暗証番号の答え
誰が見ても分かるほど、緒凛は落ち込んでいた。
実際、それがどういう原因であるかもわかっている。
真織が会社のアルバイトを辞めてから、緒凛は見る見る口数が減った。
仕事はしっかりとしているもののボーっとすることが多くなり、仕事をしていても途端上の空になって、話を聞いていない時が増えている。
一体、真織はなぜバイトを辞めたのか、なぜ来なくなったのかを社員誰もが知りたかったが、緒凛に聞くことだけは許されないと、ある意味周囲の暗黙の了解のようにその件には触れられないでいた。
活気に満ち溢れていた真織の居た頃とは比べ物にならないほど会社の士気は落ちていた。
真織が居なかった会社に戻っただけだと言う人も居たが、明らかにそれ以上の落ち込みようだ。
まるでともし火が消えたような会社の雰囲気に、誰もが耐えかねていた。
「専務、今日はお疲れのようですし、もうご帰宅なさったらいかがですか?」
緒凛の異変に、椎名が気を使うように言う。
ふと、聞こえていなかったのか、緒凛が不思議そうな顔をして椎名を見れば「こりゃ重症だ」と小さく漏らして、椎名は言った。
「あのな緒凛。お前がそんなんじゃ会社全体がそうなっちまうだろ。ここんところ働き詰めだし、一週間ぐらいまとめて休みとったらどうだ?」
呆れ半分、残りの半分は本当に緒凛を心配して言った椎名の言葉に、緒凛はようやく理解したように、自分の椅子の背もたれにもたれ、ふぅっと天井を仰いだ。
「……仕事しているほうがマシだ……。余計な事を考えずにすむ」
「そうは見えないけどね」
ズバリと椎名が間髪入れずにそう言えば、緒凛は改めて椎名を見て、苦笑いを浮かべた。
「いい加減にしないと殴るよ」
「上司に暴力予告をする部下なんて驚きだな」
「今は上司や部下の関係じゃなくて親友として言わせてもらうけど……。お前、何でそんなに落ち込んでいるのか自分で分かってるよな当然」
椎名の鋭い質問に、緒凛は急に口を閉ざして視線をそらす。
それを見た椎名は、大きくため息を漏らして緒凛を指差した。
「とりあえず今日はもう帰れ。そんな大きな仕事も残ってるわけじゃないし。あとは俺達でもできるから。もう少し部下を頼れよ」
椎名はそう吐き捨てるようにつぶやくと、緒凛の返答も待たないまま専務室をあとにした。
一人きりになった緒凛は、まとめていた頭をガシガシとかいた。
一層、大きな仕事のひとつや二つ、入ってきて欲しいと思った。
そうすれば忙しくて、本当に余計な事を考えずに済むのに……。
緒凛は深いため息を漏らし、一呼吸おいて立ち上がると、椎名の言葉に甘えようと会社を出た。
◇◆◇
「ただいま……」
と、言って後悔した。
真織が居たときの癖で、誰も居ないマンションに挨拶をしている自分が恥ずかしかった。
今でも「ただいま」と言えば「おかえり」と気恥ずかしそうに真織が出てきてくれるのではないかと思っている、そんな女々しい自分に腹が立つ。
もう真織はここに居ないのに。
玄関先で一通りそんなことを考えながらも、無駄な考えだと思い返し、深くため息をついて乱暴に靴を脱いだ。
「――おかえりなさい」
欲しかった言葉が幻聴のように聞こえた。
緒凛は一瞬、動きを止めて声のする方を凝視する。
たった二週間だ。
たった二週間会っていなかっただけなのに、どうしてこんなにも懐かしく、胸が締め付けられる想いをするのだろうか。
そこに居たのは、まさしく会いたかったその人で。
いつものように優しい笑顔で出迎えてくれた真織の姿に、緒凛は目をこすった。
幻覚かと思ったその姿は消えなかった。
「……なん……で……?」
驚きを隠せない緒凛の口調に、真織はクスクスと笑みを漏らしながら近づいてくる。
それからいつものように、それが当然かのように、緒凛の仕事用のかばんと、手に持っていた背広を受け取り緒凛を見上げた。
「鍵をね、返していなかったなって思って。でも携帯は返しちゃっていたから連絡取れないし、仕方ないから待たせてもらったの」
淡々と自分がここに存在する理由を告げる真織に、緒凛はまだ信じられないといった表情を浮かべながら困惑した。
真織はそんな緒凛を尻目に、受け取った荷物を持ちながらリビングへと向かう。
緒凛はおぼつかない足取りで真織についていけば、真織はソファに受け取った荷物を置き、緒凛の到着を待った。
ふと、ソファに並ぶガラステーブルの上に置かれた箱を見つけた。
真織の母親が作成した、癌治療薬の入ったあの箱だ。
それがどうしてここにあるのかという疑問が浮かび、すぐさま真織を見つめるも、真織は微笑むだけで何も言わなかった。
「とりあえず座って。少し話があるの」
真織の言葉に、緒凛はただ無言で頷いて、指定されたソファの位置に腰を下ろす。
それを見届けた真織は、緒凛のすぐ隣に座ると、静かに箱を引き寄せて緒凛に言った。
「箱がね……開いたの」
「……なんだって?」
「だーかーら、開いたの!」
聞き返してきた緒凛の言葉に、真織は少しだけむぅっと膨れながらも静かにその箱を広げて見せる。
そこにあったのは、紺色の小さな薄いケースで、周りには衝撃を防ぐためか、細かな発泡スチロールが敷き詰められていた。
「これ……」
「うん、そう。お母さんが作った開発途中の癌治療薬」
真織はそう言って静かにそれを手に取り、ゆっくりとケースのふたを開けた。
