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私!買います!

その後、真織と緒凛は控え室に身を潜めた。

滅多に人前に現れることのない、獅子堂財閥総帥の出現があまりにも大きなインパクトを与えすぎたらしく、会場は騒然となり、その様子に千鶴と健吾は居心地が悪くなったのか、いそいそと帰って行った。

残された招待客達は、すでにまとめることが出来ない状態で、真織と緒凛の衝撃的な関係と、獅子堂財閥の繋がりが、招待客達の会話に潤いを与えたのだ。

真織は緒凛に導かれるがままに会場を出たが、会場を出るまでの間、たくさんの人に声を掛けられた。

それは賛美を送るものから、ボソボソと遠くから非難を浴びせるものまで様々だったが、割合としては賛美の方が多かったような気もする。

自分の暴走がうみだした結果に、真織は顔を赤く染めながらもおずおずと退散したのだが。


「もー……なんでこんなことになっちゃったんだろ……」


控え室――とは言っても、会場の上にあるホテルの一室で真織がベッドに寝転がりながらため息混じりにそう言えば、緒凛は苦笑いを浮かべながらネクタイを緩めて真織を見た。


「俺は上出来だったと思うがな。まあ一朝一夕でどうにかなるものでもないさ。ゆっくりと進めていけばいい」


緒凛の余裕ある発言に、真織はカチンときて身を起こし、すでに背広を脱いでいた緒凛を見ながらむぅっと頬を膨らませた。


「何でそんな態度取れるの!? だって私絶対やっちゃったもん! 写真だってとられたし! 私もう明日から朝刊見られない!」

「大丈夫だ」

「何を根拠に!」

「お前の発言は人間らしい発言だったよ。暴れ出したのも止める理由がなかったから止めなかった。暴れたのは事実にしろ、お前のことをよく分かってもらえただろうし」


緒凛が淡々と述べた言葉に、真織は眉間に皺を寄せて、納得いかないと口を尖らせていれば。

真織の反応を見ているのかまったく別の質問を繰り出した。


「そういえば……その、お前……直弥さんが自分の実の父親ではないって……ずっと、知ってたのか?」


緒凛が遠慮がちに、それでも聞かなければいけない義務的な聞き方をしてきたことに、真織は静かに顔を上げて緒凛を凝視する。

それからベッドの横にあるサイドテーブルに投げ出したハンドバッグの中から、紙切れを一枚取り出し、それを見つめながら静かに言った。


「……実はね、つい最近、自分の本当の父親が誰なのかも知ったの」

「なんっ――」

「あの人……私を誘拐した人が、私の本当の父親だった。たぶん、あの人は私が自分の娘だって気づいてないんだろうなって思う」


淡々と現実を述べる真織の言葉に迷いはなく、むしろ気づいていたことを知らされた緒凛の方が、何倍も動揺しているようだ。

挙動不審に視線を泳がせる緒凛に、真織は小さく笑みを浮かべながら、手に取った紙切れを静かに緒凛に差し出す。

緒凛はそれを静かに受け取り、視線を落とせば、そこに映し出されていた二人の姿に、目を見張った。


「その写真。あの箱が開いたとき、一番上に乗っていたの。母はずっとそれを大事に持っていたんだわ。そして、多分――あの人も……薬なんかじゃなく、ソレが欲しかったのよ」


