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降り注ぐ日差しが眩しくて、少しの間目を閉じていたら、いつの間にかお屋敷の玄関前に車が横付けされていた。
目を閉じている間、ずっと考え事をしてたからなのか、あっという間だった。
お礼を言って車から降りようとした時に、ポケットの中でかさり、とかすかな音がする。
意識はそちらに向いていながらも、口は勝手に運転手にお礼を言う。
そして、頭の中がぐちゃぐちゃなままの私を置いて、車は王宮に戻って行った。
・・・風が冷たいなぁ。
ふいに1人きりになって、ため息をつく。
なんとなくお屋敷の中に入るのが躊躇われて、私はその場で立ち尽くしていた。
ここには王宮の喧騒も、街の活気もない。
ただ暖かい日差しが足元に落ちてきて、小鳥の囀りが時折聞こえてくるだけ。
ジェイドさんと一緒なら、静かでいいですね、とか何とか言って、寄り添っていられるのに。
ぎゅっと手のひらを握りこんで、せり上がってくる何かをやり過ごす。
深呼吸でもしないと、大きな声を出してしまいそうだった。
ポケットの中に手を入れると、紙切れがまた音を立てる。
怒りでも悲しみでもない気持ちに、どうしたらいいのかわからない。
私はポケットの中、紙切れをぎゅっと握りつぶして息を吐いた。
家令さんにジェイドさんから言付かったことを伝えて、部屋に戻る。
ドアを開けると、部屋の中ではメイドさんが窓を拭いているところだった。
ドアノブに手をかけたままの状態で、振り返った彼女と目が合う。
「あ、すみません。
出直して来ます」
驚いて口がぱくぱくしている彼女に向かって言うと、はっと我に返ったのか、握っていた雑巾を背中に隠して首を激しく振った。
か、かわいい。
栗鼠みたいな、小動物的な可愛さのあるコだな。
「ごめんなさい!
わ、わたしが出て行きます!」
声まで可愛いのか。
ぷるぷるしている彼女に、思わず失笑してしまった。
そして、一度頬が緩んだら、なんだかそれまで重くのしかかっていたものが、ふわりと宙に浮き上がっていった気がする。
私は手をぱたぱた振って、彼女に言う。
「お仕事続けて下さい。
私、中にいても大丈夫ですか?」
「あ、はい、もちろんです」
栗鼠さんが頷いて、ちょこまかと掃除用具を端に寄せて、また窓を拭き始めた。
その動きに癒されつつ、私はコートを脱いでかけて、ポットでお湯を沸かす。
せっかくだから2人分淹れようと思って、カップも2つ出した。
最初は1つだったカップが、いつからか2つになっていたのを気にしなかったけど、きっと、ジェイドさんが朝来た時に飲むから、常備されるようになったんだろう。
まさか、彼以外の人がこの部屋でお茶を飲むことになるなんて、考えもしてないんだろうな。
内心で苦笑しながら、茶葉を紙の袋に入れてティーバッグを作る。
ほぅ、と息をつく気配にふと目を上げると、彼女は窓を拭き終わったのか、雑巾を手に一歩下がって窓を眺めているところだった。
「・・・終わりました?」
栗鼠さんを驚かさないように、そっと声をかける。
すると彼女は振り返って、にっこり笑って頷いた。
掃除用具を持ち上げた彼女を呼び止めて、お茶を淹れる。
「ほんとにいいんですか~?」と、ほにゃりと表情を崩した彼女は今、ソファに腰掛けてお行儀よくしていた。
もちろん、バスルームで手を洗ってきてもらったあとだ。
お茶請けにチョコレートを添えて、カップをテーブルに置く。
普通のコだろうから、私の淹れる普通のお茶でもきっと大丈夫だろう。
「いただきまーす」
彼女がカップに口をつけたのを見届けて、私もお茶を口に含んだ。
「・・・おいしいです」
「・・・よかったです」
どちらからともなく微笑む。
一緒にお茶を飲んで、気安い空気が流れ込んできたのを感じて、私は口を開いた。
「あの、お願いがあるんです・・・」
小首を傾げる彼女は、目で「何ですか?」と先を促しているようだ。
私は手を組んで、小指に嵌めた指輪を撫でた。
「私、髪を結い上げるのが上手に出来なくて・・・。
明日の朝、ここに来て、私の髪を結ってもらえませんか・・・?」
正直なところ、あんな紙切れを拾ってしまった次の日も、彼に髪を結ってもらえるほど、私の神経は図太く出来てない。
空色の目の中に、黒髪の彼女が映っていたらと思うと、今だっておかしくなりそうだ。
でも彼女には彼女の仕事があるだろうし、休める時は休みたいだろう。
ダメもとでお願いした私に向かって、彼女は目を見開いて固まった。
「・・・い、いいんですか触っても・・・?!」
絞り出した、とでもいうような言い方に、今度は私の方が固まる。
「え、やめといた方がいいです、」
「ぜひお願いします頑張ります!
