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「おはようございます」
鉄子さんの愛想のかけらもない挨拶から、私の1日は始まる。
もう何度も繰り返してきた動作は、自然とこなせるようになっていた。
まず執務室の中へ入り、鉄子さんから預かった書類や手紙を机の上に置く。
そしてコートをかけてから、書類の緊急度をチェックしてジェイドさんが仕事をしやすいように並べ替える。
手紙は差出人の名前が上にくるようにして並べておく。
そのあとは、鉄子さんにお願いしてお茶のセットを持ってきてもらう。
・・・もう少ししたら、陛下や皆さんとの朝議を終えたジェイドさんが戻ってくるはずだ。
その頃にあわせてお茶を淹れるのが、私の朝の日課になっていた。
天体盤を眺めて、なんとなく息を吐く。
鉄子さんには、ヴィエッタさん突入の件の後、こってりお小言をいただいた。
表情筋など不要です、と言わんばかりの無表情な彼女が、渋いカオをしてお小言を言って、そのあと目を伏せてを繰り返していた。
それを見て、とにかく謝り倒した私を、そばで見ていたジェイドさんは失笑していて。
鉄子さんは、言葉を失っていた。
まあ、最後には「私は、あなたなど足元に及ばないほど、強い自信があります。守るのが私の仕事ですから、あなたは大人しくしていて下さい」なんて言われてしまった。
その時の彼女が格好良くて、ちょっとうっとり眺めてしまったのは、気づかれてないといいな。
ちなみに、お詫びにとカップケーキを渡したら、すごく微妙なカオをされた。
後日「美味しくいただきました」と言われたから、嫌ではなかったと信じたいけど・・・。
かちゃり、とドアの開く音と一緒に、彼の声が聞こえた。
「体調は?」
天体盤から彼へと視線を移した私は、まだ私の体調を気にしていたらしい彼に向かって苦笑しながら首を振る。
「だいじょぶ」
コートを掛けながら顔だけをこちらに向けた彼は、ほのかに微笑んでいた。
口を開けばふた言目には、私の体調だ。
こりゃあもう、クセになってしまってるな。
「今、お茶淹れますね」
用意してもらったお茶セットで、2人分のお茶を淹れ始めて思い出した。
そういえば、手紙の中に王立学校の校章が入った封筒があったのを思い出して、声をかける。
「手紙の中に、王立学校の封筒が混ざってました」
「ええ、そうみたいですね・・・たぶん、父からだと思うのですが・・・」
見れば、もう手にとって眺めていた。
椅子を引いて腰掛けた彼は、引き出しを開ける。
私は、彼が手にした封筒と、引き出しを開ける動作を目にして、反射的に視線を逸らせた。
しゅ・・・と紙を切る音がして、鳥肌が立つ。
ペーパーナイフですら、直視するとダメなのだ。
一度見てしまうと、絶対にいけないと分かっているのに、目が逸らせなくなって、自然と切っ先の方へと目がいってしまう。
ちなみに鋏は大丈夫。
たぶん、ナイフのかたちをしたものが、いけないんだろう。
「・・・今度、つばきが扱っても平気そうなのを探しましょうね」
お茶を淹れることで意識を逸らしていた私に、苦笑しつつ声をかけてくれた彼は、かさりと便箋を取り出して、集中して文字を追いかけ始める。
その間に2人分のカップから湯気が立ち昇り、私はそっと、小さなトレーに乗せたカップを机の端、書類からなるべく遠いところに置いた。
自分の分は、お茶セットに置いたままにしておく。
ついうっかり、なんてことが起きたら困るから。
彼が手紙から顔を上げた。
その表情は、なんとも言いがたい。
「やっぱり、教授・・・?」
堪らず先に問いかけると、彼はこくりと頷いた。
どことなく緊張感の漂う彼は、ひとつ息をついて私に視線を向ける。
「エルの検査がひととおり、終わったみたいです。
2人で、王都に出てくると・・・」
「・・・え?」
「・・・え、ですよね。
でも、本気みたいですよ・・・」
ため息混じりに彼が言って、ほどよく冷めたお茶に口をつける。
お茶を含みつつ手紙を渡されて、私は半信半疑のまま内容を読んだ。
教授の話では、シュウさんの目が金色になるのは血中のエルゴン値が関係あるのは間違いないようだった。
それに併せて、エルゴンにも種類があるのかどうか、なども調べたらしい。
分かったことを全て手紙に書くのは面白くないから、これから王都に向かう、と書いてあった。
「でもこれ・・・来るって、いつなんだろ・・・」
肝心の、いつホルンを出るのかが書いてないのだ。
「あー・・・おいしー・・・」
しみじみ呟いた彼が、私を見上げた。
「いつまで経っても普通ですねぇ」
「はは・・・どーも・・・」
悪意が一周したとしか思えない褒め言葉に、私は曖昧に微笑んだ。
ほぅ、と息をつかれてしまっては、目を吊り上げる気にもなれないってものだ。
すると、彼はほのぼのした表情から、真剣なそれに切り替えて首を捻った。
「消印が一昨日ですから・・・最悪、今日着くんでしょうね。
着いたら、屋敷に滞在することになると思いますから・・・使用人たちに連絡をして
おいた方がいいかも知れません・・・」
きっと頭の中で、いろいろと考えているんだろう。
視線が左右に行ったり来たりしている。
「ジェイドさん・・・?」
ひとつ思いついて、私は口を開いた。
彼の視線が私に向けられて、先を促している。
「私、行ってきましょうか?
