26
「つばき、つばき」
ぺしぺし、むにむに、と頬が引っ張られたり抓られたりする感触に、意識が浮上した。
暖かい何かに包まれているのが気持ちよくて、もう少しまどろんでいたい。
ちょっとくらい痛くても、今なら眠気が勝てる・・・。
「こら、起きなさい」
ちょっと待ってよ、まぶたがだるくて・・・。
今度はゆっさゆっさ体が揺さぶられる。
・・・あれ・・・?
だんだんと意識が覚醒してきて、毛布を剥ぎ取ろうとする何かに抵抗して体を丸めながら、私は思い出せずにいた。
なんでジェイドさんに起こされてるんだろうか。
「ああもう、いい加減にしなさい」
彼が至極面倒くさそうな声色が聞こえたかと思った瞬間、おでこでぺしっと音がして、つきん、と痛みが走った。
毛布を掴んでいた手が緩んで、毛布が剥ぎ取られる。
寒いし痛いし。
瞼がだるいんだってば。
「・・・ぃっった・・・」
「大げさ。
・・・もう観念して起きなさい」
私は目を瞑ったまま、彼に問いかけた。
「おはよ、ございます・・・私達昨日、話をしてましたよね・・・」
「ええ。おはよう。
・・・目、開けないんですか?」
「まぶた、腫れちゃって重くて・・・。
ここ、ジェイドさんの部屋ですか?」
起き抜けの鼻にかかった声に、違和感を感じる。
寝起きがこんなにだるいの、久しぶりだ。
昨日たくさん泣いたから・・・?
「ああ、そうか」
彼の穏やかな声が聞こえた。
目を閉じてると、それ以外の感覚が冴えるって本当なんだな。
耳元で言われてるみたいな感覚に、鼓動が跳ねる。
まだ頭がしっかり働いてない私には、ちょっと刺激が強い気がする。
「覚えてないんですね。
昨日話をしたあと、チョコレートを食べてから、うとうとし始めたんですよ。
で、あっさり寝入ったので、ベッドに運びました」
・・・そういうことですか。
「大丈夫ですよ、まだ美味しくいただいてませんから」
朝っぱらからなんてことを。
これじゃ絶対、顔なんか見れない。
温かいタオルと冷たいタオルを交互にまぶたに当てながら、私はまたしても、うとうとしていた。
温めて冷やすを繰り返すと、まぶたの腫れが引くらしい。
「寝すぎると、また夜眠れなくなりますよ?」
呆れを含んだ彼の声に、私はほわほわした意識をそのままに言葉を紡ぐ。
「そしたら、またジェイドさんに相手してもらうもん・・・」
「あのね・・・」
苦笑してるんだろうか、小さく声を漏らすのを聞いた。
さっきの問題発言のお返しだ。
「意地悪してるんですか・・・?
ま、いいですけど・・・。
そういえば、」
彼は気になる台詞を吐いたすぐあとに、緊張を孕んだ声を響かせる。
空気は肌で感じるのに、私はまだ彼の言葉のひとつひとつを理解出来るほど、頭が働いてはいなかった。
「昨日の、渡り人が消えてしまう話・・・覚えてます?」
「ん・・・覚えてます」
眠くて仕方ない私は、なんだかろれつも怪しいものだ。
そんな私にはお構いなしで、彼は言い募る。
「昨日は途中であなたが寝てしまったから、話せなかったんですが・・・。
あれは、ごく少数の者しか知らないことなんです。
口外しないように、と陛下から言われてますから、秘密にして下さいね」
言いながら、冷たいタオルと熱いくらいのタオルを取り替えてくれる。
目がじんわり温まって、気持ちいい。
「渡り人が知ったら、常に死を意識させて、負担になってしまうでしょうから・・・」
ぽつりと付け足された言葉は、私の心に影を落とした。
話を聞いた時は、ちゃんと分かるほど頭が働いてなかったし、ジェイドさんの心労が心配で、自分がどう受け止めるかなんて、意識しなかったから・・・。
今になって、何て事を聞いてしまったんだろうと思う。
消滅するってことは、死ぬってことと同義だということを、はっきり理解してしまった。
「私に、死を意識しろってことですか・・・?」
彼の理屈でいけば、私に知らせたって同じだ。
同じ渡り人。
彼らに死を意識させたくなければ、私にも話す必要なんかない。
それとも、死の恐怖と向き合って、乗り越えろとでも言うの。
突きつけられた現実は、すごく残酷だった。
恐怖が少しの怒りを生み出して、私はまぶたを温めるタオルを掴んだ。
「・・・私は一度、ミナの体が透けるのを見ているんです」
「お姉ちゃんが・・・?!」
思わず起き上がって、意外と近くにいた彼の胸倉を掴む。
タオルが、ぽとりと膝の上に落ちた。
もうまぶたがどうとか、どうでもいい。
「それ、ほんと・・・?!」
「ええ」
掴まれたまま、彼が淡々とした口調で肯定する。
それを聞いたら、一気に身近な出来事として意識してしまった。
お姉ちゃんが、消えかけただなんて。
小刻みに、胸倉を掴む手が震えだす。
「本人は気づいていなかったそうですが・・・・・」
だから、昨日の彼はあんなに取り乱していたんだ。
実体験からくる忠告なら、ほんの僅かな可能性であっても該当する私が、怯えたり泣いたりしないことに腹が立つかも知れない。
ちゃんと解ってない、と思われたならなおさらだ。
「それに、」
言いかけて目を逸らした彼を、思い切り揺さぶった。
「まだ何かあるんですか・・・?!」
言いにくそうにする彼の姿に、嫌な予感がする。
「当のミナとエルが、子どもの渡り人が消滅する場面を、目撃してるんです。
その光景に引き摺られるようにして、ミナも消えそうになったらしくて・・・。
私や陛下は、2人の体験から消滅の事実を知ったんですよ」
「でも・・・でもっ、お姉ちゃんは無事だったんですよね。
その後は何もなかったんですよね?!