前から触りたいと思ってたんですー!」
「か」が私の口から出る直前に、前のめりになった彼女とは逆に、私は上半身をほんの少し仰け反らせてしまった。
栗鼠さん、お茶、こぼさないようにね。
「そ、そうなんだ・・・?」
かろうじてそう言うと、彼女が「あ、」と何かに気づいたように声を発する。
私は小首を傾げた。
やっぱりやめといた方がいいんだろうか。
「でも、シェイディアード様がなさってたんですよね・・・」
「・・・えーっと・・・」
さすがに詳しい事情を話すのはよくないと思って、私は口ごもった。
彼女は彼女で、主人が毎朝していたことを勝手に引き受けていいものか、思案してるんだろう。
頬に手を当てたまま、視線を彷徨わせている。
「自立、したいんですよね・・・」
言葉を選びながら話すと、彼女は「じりつ・・・」と私の言葉を反芻した。
私はひとつ頷いて、彼女の目を見つめる。
「渡ってきてから、ずっとこのお屋敷でお世話になってるけど・・・。
いつかは、自分の力で生活しなくちゃいけないと思ってるんです。
その最大の難関が、自力で髪を結い上げることなわけで・・・困ってるんです」
「なるほど・・・」
真剣なふりをすれば、彼女も神妙な面持ちでそれを聞いてくれる。
きっと純粋な良いコなんだろう。
ほんの少し、胸の底に生まれた罪悪感を無視して、私はさらに言い募った。
「教えてもらえばいいんでしょうけど、彼にそんな時間はないと思うんですよね。
もうすぐ彼のお父さんも帰ってくるはずだし、なるべく迷惑はかけたくなくて・・・。
・・・私から彼に言っておきますから、お願い出来ませんか・・・?」
控えめに小さな声で言えば、彼女はゆっくり頷いてくれた。
それからは、この部屋の掃除が終われば、あとは夕方まで休憩だと話してくれた彼女と、いろんなことを話して過ごして。
メイド仲間のことや、ジェイドさんのこと、街で流行っているものなど、話題は多岐にわたった。
栗鼠のように小刻みな動きが可愛らしくて、妹と思えるくらいに歳が離れてるような気はするけど、久しぶりに友達と話しているような感覚に、私は小さな幸せを見出していた。
でも、そんな時間はあっという間に過ぎて、彼女は掃除用具を持って部屋を出ていったのは、ずいぶん前のことだ。
「・・・カップケーキ、もういいかなぁ・・・」
窓の外がだんだんと夕暮れに近づいているのを眺めて、ため息をつく。
何もする気が起きなかった。
栗鼠さんとの会話が楽しかった反動なのか、今、気分は落ちに落ちてどん底だ。
彼女が出て行ってから、ほとんどこの場所から動くことなく、ずっと同じことばかり考えて。
考えては、ため息がついて出る。
・・・うじうじ、したくないのになぁ・・・。
これを最後のため息にしよう、ともうひとつ息を吐くと、こてん、とソファに横になった。
「・・・・・・」
かすかな吐息と、そっと近づいてくる気配に意識が浮上する。
まだまどろんでいたいと思うと、意識が少し沈みかかった。
息を吐き出して、体をちぢこませる。
そういえば、ちょっと寒い気がする・・・。
そう思っていたら、ふいに大きな手が頭に乗せられて。
じんわり温かいものを感じて、呼吸が楽になる。
そのまま大きな手は、首や肩をするすると滑っていった。
「つばき・・・」
・・・ああ、やっぱりジェイドさんだった・・・。
声を聞いて頬が緩んでしまうのは、半分眠っている私がものすごく無防備だからだ。
起こさないようにしてるのか、彼は声をひそめたまま話しかけてくる。
「・・・あなたまで、いなくなってしまったかと・・・」
鼓動が、どくん、と音を立てた。
瞬時に意識が覚醒する。
あなたまで、って・・・どういう、意味・・・?
