20
重苦しい雰囲気の中、教授が「ごく普通のお茶をもう一杯」とご所望になったので、私は簡易キッチンに立っていた。
空気も空気だし、今回は文句も言わずに作業を進める。
シュウさんは黙ったままテーブルの上を見つめているし、教授とジェイドさんは、最近の王宮内の様子について話をしてるみたいだ。
2人の落ち着いたトーンの声が行き交うのを耳にしながらも、湯気がもくもくと立ち昇るのを見ている私の頭の中は、忙しなく稼動し続けている。
すごくシンプルに考えてた。
お姉ちゃんは泣いてたし、シュウさんと過ごして幸せだったみたいだし・・・私は彼女をこの世界に呼び戻せたらいいのに、くらいに思ってたけど・・・。
でも、そのために何かすることが、今度はこの世界に悪い影響を残すかも知れないなんて、1ミリも考えなかった。
この世界の事情をほとんど知らない私は、考えが足りなかった。
私みたいな小娘が、自分の気持ちだけで発言してもいい状況じゃないのかも知れない。
そう思うと、シュウさんにどうするのかなんて、聞きたくても聞けない。
差し出したカップを、それぞれが礼を言って受け取る。
お茶を含んだジェイドさんが、何か言いたそうに口を開きかけたのを見て、私はすかさず口を挟んだ。
「・・・もういいですから。普通なのは分かってます」
「・・・ふふ」
私に先回りされたジェイドさんが、眉を八の字にしているのを見た教授が、思わず、といった感じで失笑した。
「なんです」
そんな教授を一瞥したジェイドさんは、いささかムっとしているみたいだ。
ちょっと可愛いだなんて思ってしまったのは、あまりに空気が重かったから、その反動なんだと思うことにしよう。
「僕に似た可愛い息子がいて嬉しいなぁ、と」
「・・・全っ然似てないでしょう?」
他人が聞いていても恥ずかしいことを、さらっと言ってのける教授。
全然恥ずかしくもなさそうに、むしろものすごく嫌そうに、私に同意を求めるジェイドさん。
一見全然似てないようだけど、私はものすごく似てるような気がしてきた。
「でもジェイドさんも、そういう恥ずかしいこと言いますよね。さらっとしれっと」
ぷぷ、と教授がまた失笑した。
すごく嬉しそうに。
そして、それを見たジェイドさんがまた教授にムっとした表情を向けた。
私はそれを優しい気持ちになって眺めている。
この間本で読んだみたいに、この国は平和で、それはきっと、統治している家族とその周囲の人間がちゃんと血の通った繋がりを持ち続けてるからだと思う。
すごく、いい国なんだと思う。
ずっと続くといいな、とも思う。
良い所しか見えてないんだとは思うけど・・・。
2人のじゃれ合いみたいなやり取りを目の前にしながらも、頭の中をぐるぐる回るのは、さっき教授に聞いた話だった。
私の小さな脳じゃ処理出来るわけもないのに、だ。
今夜、この言いようのない不安が変な夢を見せるんじゃないかと、心配になるくらい。
「・・・さて。エル君?」
教授がジェイドさんをからかうのをやめて、ずっと黙りこくってお茶を啜っていたシュウさんのことをじっと見つめた。
なんとなく、ジェイドさんも私も、それに倣う。
シュウさんが、目だけで返事をする。
眉間のしわが、今までに見たことないくらいに深く刻まれていた。
でもそのしわを指でぐりぐり伸ばせるのはきっと、お姉ちゃんしかいない。
「どうしたい?」
教授は、ただひと言だけ。
紺色の瞳は、凪いでいる。
さっきの話を聞いて、どう思ったかなんて聞かなかった。
選ばせたいわけじゃないんだと、背負わせたいわけじゃないんだと、そんな優しさが滲む言葉がゆっくり落ちてきて、場の空気がふわりとした気がした。
微笑んで、子どもにするみたいに、そっと。
ジェイドさんも、教授とよく似た微笑を浮かべて、シュウさんを見ている。
私はどっちの判断が下されても、と両手を握り締めた。
シュウさんが、ゆっくりと口を開く。
「・・・何が、最良だと思いますか・・・?」
声が掠れていた。
ああ、諦めようとしてるのかな。
「さあ・・・?