それは古ぼけた白黒写真だった。

真織に似た女性が、若かりし善一に肩を抱かれながら並んで写っているものだった。

たった一枚の写真だが、その二人がどれだけ幸せなのかを物語るように、笑顔が咲いている。

慈しみと、愛おしさと、全てを凝縮したような温かな写真を見て、真織は悟ったのだろう。


「あの人を怖いと思ったのは――母を愛しいと思うあまり、憎しみに変わった瞳をしていたからなのね」


真織がポツリと呟いた言葉に、緒凛は溢れ出てくる思いを飲み込むように喉を鳴らした。

不本意ながら、善一の気持ちが少しだけ分った気がした。

愛しくて愛しくてたまらない人が、周囲から祝福されなかったという理由から自分の元を離れていった。

周囲の妬みや地位における考えを覆すことができずに離れ離れになって、その事実を知らない善一がそうなってしまったのなら――。

一番報われないのは彼だったのかもしれない。

自分の娘と知ることもなく、真織を手元に置いて、それに幸せを感じて。

歪んだ愛の形がそういった風に現れてしまったことが、真織をどれだけ傷つけただろうか。


「怖いけど……そう考えたら嫌いになれないわ」

「真織……」


切なげに真織の名を呼ぶ緒凛に振り返ると、真織はどうしようもなく悲しげな表情を見せて弱音を吐いた。


「緒凛、私怖いの……。人前に出て、あんなことになってしまって……。終わったことを悔やんでも仕方ないけど、でも……やっぱり怖いの」

「人の……世の中の目が?」


緒凛が静かに尋ねると、真織は弱々しく首を横に振ってみせる。


「自分が何に怯えてるのかも分らない……」


自分で一体何を言ってるのかすら分らなくなってきたようで、真織は混乱したように視線を泳がせた。

それを見ていた緒凛は落ち着かせるように今後のことを静かに語った。


「……これからお前の母親の癌治療薬開発のプロジェクトを立ち上げて、それを発表すると、世間の考えは一気にいい方向へいくさ。大丈夫。何とかなるし、俺が何とかする」

「でもそれは私のお母さんのものであって、私は何もしないわ……。お金だって緒凛に出してもらうんだし……」


不安そうに真織がそうポソリと言えば、緒凛はため息混じりに笑いをこぼし、Yシャツ姿で真織の居るベッドに歩み寄った。

ふと、真織が顔を上げると、緒凛は真剣な眼差しで真織を見つめていた。

ギシッとスプリングの音を鳴らしながら、緒凛はベッドに片方の膝を掛け、真織の頬を優しく撫でる。


「そのプロジェクトの責任者はお前だ真織」

「……え?」

「そのプロジェクトは間違いなくお前のものだ。発案者がお前なんだから当然だろう」

「で……でも……」

「考えろ真織。母親の意思を継いで癌治療薬を完成させようと思ったのはなぜだ? 本来ならばそんなものに興味を示さずに、試作品を手放すか、放置するかのどちらかを選ぶこともできた。でもお前はしなかっただろう? それは間違いなくお前の意思で、お前が考えた末に出した結論だ。例え作ったのが母親でも、完成させようとしているのは真織なんだよ?」


