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最後の方の会話に、不快になる方がいらっしゃるかも知れませんが、ご容赦下さい。
「それで、今日はどんなことをお勉強しましたか?」
ジェイドさんが、目の前でニコニコしながら発泡酒のボトルを傾けている。
仕事終わりの一杯って、本当に美味しいのかな。
私にはまだ未知の領域だ。
夕食を一緒に摂ったあと、彼が「特別ですよ」と悪戯っ子のように囁いて連れてきてくれたのは、なんと彼の私室だった。
てゆうか、今さらだけど2人きりって、大丈夫なの・・・?
まだ廊下をぱたぱた行き交う足音が聞こえるし、夜更けというほどの時間でもない。
とりあえず散々痛い目に合った、髪を結い上げる件だけはちゃんと確認して、促されるまま素直についてきてしまったんだけど・・・。
まぁ、意識するほど私は魅力的でもなんでもないし。
きっとこの心配は分不相応だ、と考えるのをやめた。
入った瞬間部屋の中を見渡して、その広さに口が開きっぱなしになった。
私がお世話になってる部屋だって相当なものなのに、この部屋はちょっとしたアパートひと部屋分の広さがあるんじゃないか。
ドアを開けて入って、最初に通された部屋には暖炉があって。
通された部屋にベッドがないってことは、寝室は別にあるってことで・・・。
このお屋敷にしても、シュウさんの家にしてもセレブ感が漂っていて、完全に場違いだなぁ、なんて腰が引けてしまうのは、おかしな感情じゃないと信じたい。
そんな感想を抱きつつも、私の目は暖炉に釘付けだった。
パパの友人の家に招かれた時に、暖炉があって興味をそそられたのを覚えてる。
あの時は確か、もうすぐクリスマスという時期だったか。
暖炉の上に、クリスマスのオーナメントが飾ってあったのを見て、ウチにも暖炉が欲しいと言って、両親を困らせた記憶もある。
自分の気持ちだけで言葉を選べるくらいに、子どもだった頃。
懐かしいなぁ・・・。
一瞬のうちに思い出が蘇ってきて、少しだけ切ない気持ちになった。
戻れない子どもの頃になのか、あっちの世界になのか・・・たぶん両方だ。
主人が戻る前に、あのメイドさん達が火を入れてくれたのか、暖炉の中には暖かなオレンジ色の火がおいでおいでと誘いかけるようにして燃えている。
「・・・暖炉が好きなんです」
ジェイドさんが、部屋の隅に置かれた、おそらく冷蔵庫・・・といっても、ハイテクさは全然感じられないレトロな感じのものだ・・・を開けて、振り返った。
「発泡酒でいいですか?」
「あ、手伝います」
話しかけられて現実に戻った私は、すぐに彼のもとに駆け寄る。
ルームシューズが、ぱたぱたと音を立てた。
そういう流れから、発泡酒に果汁を加えて甘酸っぱいサワーのようになったものを片手に、暖炉の火を見つめていたら、「今日のお勉強」について彼から尋ねられたのだ。
グラスの中、ピンク色の底からふつふつと細かい泡が立ち上る。
そっとグラスを揺らしたら、中の泡が螺旋状にくるくると綺麗な弧を描いた。
さっきひと口含んだら、しゅわっとして、そのあとから気分がふわわん、として。
暖炉の前に敷かれたラグの上は、見た目通りに柔らかくて暖かくて、そのまま横になりたくなってしまう。
聞けば、彼はこうして暖炉の前で本を読んだり、お酒を飲んだりするのが好きなんだそうだ。
グラスを傾けてもうひと口含んだら、今度は喉がかっとした。
ああなんか、喉渇くなぁ・・・暖炉の近くに寄りすぎたのかな。
「ええっと、そうですねぇ・・・」
話し出したら、何も面白くないのに頬が緩む。
彼は私に視線を送ってから眉をひそめて、ボトルに口をつけた。
そんなに怖いカオ、しないでよ。
せっかく綺麗なカオしてるのにもったいない。
「渡り人は、体が丈夫じゃないみたいってこととかー・・・」
するするっと言葉が口からすべり出る。
「おっと」
残りを一気に煽ろうとしたら、ひょい、とグラスが宙に浮いた。
私はその犯人を知っていて、毅然と睨みつける。
視線がぶつかった彼は、肩をすくめて苦笑した。
まだいっぱい残ってたのに・・・。
「返して下さいー」
伸ばしたら届くと思ったのに、この手は宙をかくばかりだ。
「まだ入ってるのにぃ」
「・・・・・・」
返せ!と主張する私を一瞥した彼は、盛大なため息を吐いて取り上げたグラスを煽る。
くいっ、と音がしそうなくらい勢いよくグラスの中身が減って、彼の喉を通っていく様子を見て、何故だか私の心臓がうるさく騒ぎ出した。
これはきっと、初めて飲んだきついアルコールのせい。
いつも飲み会ではチェーン居酒屋の安くて薄い、軽いお酒ばかり飲んできたから。
初めての強いお酒に、体がびっくりしてるだけ。
「・・・諦めなさい」
一瞬何を言われたのかよく分からなかった私は、こてん、と首を傾げる。
そして、ああお酒のことね、と思い至ってムッとした。
「意地悪ですね、ジェイドさんは意地悪」
「そうなんですよね、すみません」
空いたグラスを持った彼が、立ち上がりながら言う。
こっちを見もしないなんて。
「あなたはこっちを飲んでなさい」
「え~・・・」
戻ってきた彼が渡してくれたグラスを受け取る。
不満に満ちた声を出しつつも、喉が渇いて仕方ない私は、それを口に含んだ。
しゅわっと口の中ではじけるそれは、さっきの飲み物と大差ないような気がして。
「おいしーです」
暖炉の前で火照りだした頬が、少し落ち着いた。
なんだろこれ。
じっとグラスの中を見つめる私に、彼の小さく噴出す声が聞こえた。
「・・・良かった」
ぱちぱちと、暖炉の中で炎が爆ぜる。
聞いていて心地良いそれは、私のご機嫌な気分を刺激して、鼻歌でも歌おうかなんて気分にさせる。
やっぱり暖炉、いいなぁ。
沈黙が落ちてきて、なんとなく口を開くのが億劫に思えた私は、黙って暖炉を見つめる。
見つめていたら、心が凪いできて、いつの間にか上がりに上がっていた気分が下がり始めてきた。
押し出されるようにして、自然と口から息が零れる。
私って、お酒飲むとこんな感じだった?