そこには型にはまった、液体の入った三つの試験管と、小さなマイクロチップが埋め込まれていた。
緒凛が真織の手の中にあるそれを凝視していれば、真織は静かに緒凛に言った。
「それでね……、今日は緒凛にお願いがあって」
「……お願い?」
真織が初めて緒凛にそう言った。
今までわがままのひとつ言わなかった真織が自分にお願いがあるだなんて、願ってもない話だ。
緒凛は静かに聴く体制をとれば、真織はケースのふたを閉じてそれを自分の胸に押し当てながら静かに言った。
「これを完成させたいの。そのためにはすっごいお金が掛かるって聞いて……資金援助をお願いしたいの」
真織のはっきりとした言葉に、緒凛は唖然とした。
「本当はね、お母さんが作ったものだから、自分が勉強して、大人になってから完成させるって言う手もあるんだけど、でもそれじゃあ遅すぎる人たちも出てくるでしょう? 癌治療薬っていうのは世界中の人たちが待ち望んでいる薬だもの。自分の我侭で助かるはずだった命を失うのは嫌。だからもっと早く完成させる必要があるの。……こんなこと、緒凛に頼むのは間違っていると思う。でもお願い。お母さんが最後まで成し遂げられなかったことを叶えたいの」
淡々と、けれどはっきりと強い意志の感じられる真織の言葉に、緒凛はただただ感心した。
彼女はまだ高校生だ。
それなのにどうしてここまで立派な考えをできるのだろうかと。
今に始まったことじゃない。
けれど、真織の発言ひとつひとつが新しく、真剣そのもので、誰もが感心せずにはいられない。
彼女の強い気持ちがなくとも、緒凛にはそれだけで十分だった。
自分を頼ってくれる時がくるとは思ってもいなかったからだ。
緒凛は嬉しそうに、ただ喜びをかみしめながら笑顔を見せ、静かに真織を見つめながら頷いてみせた。
「この癌治療薬の完成を進める研究室を立ち上げよう。研究医も任せてくれたら、一流の者を用意する」
緒凛の言葉に、真織は安堵した表情を見せ、手に持っていたケースを再び箱に入れた。
「……それにしても、よく開いたな。暗証番号はなんだったんだ?」
場を和ませるように、少しでも真織との時間を得たいがために、緒凛がそう尋ねた。
真織は少しだけ照れくさそうに首をかしげて、その番号を静かに告げた。
「1518914」
「15……a、e……」
「違うわ。最初はo、次がrよ」
「o、r……」
出てきた言葉に、緒凛は目を見開き絶句した。
――orin
「……なっ――」
ようやく口にした言葉に、真織は照れくさそうに微笑んで。
発泡スチロールの敷き詰められた箱の底から、ひとつの小さな手帳を取り出した。
「思い出したの。昔、大好きだった空き地に、知らない男の人が寝転んでいて。おまじないをかけてあげたら、喜ぶどころか、すっごい泣き出しちゃって。……その人の涙がね、太陽にキラキラ反射して、すっごく綺麗だったなぁって……。太陽の涙みたいって思ったの」
そういって差し出された手帳を、緒凛は震える手で受け取って。
「子供ながらにして、私、その人に恋をしたみたい。初恋だったのよ」
真織の言葉を聴きながら、真織から受け取った手帳の最初のページを見つめ。
緒凛はその手帳を額に押し当てて、見られたくないと思いながらも涙を流し始めた。
――二年四組 黒澤緒凛
あの時、花冠のお礼にと……何も差し出すものがなかった自分が、自分を忘れないで欲しいと願って彼女に渡した生徒手帳だった。
声を上げて泣くことができなかった。
真織に見られているからじゃない、ただ感極まって、いや、それ以上の感情が胸にこみ上げてきて、涙を流す以外ができなかった。
途絶えることない涙を、惜しみもなく流し続けて。
「私、お母さんが大切にしていたこの箱に、それを入れて、勝手に暗証番号変えてたのよ。一生懸命知らない英語を数字に変えて。お母さんが、自分の太陽を見つけなさいって言ってくれていたから。私にとっては緒凛がそうだったの。自分の太陽を見つけたことがとても嬉しくて……」
ポツポツと語る真織の言葉に、緒凛は涙もぬぐわずに顔をあげた。
ようやく見ることのできた真織も、自分の知らないうちに泣いていて。
ああ……なんて愛しいのだろう
この涙も
この気持ちも
分かち合うことができている
ずっと昔にした約束
彼女はちゃんと大切にしていてくれた
「緒凛……何も……何も全て考えずに……何も……家も家族も関係なく考えた時…………それでも私……」
せっぱ詰まったように真織が言葉を途切らせる。
その先の言葉が何だかわかっているはずなのに、声にしてもらわなければ不安でたまらない。
どうか同じ想いであるよう。
ずっと待って、待って、待ちこがれていた言葉を。
早く聞かせろと、緒凛の心臓がはやし立てた。
「好き……緒凛が好きなの……あなたを……愛しています」
照れくさそうに、涙をこぼしながら真織がそうつぶやいて。
緒凛は静かに真織を抱き寄せ、こみ上げてくる想いと涙を惜しみもなくさらけ出して。
愛しくて愛しくて堪らなかった相手から、同じ言葉が聞けた喜びを現実にするために真織の温もりを必死に感じ取ろうとする。
愛を叫んでも、どれだけ愛しいと嘆いても足りないほど想いが加速していく。
緒凛は静かに、真織の耳元で優しく囁いた。
「俺も……真織だけを愛している……」