だから、シュウさんと結婚することになったんですもんね!」
大事な人が命の危険に晒されたことに、私は気が動転していた。
急に、消滅という単語が目の前に迫ってきて、怖くなる。
背中が寒い。
目の前がぐらつく。
「・・・そうですよ、ミナは消えませんでした」
それを聞いたらほっとして、彼の胸倉を掴んでいた手から力が抜けた。
シャツに皺が寄っているのに気づいて、申し訳ないことをしちゃったな、なんて今さらながら後ろめたい気持ちがこみ上げる。
でも、それも一瞬のことで、また別に聞きたいことが頭の中に浮かび上がってくる。
「・・・じゃあ、その子どもは、どうして消滅しちゃったんですか・・・?」
自分が同じ道を辿りたくないからって、詮索してしまうのは間違ってるんだろうか。
なんだかもう、いろんなことが判断出来なくなって言葉の歯止めがきかない。
だるいまぶたを瞬かせて、私は彼を見た。
空色の瞳が、静かに私を見返している。
「彼は・・・親子関係が一番大きな理由だったようです。といっても、推測ですが。
聞いた話では、赤ん坊の時に渡ってきたのを育ての親が隠していたそうです。
王宮に出入りする家族でしたから、きっと何かの折に口さがない者たちが囁いたことが
子どもの耳にも入ったんでしょうね。
子ども心に、噂を耳にしてからずっと、自分の出生を疑っていたのではないかと・・・。
そして、あることがきっかけで、その疑問が確信に変わってしまった。
子どもは皆、自我が不安定ですから、世界に根付く力もあってないようなものでしょう。
この世界の子どもですら、母親との関係を疑えば精神的に不安定になるでしょうに・・・。
・・・結局、母親の目の前で、光の粒子になって、消えてしまったそうです」
敢えて淡々と語った彼は、何かをやり過ごすようにして拳を握りこんでいた。
私はその子どもに思いを馳せて、言葉を失う。
消える瞬間は、一体、世界がどんなふうに見えたんだろう。
この世界で育って、幸せだったんだろうか。
そんなことを思うのと同時に、どうしたら防げたのかを、自問自答し始めていた。
ふいに、ワイドショーのいじめ問題か何かで教育評論家が話していたことを思い出す。
「親子関係が大きな理由ってことは・・・、
血のつながりはないけど、私達は君のことをちゃんと愛してるんだよ、っていうことを、
子どもにちゃんと伝えて、解ってもらえてたら消滅しなくて済んだってこと・・・?
