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「つばき、そろそろ行きますよ」
「はーい」
少し離れた所から聞こえたジェイドさんの声に、私はコートのボタンをはめつつ答えた。
今朝は冷え込みが緩んだから、イヤーマフは必要ないだろう。
朝ごはんもしっかり食べたし、髪も、赤い花の髪留めで結い上げてもらったし。
鏡の中、少し体を捻ったら赤いものが見える。
綺麗な赤をじっと見つめてから、ボタンに手をかけた。
「・・・大丈夫、ちゃんと可愛いですよ」
鏡の中を通りすぎた彼が、その刹那に耳元で囁いた。
朝っぱらから色気に溢れた声だこと。
内心息を吐きつつ、私は肩を竦める。
こう何度も似たような台詞を耳にしてると、人間ある程度の耐性が身に付くものらしい。
・・・私みたいなのでも、ちゃんと成長するんだな。
ジェイドさんが、ドアノブに手をかける気配がする。
「・・・よし」
鏡の中で頷いた自分は、少しは強くなれたんだろうか。
ホルンの街から戻って、どれくらい経っただろう。
研究室で教授と顔を突き合わせたあの日の翌日、私とジェイドさんは王都に戻ってきた。
結局、エルゴンは魔力である、という・・・ジェイドさん曰く「空に浮かぶ月が落っこちてくるくらいに有り得ない」らしい・・・説に則って、教授はシュウさんを検査することにしたそうだ。
シュウさんはまだホルンに残っている。
もともと蒼のお仕事は次の団長にまるっと引き継いであるらしいから、何の憂いもなく、検査に協力すると言っていた。
口ではお姉ちゃんのことばかりだけど、やっぱり自分の身に起きていることだから、気にはなっていたらしいかった。
ジェイドさんは、お父さんである教授に「くれぐれも無茶なことはしない」ことを約束させて、とっても渋いカオをして、私と共に王立学校を出たのだった。
王都に戻った私とジェイドさんは、それまでと同じように補佐官とその雑用係として、ほとんど毎日一緒に王宮に通っている。
実は、王都に戻った次の日に改めて陛下に紹介されて、続いて奥様方、お子様方、白と紅の団長達に紹介された。
新しい蒼の団長に関しては、事情を何も知らないから、と会うことはなかったけど。
私が渡り人の秘密と、帰る方法がないことを知ってしまったからなのか、ジェイドさんはもう秘密路線はやめたらしい。
そういうわけで、彼が皆さんと引き合わせてくれたわけだ。
そんなことがあってから、これまでなかった紅の本部へのおつかいが増えた私は、当然紅の人達とも接する機会が増えた。
書類は当然、団長宛てが多いから、本当に気が重い。
白状すると、私は紅の団長が苦手だ。
「意地悪されたら、すぐに言うんですよ」と微笑んだジェイドさんのカオは、なんだか意地悪されるのを心待ちにしてるようにも見えてしまうから困る。
チクったら本当に仕返ししちゃいそうな気配を感じ取った私は、どんな皮肉を言われても、彼に告げ口することはしないと決めている。
じゃないと、トラの威を借るキツネってやつになってしまうから。
そして、そんな小娘を世話してるとか何とか、ジェイドさんの評価が下がったら絶対に嫌。
ともかく、そんなわけで紅の団長の皮肉やら嫌味やら、変な探りやらを上手いことかわして、やり過ごしているところなのだ。
かわすというか、言葉を発すると揚げ足を取られて身動きが取れなくなっていくに決まってるから、とにかく必要最低限の言葉しか発しないようにしてるだけなんだけど。
・・・何の修行なんだろう、あれ・・・。
対して、初めて会った、白百合こと白の団長ディディアさんは、すごく綺麗で女性らしい雰囲気の、礼儀正しい人だった。
隣に立つ白薔薇、ヴィエッタさんは、やっぱり少し棘のある感じだったけど・・・。
ジェイドさんの妹だし、一度突入されたことがあるから、その時の印象が強すぎてあんまりプラスのイメージが持てずにいることは、間違っても口に出せない。
陛下の奥様方に関して言えば、きりっと現実的なチェルニー様と天然かわいいレイラ様は、姉妹のように仲良しに見えた。
ジェイドさんの代役を勤めたというオーディエ皇子は、私達と入れ替わりに王立学校に戻ったらしくて顔を見ることは出来なかったけど、どうやら相当の美男子らしい。
王宮の廊下や、街に出た時に少女達がアイドルを騒ぎ立てるみたいにして、盛り上がっている場面に何度も遭遇したから。
お姉ちゃんが子守をしてた、今年6歳になるというリオン皇子は、ほわんとした可愛い子。
そして、まだ1歳にも満たないルディ皇女もいて、お姉ちゃんはこの皇女様を妊娠したレイラ様に、ベビーシッターとして雇われたようなものだったらしい。
それにしても、ジェイドさんが、私が未菜お姉ちゃんの従姉妹だと告げた時のそれぞれの驚きようったらなかった。
隠してた理由は上手いことはぐらかしてたみたいだけど・・・。
私はそんなことよりも、なんだか複雑な気持ちになってしまって。
向こうで私がお姉ちゃんに会った件について、証拠も確認したから信用してる、とジェイドさんが話すと、大人達が「ミーナ」を連発しだしたからだ。
いなくなってしまって、ふた月経つかどうか。
過去と呼ぶには不十分な頃合のはずなのに、私は王宮の中で「ミーナ」とか「子守」という単語を耳にすることがほとんどなかった。
