとベッドを降りる。
私のルームシューズが揃えて置いてあって、不思議に思いつつも足を突っ込んだ。
大きなベッドは、やっぱり見覚えはない。
私はドアノブに手をかけて、そっと伺うようにしてドアを開けた。
「あ・・・!」
続きの部屋に一歩足を踏み入れて、わかった。
ここ、ジェイドさんの部屋だ。
いつも夕食の後にお喋りする、暖炉があるから。
ということは、私が寝てたのは、ジェイドさんの・・・?!
なんとも表現出来ない、とにかく恥ずかしい気持ちで顔を押さえる。
そのまま暖炉の前に進むと、中でオレンジ色の炎が小さく爆ぜていた。
思わず暖炉の前、ラグの上に座り込む。
「ジェイドさん・・・?」
どこにいるの?という気持ちで呟けば、かちゃり、と静かな音が響いた。
「ああ、起きちゃったんですね」
背後に彼の声を聞いて、私は勢いよく振り返る。
ついさっきも眩暈がしたばかりだったのに、すっかり忘れてた・・・。
くらくら、と視界が揺れるのを、目を押さえてやり過ごす。
「ああもう、急に動くから・・・」
ぎゅっと目を閉じても、苦笑しながら近づいてくる彼の姿が簡単に想像出来てしまう。
もしかしたら、目が見えなくなってもジェイドさんのことだけは、いつでも見えるんじゃないかな、なんてくだらないことを考えてしまった。
「だいじょうぶ?」
そっと背中に手を添えて、やんわりと声をかけてくれる彼に、私は頷く。
目を開ければ、髪が濡れて、顎にうっすら髭がある彼がいた。
髭がなんとなく見えるってことは、すごく近いってことだ。
私はびっくりして思わず仰け反った。
髪が濡れてる。
バスローブ着てる。
お風呂上りか。
「・・・私、部屋に・・・!!」
なんだって体調が良くないのにこんな彼に遭遇しなくちゃいけないんだ。
いや、会いたいとは言ったけど・・・!
「え、なんで?」
小首を傾げる彼は、きょとんとして。
私の戸惑いが分からないのか。
百戦錬磨だからか。
もう何をどう説明したらいいのか分からなくなって、私は固まってしまった。
そんな私を見た彼は、ぷ、と噴出して。
「勝手に連れて来ちゃったことは、謝りますけど・・・」
言いながら、その手を私の頬に這わせた。
触り方、触り方が。
お風呂上りだからなのか、空色の瞳まで濡れてる気がしてきた。
背中がぞくぞくする。
「一緒に居たかったんです」
耳元で囁かれたら、こんな小娘が太刀打ち出来るわけがないと悟った。
もう訊かれたら、洗いざらい何でも吐こう。
彼の目を見つめて、問い返す。
「ほんとに?」
「ほんとうに」
ゆっくり肯定した彼が、すごく真剣な目をしていて、私は息を飲んだ。
悶えていた恥ずかしさなんて、どこかに吹き飛んでしまったらしい。
暖炉の火が、背中を暖めてくれている。
ぱちぱち、と時折炎の爆ぜる音が、訪れた沈黙を埋めた。
私が彼の真剣さに気圧されて頷くと、彼は困ったように微笑んで言う。
「今日は1日、ちゃんと寝てたみたいですね」
「え?」
彼の声のトーンが変わったことに、反応が一瞬ずれてしまった。
「世話を頼んでおいた者から聞きました。
熱も、昼過ぎには下がったようですし、ひと安心ですね」
言って、ぽふぽふしてくる彼。
今日は髪を結い上げてないから、てしてし、という音の方が合っているような気がする。
「でも、夜になるとまた熱が上がることもありますから。
油断は出来ないので、今夜は一緒に寝ましょう」
「一緒に?!」
「ええ。心配なので」
けろり、と返されて、私にはそれに太刀打ち出来る言葉が見当たらない。
どうしよう、とうろたえていると、
「その前に、話を聞いてもらう約束でしたよね・・・。 そういえば・・・、」
彼は、どう表現したらいいのか分からない表情をした。
上手く言葉が出てこない私に、彼は言い募る。
もう髪が濡れてるとか、色気が駄々漏れだとか、そんなことも気にならない。
ただ、彼の口から出る言葉を全身で待っている自分がいた。
「つばきのコート、裾が汚れていたそうですよ。
屋敷から出られない今のうちに、洗ってしまおうと思ったみたいです・・・」
「え・・・」
まずい。
あの紙切れを燃やしておこうと思ったのに、すっかり寝入ってたんだった。
思い出して、鼓動が速くなる。
彼がおもむろに立ち上がって、私の目の前からいなくなった。
緊張で視線が自由にならない私は、彼のいた場所のあたりを見つめて、早くなる鼓動の音を聞いているしかない。
「それでね、つばき」
ふたたび彼が、私の目の前にやって来た。
ラグの上に座って、胡坐をかく。
そして、彼は自分の膝をぱしぱし、と叩いた。
え?
目が点になった私の腰を抱き寄せたかと思ったら、何をどうしたんだか、私を膝の上に座らせた。
神業だ。
どうしてそんな、細マッチョらしい体をして、私をひょい、と持ち上げられるのか。
しかも、はだけた胸元が目の前にあるとか、もう、何の罰ゲーム。
さっきとは違った意味で、動悸がし始めた。
「世話係の彼女、こんなものを見つけたんですって」
彼が摘んで差し出したものは、あの紙切れ。
しまった、とか、まずい、とか、後ろめたい感情が次々と湧いてきた。
別に悪いことをしたわけじゃないと思うのに、ごめんなさいと謝りたくなる気持ち。
これは、なんて言ったらいいんだろう。
頭から血の気が引いていく。
指先が冷たい。
絶句して動けない私に、彼はいくらか声のトーンを低くして尋ねた。
「これは、あなたのですか?」
「・・・拾いました・・・」
誤魔化しても無駄だ。
そんなの分かってる。
だから、すぐに頷いた。
「昨日、執務室を出て、すぐの辺りで・・・。
廊下の窓から外を眺めて、しばらくしてから車庫に行こうと思って、前を見たら・・・」
それが、と付け足して、私は沈黙する。
彼も、何も言わずにただ何かを考えている様子だった。
少しの間お互いそのままでいたけど、ふと、彼が呟いた。
「わかりました。この紙の出所は、なんとなく予想がつきます。
きっと、私への嫌がらせのつもりだったんでしょうけど・・・受けて立つとして・・・」
どこか物騒な響きを残して、彼は微笑む。
そして、甘い笑みを浮かべて私を見る。
薄茶の、こっちに来てから手触りの良くなった髪を指で梳きながら、言った。
「この紙切れのせいで、様子がおかしかったんですね。
・・・全くのデタラメでもないですが・・・。
ちゃんと、私の口から、お話させてくれますか・・・?」
私は彼の言葉にゆっくりと頷く。
そんな私を見て、彼は頬を緩めて息を吐いた。
その空色の目から溢れるもの全部、私に差し出されてると思わせて欲しい。
そう思うのは、子どものワガママなんだろうか。