・・・君の気持ちは、君のものだと思うけどねぇ・・・」
軽く、突き放すような言葉。
緑色のシュウさんの瞳は、どこか別の場所を覗いているみたいに遠くを見ている。
一瞬、表情がくしゃりと歪んだ。
「・・・もう一度、会いたい、と・・・」
絞り出すような言葉は、痛々しくて。
泣き出してしまうんじゃないかと思うくらい、痛切な響きを孕んでいた。
きっと、私が家族と引き離されたのとは違う痛みがそこにはあるんだろうな、と思う。
その気持ちがどれほどのものなのか知りたいけど、辛いと分かっていてそこに飛び込む勇気は、今の私にはない。
「うん、わかった。
じゃあ、何とかしよう」
教授が初めて会った時のように、へらへらふわふわした表情で言った。
「いなくなってしまった人に、もう一度会いたい。そりゃそうだ。
死んでしまった人には会えないけど、彼女は生きてるんだもの。
・・・やっとエル君が人並みに幸せになったと思ったのに、これじゃあんまりだよ」
「いいんですか・・・?」
「良いか悪いかで答えるなら、あんまり良くない、かな」
上げて下げる言い方に、シュウさんの眉間にしわが寄った。
私も、やり取りを聞いてるだけなのに、振り回されてる気分だ。
ジェイドさんに至っては、小さくため息を吐いている。
「それは、僕が一国の頂点を守る立場で考えた場合ね。
今の僕は、王立学校の研究が外に漏れないことだけを考えれば問題ないからさ」
仰る意味が、よく分からないです。
私は無意識に小首を傾げてしまったようで、隣に座っていたジェイドさんに、首をこきっと真っ直ぐにされた。
急にされると、びっくりするし、ドキっとするんですよ。
ちらりと見遣れば、彼は困ったように微笑んでいた。
何で、このタイミングでそんなに甘いカオをするのか謎だ。
私は向けられた視線を軽く無視して、教授達の会話に耳を傾ける。
「君とジェイドは、まだ国を守る立場にいなくちゃいけないから、僕が決断すればいいよ。
もし召喚するための方法が確立されたら、僕が責任持って破棄するか、他国に悪用されない
ために、国際的な約束事を決めるかするし。
君らが僕にお願いしに来たんじゃない。
僕がリアちゃんに出会って、エル君の事情を知って、ジェイドに一応報告をしました。
・・・で、研究者として、これが世界に悪影響を及ぼさないように、細心の注意を払う。
気をつけなくちゃいけないことは沢山あるけど・・・、僕に任せて」
教授は、最後にひとさし指をぴっと立てた。
ちょっとだけ軽い感じがするのは、きっとシュウさんを気遣ったんだと捉えておこうと思う。
「そういえばさ、リアちゃん」
本日3杯目のお茶をご所望された教授が、私に向かって言った。
簡易キッチンも3度目ともなれば、多少どこに何があるのか把握出来始めていて、意外と手早く淹れることが出来そうだ。
しかし、そんなにお茶飲んで大丈夫なのか。
私はお腹がたぽたぽしてるよ・・・。
緊張から解放された私は、ほっと息をつきつつ用意を進めていたのだ。
「はい」
なんとはなしに返事をしながら、茶葉を取り出す。
和紙みたいな紙の袋に茶葉を入れて、折りたたむ。
「君、あっちに帰りたい?」
がしゃん、とカップが滑った音を追いかけて、視線を走らせた。
音を立てたのは、ジェイドさん。
シュウさんが、わずかに口を開けて彼を見ている。
あ、私も口開いてた。
「どう?」
教授に返事を催促されて、私は我に返る。
気づけば、紙の袋からこぼれた茶葉が、トレーを汚していた。
「・・・あ~ぁ・・・」
ため息をつきつつも、それを指先で端に寄せながら答える。
いつかも、ジェイドさんに訊かれたことだ。
あの時言った言葉なら、用意がある。
「・・・帰りたいです・・・」
一度言ったことのある台詞なのに、こんなにも頼りなく力なく響いてしまうのはどうして。
あの時は、帰る以外の何を考えろというのか、くらいの気持ちがあった。
今の私は、この世界に長く居すぎて、いろんな人に出会い過ぎたのかも知れない。
異世界が私に優しいってこと、よく分かってしまったし。
異分子を異分子らしく、排除しようとしてくれたら、どれだけ楽だろう。
この世界を嫌いになれたら、どれだけ楽だろう。
「どうしたら、帰れるんですか・・・?」
茶葉を摘んで手のひらに移して、ゴミ箱へ捨てる。
「そっか・・・、」
「父さん、その話は今しなくてもいいでしょう」
珍しく怒気を孕んだ声を上げたのは、ジェイドさんだった。
私は水をかけられたみたいに、はっとして、彼を振り返る。
「あのねジェイド。
これは渡り人みんながぶつかる問題でしょう。
どんな事情があるかは知らないけどね、彼女の耳に入らないように水面下で動くのと、
彼女を絶望から守るのとは、全然違うんじゃないの?」
教授が呆れたように肩から力を抜いて言う。
それを受けたジェイドさんは、何か言いたそうにしてたけど、視線を逸らした。
私を絶望から守るって、どういうことだろう。
耳に入らないようにって、何のことだろう。
教授の目が、もう一度私を見る。
紺色の瞳が、強い何かをたたえているのを感じて、私はこくりと喉を鳴らした。
「いつかは分かってしまうことなんだしね・・・。
というわけで・・・今のとこ、帰る方法ないんだ。ごめん」
さらりと放たれた言葉が、まっすぐに耳に入って、脳に到達する。
私の小さな脳でも、言葉を理解する部位はちゃんと働いていて、瞬時にその意味を理解した。
こんな時くらい、ちょっと重ためのパソコンみたいでも構わないのに。
心の準備が出来る前に言葉の意味を理解した私は、なんだか、ふかふかした場所に立ち尽くしているみたいに、足元が心許無く感じる。
すぐそばでお湯が湯気を立ち昇らせてるのに、喉がカラカラだ。
言われたことは分かるのに、どんな言葉を返せばいいのか、考えが纏まらない。
でも、あれだけ心配してたのに発狂する気配のない私は、たぶん・・・。
「・・・なんとなく、ですけど・・・」
どうしよう、全然声が出ない。
これじゃ教授に聞こえないかも知れない。
まして、ジェイドさんになんて。
ちらりと視線を投げれば、彼が私をじっと見つめていた。
目が合ったら、空色が歪んだ。
「・・・そう、思ってましたから・・・」
「リア・・・」
ジェイドさんが言葉を漏らすけど、私はそっと目を逸らして静かにポットにお湯を注ぐ。
こんな、気もそぞろに淹れたら美味しくないだろうな。
普通が良いって言ってるのに、普通以下になっちゃう。
「だいじょぶです・・・意外と、図太いのかも・・・」
引きつりそうな頬で笑みを作りながら、私は勝手に動く手に任せてお茶を淹れた。