お手伝い、出来なくなっちゃうけど・・・。
見た感じ、今日は急ぎの書類、なさそうだから・・・」
「うーん・・・でも・・・」
申し出に、彼がカップを置いて頬杖をついた。
「1人にするのはちょっと心配だし・・・」
何を言うのかと思えば、そんなことか。
私はため息をついてから、彼に向かって微笑んだ。
いつもは見上げてばかりだから、椅子に腰掛けた彼のつむじが見えて、なんだか得した気分になる。
ついでに役に立てそうだという予感に、心が浮き足立った。
「だいじょぶです。
なんなら、誰かに運転してもらって、車で戻ることだって出来るんだし」
「そうですか・・・?」
上目遣いをした彼が、年甲斐もなく可愛く見えてしまったことは、絶対に誰にも言わないおくことに決めて、私は頷いた。
「じゃあ、帰ってますね。
またカップケーキ、焼いておきますから」
結局、往復するのも大変だろうから、と私は今日は自宅待機になった。
教授からの手紙を持って、車庫に向かう。
帰ったら、彼が美味しいと言ってくれたカップケーキを作って待ってる、と約束して。
廊下の窓の前で立ち止まって、外の様子を見る。
日が差して、雪を溶かしているのだろう、歩道が時折キラキラと日を照り返していた。
色素の薄い私には眩しくて堪らないけど、これも春が訪れる予感を誘って気持ちがいいものだ。
きっと春までには、寒波がもう一度くらい押し寄せてくるんだろうけど・・・。
私は今降り注ぐ日差しを、眩しく目を細めて見つめてから、もう一度歩き出した。
すると、床に何かが落ちているのが目に入る。
紙だ。
四つ折にされた紙。
外を見る前には、なかったような気がするけど・・・。
不審に思いつつも、こんな薄い紙切れが爆発したりするはずはない、と私はそれを拾い上げる。
見ていたよりも大きな紙をそっと広げる。
そして、書かれていたことに、私は目を見開いた。
驚愕に、口元が戦慄くのを抑えられない。
心臓がばくばく煩くて、考えが纏められなかった。
人々の喧騒が、遠くから聞こえる。
コの字型に伸びる廊下は、私の位置から人通りが多い通りは見えなかった。
だからきっと、私が立っていられなくても、誰も見ていたりはしないはずだ。
膝から力が抜けて、ぺたりと座り込む。
数日雪が降ってないから、絨毯はさらりとしていた。
毎日掃除してくれている、白の人達のおかげか。
混乱した頭が、変なことばかりを思い浮かべていく。
これが現実逃避ってやつか。
私は、ゆっくり立ち上がって、紙をコートのポケットにしまって一歩、踏み出した。
約束したんだった、と思い出す。
この世界で、自分の足で立つこと。
じゃないと、いくら手を貸したところで倒れてしまうって。
こんな時に、彼の言葉を思い出すなんて・・・と自嘲気味に笑みを浮かべた私は、そのまま、最初に行こうとしていた場所へ、向かうことにした。
脳裏に浮かぶのは、空色の瞳と、黒髪の彼女。
胸が苦しくて、息が上手く出来ない。
でも、もうジェイドさんの執務室に戻ろうとは思えなかった。
紙に書かれていたことは、ほんの数行の短い文章だった。
『補佐官が想っているのは、今でも黒髪の子守』
『書庫での逢瀬を見た。これは事実』
何のことを指すのかサッパリ解らないのに、突きつけられた言葉が鋭すぎて。
このまま屋敷に行ってもいいのか、と騒ぐ心臓を無視して、私は車に乗り込んだ。
外の景色は眩しくて、もう目を開けてはいられなかった。