皇子様の子守をしてたのに、だ。
けどそれは、彼らがお姉ちゃんをどうでもよく思っていたんじゃなくて、気落ちしているはずのシュウさんを気遣って、敢えて触れずにいたからなんだ、ということに気づいてしまった。
口にしていい雰囲気でなければ、王宮で働く人達も、敢えて噂を囁くこともないだろう。
もしかしたら、私の行動範囲でそういうことがなかっただけかも、知れないけど・・・。
ともかく、お姉ちゃんの存在が、彼らの中で決して小さくないことを知ってしまって、私は少し戸惑っていた。
嘘をついた。
戸惑っていたんじゃなくて、申し訳ない気持ちになっていたんだ。
渡って来るのが、私じゃなくてお姉ちゃんだったら・・・そう思うと、申し訳ない気持ちが胸に広がってしまって、なかなか皆さんと目を合わせられなかった。
「つばき?・・・つばき?」
「・・・あ、」
窓の外を眺めていた私に、ジェイドさんが声をかけていたのに気づく。
私は言葉にならない声を漏らして、運転席の彼へと顔を向けた。
彼はあまり良いカオをしておらず、どうやら何度も私を呼んでいたらしい、と思い至る。
「ごめんなさい、ぼーっとしてました。
・・・えっと・・・?」
素直に謝ると、わざとらしいため息が。
困ったように微笑む横顔を見て、本気で苛々しているわけではないみたいだと、ほっと胸を撫で下ろした。
彼は意地悪なことをする時もあるけど、基本的には私に甘いんだ。
屋敷を出て、車は王宮へと向かっていた。
歩道には、それぞれのお店の看板や商品が並べられている。
また新しい1日を始める準備が、着々と進められていた。
「最近、やたらとぼーっとしますね。
・・・どこか体調が優れないなら、ちゃんと言わないと、」
「だいじょぶですってば」
早口にまくし立てた彼に、私は呆れ半分で言い返した。
このやり取り、もう何度目だろう。
あの時軽くショックを受けてから、なんとなくだけど、「これでいいのかな」という思いが拭い去れないでいる。
彼は、私の心のなかまでは解らなくても、何かを感じているんじゃないだろうか。
2人きりになるとどうしても気が緩んでしまって、私は何度もぼーっと考え事をしてしまうことが多いのだ。
そのたびに、「体調が悪いなら無理はしないこと」と彼に言い含められている日々。
そして私は決まって、大丈夫だと答える。
これを繰り返しても、彼が疑り深くなるばかりだと解ってるのに、どうしようもなかった。
甘えてる証拠なのかも知れないな。
でも、紹介してくれるまでに、彼がいろいろ考えてくれてたのを知ってるから、このもやもやした気持ちをぶつけるのだけは駄目だと思う。
絶対に、彼は自分のせいだって気にするだろうから。
・・・この気持ちは、私が自分でケリをつけるべきだ。
だって、私がこっちに来たのも、お姉ちゃんがあっちに渡ってしまったのも、私の意志とは無関係な出来事だった。
私に落ち度はない、と思う。
そう思うくらいの冷静さは持ち合わせている。
私は彼の心配そうなカオを見て見ぬふりして、敢えて明るく振舞った。
「もぉ、ジェイドさんは心配しすぎ」
ぷに、と人差し指で彼の頬を軽く突付く。
運転中だから避けることも出来ない彼は、私にされるがまま、頬をぷにぷにされていた。
最初はそんな私に苛々してたみたいだけど、だんだんと頬が緩んできて。
最後にはそれが苦笑いに変わった。
「こら、つばき。危ないでしょう」
そう言いながらも、ちょっと嬉しそうな彼は新鮮だった。
普段、飄々としたカオをして仕事をしてるから。
だから、私だけが知っているカオだったらいいのにな、と思ったら、ふいに泣きたい気持ちになってしまった。
両手を膝の上に置いて、私は彼の横顔を見つめる。
金色の髪は、寒さを緩めた日差しを受けて、きらきらしていた。
空色の瞳が細められるのを見て、安心する。
「何かあったら、ちゃんと言うから・・・。
ありがと、ジェイドさん・・・」
彼は私の言葉に、微笑んでくれた。
ぼーっとしてたから気づかなかったのか、いつの間にか王宮の車庫に到着してたらしい。
車を決まった位置で止めて、かすかに聞こえていたエンジン音もぷつりと消した彼が、ドアのロックはそのままに私を見つめてきた。
いつもはすぐに下りて、執務室に向かうのに。
「つばき・・・?」
彼の囁きが、耳をくすぐる。
「はい・・・?」
自然と私の返事も、小さくなった。
空色の瞳を見ていると、他のことに意識が向かないように、思考を縫いとめられたみたいになる。
手だけをかすかに動かしたら、爪の先が、こつり、とぶつかった。
ああ、ジェイドさんに買ってもらった指輪だ。
思い至って、頬が緩む。
彼が真剣な目をしてる時に限って、口元が緩くなってしまうなんて。
またしても呆れられてしまうんじゃないだろうか。
そう思った時だった。
彼の手が、頬に触れる。
ハンドルを握って、指先だけが冷たくなった手が気持ちよくて、自然と目を閉じた。
「絶対に、無理しちゃ駄目ですよ。
決して体が丈夫な方ではないのだから・・・。
自分が渡り人だということ、忘れないようにして下さいね」
ほんとに心配なんです・・・だなんて、私、泣いちゃいそうですよ。
まだ今日は、始まったばかりなのに。