心の拠り所がしっかりしてれば、防げたってこと・・・?」
カナダで暮らしてた頃の友人の中には、自分が養子だと知っている子も少なくなかった。
実子であることがほとんどだけど、養子が少ないかといえば、知っているだけでも友人の中に数人はいたのを思い出す。
でも、自分の出生と取り巻く環境をよく思わない子は、いなかったように思う。
・・・まあ、養子を望んだ親が、本当のことを伝えた上で、愛情を態度と言葉で示してたんだろうな、と子どもではなくなった今だから想像出来るんだけど・・・。
半ば自分に確かめるようにして呟けば、彼が言う。
「そうですね、そうであったら消滅は避けられたのかも知れませんね・・・。
けど、いかんせん、初めて直面したことだったので、なんとも・・・。
ともかく、決して無視していい現象ではないので、あなたにも話しておくべきだと・・・」
言いながらも最後の方は声が小さくなった彼の手を、私はそっと自分の両手で包み込んだ。
握りこんで硬くなっていた手に、体温が戻ってくるように。
なんとなくだけど、彼が、私に話したことを良かったのか悪かったのか、思い悩んでいるんじゃないかと感じたから。
・・・ごめんね、ジェイドさん。
問い詰めるみたいに言葉をぶつけてしまったことを、心の中で謝って。
きっと、言うべきかどうか、時間をかけて考えてたんだろうな。
彼の沈んだカオを見たくないと思ったら、自然と明るい声が出てしまっていた。
「要は、あれですよね。
何もかもが嫌になって信じられなくなったら、危ないってことですよね」
「・・・かも知れません」
急に声色の変わった私を、彼は訝しげに見つめて。
どうやら私の手に包まれた自分の手には、意識がいかないみたいだった。
空色の瞳が、小さく揺れる。
しっかりしろ、補佐官。
「なら、大丈夫です。
まだちょっと、痛い時もあるけど・・・この世界に絶望したり、しないと思うし」
ポジティブな発言をしたら、自然と笑みが浮かぶ。
この際だから、言葉の力を借りよう。
後ろ向き発言は良い未来なんか連れて来ないんだよって、お祖母ちゃんも言ってたもん。
「聞けて、よかったです。
何も知らないよりは、自分を守る努力が出来るもん」
「そう、ですか・・・?」
きっぱり言い切ったのに、彼はまだ訝しげに私を見ている。
きっと、強がってるとでも思ってるんだろう。
信用ないな。
私は、そっと呟いた。
これは本音だから、ちゃんと彼に届くように伝えておきたい。
「私ね、何かあっても1人じゃないと思えるようになりました。
最初に見つけてくれたのが、ジェイドさんでほんとに良かった。
そう思うってことは、大丈夫ってことなんですよ」
「つばき・・・」
彼が私の名前を呟く。
幾度となく聞いてきた言葉なのに、特別な響きが含まれてる気がして、鼓動が跳ねる。
「・・・頑張って聞いたら、今日は出かけるんでしたよね?」
格好つけた恥ずかしさを紛らわせるように早口でまくし立てれば、彼が笑顔で頷いた。
両手で包んでいた彼の手は、いつもと同じで、温かい。
シャワーを浴びて服を着替えて、髪を結い上げてもらったら街に出発。
隣の部屋のシュウさんは、朝から調べものがあったりして王立学校の図書館に行ってるらしい。
昨日の夜ジェイドさんの部屋に来てたのは、教授が研究室に篭ると言った今日の予定を話し合うためだったそうだ。
・・・酒瓶持って、話し合い。
海賊か。
ちなみにジェイドさんは昨日の夜、シュウさんから「渡り人はこの世界の男女について何も知らない説」を初めて聞いたらしい。
だから苦笑いしてたのか、と腑に落ちた。
歩道に雪がたくさん積もることのない街は、朝になると大きな布で出来た、テントみたいなものが通りに沿って並ぶ。
吹雪にでもならないかぎりは、ほとんどの店が毎日出店するそうだ。
私はジェイドさんと並んでいろんな店を回った。
まずは朝ごはんだ、と思い立って食べ物を扱う店の並ぶ区域を。
その後は、私が目を引かれた所を辿って歩いていって・・・。
途中、ねこみみショップもあったけど、そこは無視。
そこだけジェイドさんが通り過ぎるのが遅かったことも無視。
そして今来ているのが、髪留めを扱ってるテント。
こういうのを見るのは好きな自分は、やっぱり女子だったか、なんて思う。
私は彼が一緒にいるのも忘れて、お小遣いの範囲で好きな物を買おうと決めて、目を皿のようにして品物を隅から隅まで物色していた。
「つばき?」
横から彼が声をかけてくる。
「んー?」
気もそぞろで申し訳ないと思いつつも、ずらりと並ぶかわいい小物から目が離せない。
「ちょっと、隣のテントに行ってきますね。
何もないと思いますけど、何かあったら大きな声、出すんですよ?」
「え、行っちゃうんですか?」
思わぬ言葉に、彼の方に向き直る。
離れることに不安を感じるのは、ヴィエッタさんと対面した時のことが頭の片隅に残っているから、なのかも知れないけど・・・。
表情に出ていたんだろうか、彼が困ったように微笑む。
「隣にいますから。ね?」