楽しくって朝まで遊んじゃうような子じゃなかったかな・・・?
「これは、いろいろな史料を読んで私が推測したことなんですが・・・。
渡り人はね、こちらの世界に根付くのに時間がかかるんですよ」
炎の爆ぜる音に混じって、彼の声が耳に届く。
私は振り返るのすら億劫で、静かにその言葉を聞いていた。
彼も彼で、何の反応も示さない私に構うことなく、静かに言葉を繋いでゆく。
「ふわふわと、この世界を漂っているようなものなんです。
だから、風が強く吹きつけたら、あっという間に消えてしまう。
それは私達にしてみたら、酷く儚い存在なんですよ」
そこまで聞いて、なんとなく彼を振り返った。
手にしたボトルは、いつの間にかサイドテーブルに置かれたまま、水滴を纏っている。
ラグに片方の膝を立てて座っている彼は、昼間机に向かって書類を読んでいた彼とは、全然違う人みたいに見えた。
初めて出会うジェイドさんに、私はなんとなく目を向けたまま話を聞く。
彼は彼で、私にちゃんと伝わるように話すつもりもないのか、暖炉を見つめていた。
「体が弱いというのは、本当です。
でもそれは、心が磨耗してしまった時に体調に影響するだけなのだと思います。
私達でも、ストレスが溜まれば体調を崩しますが、渡り人の場合はそれが顕著なのです」
アルコールの入った頭では、あんまりよく理解出来ない。
ううん、もともと頭の良くない私には、だからどうしたらいいのか、っていう部分を教えてもらえた方が正直ありがたい。
「・・・だから、」
空色の瞳が、私を見る。
なんだか熱がこもっているような気がするのは、彼もアルコールが入っているからなのかな。
私は黙って彼の瞳を見つめ返す。
「・・・、甘えて下さってもいいですよ」
一瞬瞳が揺れた後のひと言。
何かを考えながら話す姿は、まだ短い間でしかないけど、初めてだ。
するすると言葉を紡ぐ人なんだと思ってたから、何かが引っかかる。
でも、それが何なのかは、今の私には全然分からない。
きっと、アルコールが入ってなくても、分からないことだ。
「・・・ほんとですか・・・?」
せめて視線を落として、そう聞き返すのが精一杯。
自分でも分かる。
今の私、きっととっても情けないカオしてる。
情緒不安定だって、自覚はあった。
どうしよう、すごく、寂しい。
彼が静かに肯定するのが聞こえて、私は視線をラグに這わせたまま呟いた。
「・・・じゃあちょっとだけ、ハグしてくれますか・・・?」
素直にママに甘えられない時期に、お姉ちゃんによくしてもらった。
感情が波打つのに、上手く言葉に出来ない時の対処法。
この数日間頑張り続けた心が、息切れして休憩を要求してるんだって、自分でも分かる。
まだ大人になりきれない私には、自分でこの感情の波を鎮める方法が分からないでいる。
「・・・おいで」
急に子どもみたいになった私に向かって、彼が両手を広げて言った。
私はそれに素直に従って、彼の腕に収まる。
じわじわと熱が伝わってきて、私は目を閉じた。
今だけ、子どもに戻ってしまおう。
世界を超えて、迷子になったようなものなんだもん。
いいの、今だけだから・・・。
どう思われてるかなんて、気にかける余裕もなくなっていた自分を、心の中で自嘲する。
つばきは強い花なんだよ、なんて、それはちゃんと地に根を張っているからだ。
私にはまだ、ここの土に慣れてないから。
だから強くなるのには、時間がかかる。
広い背中に手を回したら、同じくらいの強さで抱きしめ返してくれた。
ちょっと強いくらいの方が安心するなんて、本当に子どもだ。
「・・・ジェイドさん」
「ん・・・?」
囁きに、かすかに聞こえる程度の返事。
顔が見えないのが、私にほんの少しの勇気を与えた。
小さく身じろぎすると、背中をぽんぽん、と叩かれる。
言ってごらん、だ。
「・・・もし、」
私は、ゆっくり息を吸う。
「もし・・・、帰れないって分かって、」
声が震える。
彼は、ほんの少しだけ背中に回した腕に、力を込めた。
「・・・私が発狂しちゃったら・・・」
大きな手が、私の頭を撫でる。
彼が結い上げた髪は、綺麗なままとっておきたいんだけどな。
「ジェイドさん、私のこと・・・。
・・・壊れる前に、殺してくれますか・・・?」
彼が息を止めたのが分かって、私は目を閉じる。
暖炉の火は、いつの間にか弱くなっていた。