・・・お姉ちゃんのこと、言ってるの・・・?
言葉の意味を悟って、頬を撫でる彼の指先をものすごく不快だと感じてしまう。
同じ手で触らないで欲しい、と胸の奥が軋む。
そう思うのに目を開けられない私は、ずるいんだろうか。
「風邪引きますよ・・・」
そっと囁いたと思えば、体が宙に浮いた。
浮遊感は少しの間で、ゆっくりと下降したのを感じて、ベッドに連れてこられたんだろう、と見当をつける。
彼は私の頭を少し持ち上げて、そっと髪を解いた。
そして、首筋に彼の吐息がかかった気がして、私はみじろぎする。
何、してるんだろう。
そう思っていたら、彼が何かを囁いた。
くすぐったさに気を取られた私は、それが何だったのかを聞き逃す。
きっと大して意味もない言葉だ、お姉ちゃんを連想させることだったかも知れない、なんて、聞かなくてよかったんだと思うことで、自分を納得させた。
「つばき」
彼の声が、耳元で響く。
囁きではない声に、心臓が跳ねた。
「起きてるんでしょう?」
確信を持っているんだろう、言葉に強さがある。
私は、このまま狸寝入りしても見逃してくれるだろう、とは思いつつも、素直に目を開けた。
ベッドの上で身を起こして、腰掛けている彼と目線を合わせる。
「・・・ごめんなさい」
ついて出た言葉は、それだった。
何を謝っているのか、自分でも分からないけど。
「どうしました?
どこか体の調子でも・・・?」
間近に迫った彼の顔に驚きながらも、私は首を振る。
いざ目の前に彼がいるとなると、反感を持った心も大人しくなってしまうようだった。
意気地なしだな、と自分でも思う。
問い詰めることが出来るだけの強さがあれば、もう少し気持ちが楽だったのかも知れない。
空色の瞳に映るのは私で、今、そこに彼女の面影を映そうとしている様子はない。
それにほっとして、私は言う。
「だいじょぶ、です」
声が掠れたのは、きっと乾燥してるから。
声が震えたのは、喉が詰まった感じがしたからだ。
彼が、頬に触れる。
泣きたくなってカオが歪む前にと、俯いた。
けど彼はそれを許してくれない。
そっと、でも抗えない強さで私に上を向かせた。
目を覗き込まないで欲しい。
「ほんとに・・・?」
彼が、私のおでこに自分のそれを、そっとくっ付けた。
帰ってきたばかりなのか、冷たい。
気持ちよくて思わず息を漏らすと、ふいにおでこが離れていく。
そして、鼻先が触れるかどうかという近さで、彼は目を伏せた。
刹那、何かを考えているのかと思わせた彼が、小首を傾げる。
そのまま、ただでさえ近かった距離が、もっと近くなっていって。
「・・・つばき・・・?」
気づいた時には遅かった。
私は無意識に、ほんの少し顔を彼から遠ざけていて。
彼は呆然と、そんな私を目を大きくして見ていた。
ああ、やっちゃった。
そう思った時には、彼の顔を見ることが出来なくなっていた。
「うそ、つきました・・・」
咄嗟に言葉を絞り出す。
「のど、痛くて・・・。
感染るかも、知れないから・・・」
声が震えるのは、喋ると喉が痛いから。
そう思い込んで言うと、不思議と本当に喉が痛くなりそうだった。
・・・痛いのは、胸の奥の方かも知れないけど。
次の日、私は熱を出した。
仮病が本当になるなんて、この体、よくできてる。