ぽふぽふと頭に手を乗せられてしまっては、頷くしかない。
ぱぱっと見て、私も隣に行くことにして、ジェイドさんの背中を見送った。
そのあと椿の花みたいな、赤い花がついた髪留めを見つけて、すぐさま購入した私は、彼のいるであろう隣のテントに向かった。
隣って言っても、両隣あるから・・・と少し離れたところからジェイドさん探す。
金色の頭はいくつか見えたけど、その中から彼を見つけるのはそれほど大変でもなく、すぐに見つけた安堵で頬が緩む。
彼はどうやら何かをじっと見ているようで、立っている場所から動く気配がなかった。
不思議に思って近づいていくと、彼が私に気づく方が早かったようで、振り返った彼と目が合って微笑まれた。
私も、買ったばかりの髪留めを見せて笑みを浮かべる。
「これ、買いました。
明日はこれで結って下さい」
「いいですよ、きっと似合うでしょうね」
なんて、目を柔らかく細めたカオで付け足されたら、嬉しくて仕方ない。
勢いよく頷いた私は、彼の見ていた物に興味が湧いてきて視線を走らせる。
「ジェイドさんは、何見てたんですか?」
「このあたりの特産品です」
そう言って指差したのは、大小さまざまな石だ。
キラキラしてるのもあるし、つるん、として私の顔をさかさまに映しているもの。
石だけのものと、加工されてアクセサリーになっているものもある。
「綺麗ですねぇ」
大好き、というわけでもないけど、それなりの興味はある私は、その輝きに素直な気持ちで見入っていた。
詳しくはないけど、これはダイヤかなとか、赤いからルビーかな、とか、それくらいには石の種類も知ってるし見当をつけることも出来る。
きっと、目の前に置かれてる石はダイヤモンドだろうな。
そこでふと、疑問を感じた。
・・・この世界でも、あっちと同じような価値があるんだろうか。
だって、あっちでは鍵付きのショーケースに入れてスポットライトを浴びてるような、すごく高価なものだったから、こんなテントで、布を敷いた台の上に無造作に転がってる状況って・・・。
「これ、何て名前の石ですか?」
「これは・・・、星の石ですね。
ここに置いてあるものは、お土産用の安いものですけど、王都の宝石店に行けば、
指輪やペンダントに加工したものが、もっと高価な値段で売られていますよ」
「なるほど・・・。
そういえば、お姉ちゃんがシュウさんから貰った婚約指輪、見せてくれました」
あれは高価そうだった・・・。
「そうでしたか。
そういえば、婚約指輪と結婚指輪は昔の渡り人が広めた文化のひとつ、なんですよ」
「へぇぇ・・・」
相槌を打ちつつ、目の前に転がる中からひとつを手に取る。
すると、私の手の中で輝く石を見ていた彼が言った。
「ひとつ買ってみましょうか」
「え?」
聞き返すと、もうそれは決まったことだったみたいで、
「どれがいいですかねぇ。
好きな物を選んでもらえます?」
どの大根にします?みたいなトーンで尋ねられて、私は戸惑ってしまった。
「どれにって・・・。
・・・いいんですか?」
「いいですよ?
するべきことがあって来ましたけど、せっかく来たんだから、ね?」
小首を傾げつつ言われれば、じゃあ、とこれだと思うものを見つけようと、たくさん転がる中を物色し始める。
キラキラした石達が、競うようにして輝きを増した気がする。
他のテントよりも狭い中を一周した私は、値段を気にしながら気に入ったものをひとつ見つけて、なんだか上機嫌のジェイドさんに買ってもらったのだった。
なんでもない、穏やかな時間が、すごく心地良かった。
傍からみたら、何の問題も抱えてない、普通の男女に見えるんだろうか。
・・・きっと問題を持たない人なんて、いないと思うけど。
落ちた影を見て見ぬふりで、彼と目が合うたびにどちらからともなく微笑んで。
すごく、楽しかった。
昼食をとるために入ったレストランで注文したものを待つ間、買ったばかりの髪留めを取り出す。
照明の下で見ると、花の中心にくっついた黄色い石の、つるん照りのある様子が甘くて美味しそうに見えてきてしまった。
楽しくて忘れてたけど、おなかはちゃんとへっていたらしい。
そして、真っ赤な花を見ながら、初めて自分の名前と同じ花を見た時のことを思い出していた。
椿は、寒くても陽にあまり照らされなくても、自分の強さで咲くんだって。
花だけが枝から切り離されたって、咲いたままでいられる強さ、すごいと思わない?
・・・そう言って見せられた椿の写真に見入ったのは、まだほんの子どもの頃だった。
自分の名前の由来に興味を抱いた私に、両親はにこにこしながら教えてくれたっけ。
・・・パパ、ママ、素敵な名前をありがとう。
面と向かっては言えなかったけど、本当に感謝してる。
私も、つよくなるからね。
「部屋に戻ったら、一度それを留めてみましょうね」
私が思いを馳せていることなんか知らないであろう彼からの言葉に、空色の瞳を見ながら、私はそっと微笑んだ。
脳裏をよぎるのは、遠い場所。
私は絶望なんか、絶対しない。
この時は、そう思ってた。