穏やかに、何かを諭すような緒凛の口調に、真織は唇をきゅっと結んで静かに考え込んだ。

言わばこれは、母親の手柄を横取りするような行為だ。

緒凛が言おうとしていることがわからなくもない。

けれど、本当にこれでいいのだろうかと考えた時、理解できても納得が出来ない部分が多い。


「真織、君はいつもまっすぐで、間違ったことを嫌うけれど、でもこれは正しいとか、間違っているとか、そういう風に分けることは出来ないんだ」

「……分かってる」

「どんな手を使ってでも、俺の傍に居たいと願え。そして甘えろ。母親がお前に残してくれたものに、父親のやさしさに……俺にも……」


緒凛は甘い声で囁きながら、真織の両頬を包み込むようにして自分の方に向かせながら、優しく笑った。


「真織……愛してる……。誰よりも強く……。もう、我慢しなくていいんだ……。甘えていんだよ? 真織はもう一人じゃないんだから」


胸が張り裂けそうになった。

今までこれほどまでに嬉しい言葉を掛けてくれた人など、どこにいたのだろうか。

ずっと誰かに言って欲しかった。

そう望んでいたのに口に出せなかった。

もし、人生の中でたった一つだけ望んでもいいと言うならば。

この人の傍に――この人と共に残りの長い人生を歩んでいきたいと思った。

苦しくも、切なくも、満たされていく心に、真織は素直に従って頬を紅潮させていく。

緒凛の優しい温もりに、真織は手を重ねて震える唇で呟いた。


「緒凛……大好き」


本来ならば、こんな言葉では満たされないほどの想いが溢れ返っていた。

好きも、愛しているも、自分の気持ちを表現するには物足りない言葉だ。

けれど、これ以外に自分の想いを形にすることができない真織にとっては精一杯の言葉だった。


「ああ、その言葉が聞きたかった」


緒凛はそう静かに呟くと、静かに顔を近づけてきた。

無意識に目を閉じれば、唇に柔らかなものが重なった。

少しだけ距離があいたかと思えば、またそれは角度を変えて何度も何度も真織の唇に触れてきた。

ついばむように、慈しみを、愛しさを込めたそのキスに、真織は脳がとろけそうになるのを感じていた。

触れ合うことが、これほど嬉しいことだと知らなかった。

言葉で表せない愛情を、こうやって行動で表現されることが、これ以上にない幸せを実感させてくれる。


好き。


好き。


大好き。


君を愛している――。


言葉にならない緒凛の気持ちが、触れ合う唇から流れ込んできた。

ふと、自分の意志とは関係なく動いた体に、真織は現実に引き戻されて目を開いた。

まだ幸せに酔いしれる緒凛の、目を閉じた甘い顔が至近距離で視界に飛び込んできたが、今はそれどころではない。

思わず緒凛の胸元を押し返せば、緒凛は驚いて目を開いた。


「何だ? どうした?」

「いや……あの、その……。わ、私は一体……なんでベッドに押し倒されたのだろうかとお聞きしたいのですが?」


しどろもどろに真織がそう言えば、緒凛はキョトンとした表情を見せた。

それは誰がどう見ても、真織が緒凛に押し倒された状況だ。

ベッドの上に、真織を下に組み敷いた状況で上から真織を見つめる緒凛は「え?」とした表情を見せて真織に言う。


「何でって……そりゃあ流れからしてセッ……」

「言わなくていい!! ってか何でそういう流れに持っていこうとするわけ!?」


組み敷かれた状況で、暴れだした真織の言葉に、緒凛はむっとした表情を浮かべ真織に訴えた。


「お前……まさかこの後に及んで拒否するつもりか?」

「と、当然でしょう!」

「馬鹿を言え! 俺はもう限界だ!」

「げ、限界とか言わないで! 我慢してよ!」

「無理に決まってるだろうが! 毎晩毎晩お前と同じベッドの中にいて、理性を保てていた昔の自分を賞賛したいくらいの勢いだ!」

「ばっ! 恥ずかしいこと言わないでよ!」

「恥ずかしいことなどあるものか! 恋仲になった男女が同じベッドの上に居ながら何もしないのはそれでこそ可笑しいだろう!」

「やっ、ちょ、そ、それはそうかもしれないけど! まだパーティは終わってないし! 私だってお父さんと帰らなきゃいけないからっ!」

「安心しろ、これ以上俺たちに出番はないし、直弥さんにはお前の外泊の許可をすでに取ってある」

「い、いつの間にっ!」


あまりにも用意周到な緒凛の行動に、真織は絶句していれば、緒凛はぐっと真織に顔を近づけてニヤリと笑った。


「大丈夫だ、優しくしてやる」

「嬉しくない!」

「なんだ? 激しいのを望んでいるならそれでも構わないが?」

「そういう意味ではなくて! 心の準備ってものがっ――」

「ならば三十秒待ってやろう」

「短っ!」

「贅沢を言うな」

「甘えろって言ったのは誰よ!」

「そういう意味で言ったわけじゃない。まだ抵抗するか?」

「するよ!」


バタバタと暴れて今の状況から逃げ出そうとする真織を、緒凛は身動きの取れぬようぐっと体重を掛けて阻止してきた。


「……真織が立ち上げるプロジェクトの支援金、出すのは俺だよな?」

「……そ、そうだけど?」

「ならば俺はお前を好きにしていい権利があると思うが?」

「癌治療薬が完成すればちゃんと返すって言ったじゃない!」

「元だけで済むとでも思っているのか? 人から金を借りるんだ、当然利子と言うものが発生する」


それが当然だと言わんばかりの緒凛の発言に、真織は全身から冷や汗をかきながら恐る恐る緒凛に尋ねた。


「ま……まさか……それを体で払えって言うんじゃないでしょうね?」

「理解が早い。賢い子は好きだよ真織」


そう言って緒凛が真織の額にチュッとキスを落とせば。

真織は全てを理解したように言葉を失った。

つまり、真織は今後かかってくるであろうプロジェクト支援金の利子の分を、この行為で払っていかなければいけないらしい。

今までの家事をさせられた方がよっぽどマシだ。

またこんな形で借金生活を送るだなんて思ってもみなかった。

にんまりと微笑む緒凛に真織は涙目になって誓うように叫んだのだった。


「――っ私! 買います!」



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