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真織の戦い

休めと言われて休める状況ではない。

一頻り泣いたあと、真織はぐるりと自分の閉じ込められている部屋を一望した。

部屋にあるドアは全部で四つ。

ひとつはあの女性が居る小さな小部屋、ひとつはトイレ、ひとつはお風呂と確認する。

善一が出入りしてきたドアだけが外と通ずるものだと理解できていても、ドアに耳を当てれば向こうはシーンと静まり返っている。

SPが張り込んでいると聞いたけれど、本当に居るのだろうかと思うほど疑わしい。

何度かドアノブをカチャカチャと回してみたけれど、押しても引いてもあかなかった。

何とかして逃げ出さなければ。

泣き晴らした目をこすりながら、真織はアンティークの椅子を手に持った。

意外とすんなり持ち上がった椅子を手に、真織はガラス張りになっている窓の方へ行く。

窓の向こうは見慣れない街が広がっていて、下を見下ろせば、ここが一階ではないことを知らされる。

飛び降りたら痛いだけでは済まなそうだな、と思いながらも、真織は椅子を持ち上げ、思いっきりガラスにぶつけた。

無常にも椅子は跳ね返るように足を折った。

窓ガラスには傷ひとつ、ヒビひとつ入っておらず、真織は酷く落胆する。

もしかして防弾ガラスなのだろうか、と真織は落胆するようにその場に座り込み、こみ上げてくる涙を必死にこらえた。

泣いてばかりは居られない。

善一が言っていた「一生ここで暮らしてもらう」という言葉は多分本気だ。

どういう意図があって自分がこんな目にあっているのかが、未だに納得できないけれど、とにかくここは危険だと思った。

外は闇が細かく粒子に解けていくように薄くなってきた。

だんだんと明るみを帯びていく外が、あまりにも静かで、まだ自分は夢の中にいるのではないかと思わされる。

緒凛は……どうしただろうか。

酷い目に会っていないだろうか? 

この屋敷のどこかに居るのだろうか? 

それとも……。

ぞっとする考えを振り払うように真織は勢いよく首を振った。

駄目だ。

自分がこんな弱気になっていては絶対駄目だ。

信じよう……緒凛を信じて、今自分にできる限りのことをしなければいけない。

真織は自分を奮い立たせるように立ち上がり、バタバタと睡眠の掛けられた女性の元へ駆けていった。

相変わらず、そこには怖いほど美しい女性が、無機質な瞳をこちらに向けて座っていた。

真織は恐る恐る近づきながら、彼女の肩を静かに揺らす。


「起きて……起きてください……」


この人が目を覚ませば、何か力になってくれるかもしれないと真織は思った。

浅はかな考えかもしれないけれど、これしか今は思い浮かばないのだ。


「目を覚ましてください……お願いです……目を覚まして……」


先ほどよりも強く肩を揺らしても、彼女はなんの反応も示さない。

触れる肌は確かに人のぬくもりを持っている。


「起きてくださいっ! 私のせいで……アナタをこんな目にあわせてしまって……本当にごめんなさい……」


耐えていたはずの涙が無意識にこぼれた。

自分の無力さがこれほど虚しくて歯がゆい思いをすることになるとは思ってもみなかった。

誘拐だなんて新聞の向こう側の出来事だと思っていたのに、いざ自分がその立場に追いやられるとこうも悲観的になれるのだ。

唇をかみ締め、零れる涙を何度も拭ったけれど、涙は止まることを知らなかった。


 ◇◆◇


いつの間にか眠っていた。

未だに動かない彼女の膝に、すがるような形で眠っていた恥ずかしさに、真織は頬を赤らめて、無表情に座る彼女に、ごめんなさいと頭を下げる。

どれくらい経ったのだろうか。

泣き疲れて眠っていたとは言え、小部屋を出て窓の外を見れば、赤みを帯びている。

まだ朝か、それとも日が暮れて夕方なのか、時計のないこの空間では時間感覚すらつかめない。

シーンと静まり返っている部屋は寂しすぎた。

緒凛のところで過ごしている分には、こんなこと風邪を引いたあの時しか感じなかったのに。

真織は、自分の心にぽっかりと穴があいたような気がした。

ああ、そうか。

ここには緒凛が居ないからだ。

「ただいま」と笑顔を見せて帰ってくる緒凛が居ないからなのかもしれない。

泣いても泣いても泣き足りない。

いくら泣いても現状は何一つ変わることはないとわかっていても、今の自分にはそれしかできないような気がしてもどかしい。

あまりにも自分が無力で情けなかった。


「目が覚めましたか?」


ふと掛けられた声に、ビクッと体を震わせた。

いつから居たのか、善一がベッドの淵に腰を下ろして座っていたのだ。


「あ……その……」

「すいません。ベッドで寝かして差し上げればよろしかったのですが、あの人形を随分お気に召して頂けたのだと思ったら、あまりにも忍びなくて」


善一が柔らかにそう言いながら微笑んで、ゆっくりと立ち上がると、静かに真織に歩み寄った。


「気分はいかがですか?」

「え……だ、大丈夫です……」


思わず返事をしてしまえば、真織の回答に満足したように善一は笑みを漏らす。

それからアンティークのテーブルを見つめ、真織に言った。


「食事の用意ができていますから、一緒に食べましょう」


今度はそう言って、真織の返答を待たないうちに、真織の肩を抱き、強引にそちらの方へと移動していく。

真織がガラスを破ろうとして壊してしまった椅子はいつの間にか消えていて、そこには新しい形のアンティークの椅子がテーブルをはさんで二つ備えられていた。

テーブルの上には緒凛の実家で見たような豪華な料理が所狭しと並んでいる。

善一は静かに真織をそこに座らせ、自分も向かいの椅子に腰掛けると、静かに微笑みかけた。


「さあ召し上がってください。大丈夫、変なものを入れるなど下種なことはしていません」


下種だなんて、今更よく言えたものだと真織は内心毒吐きながらも、口には出さずに静かにそれを見つめる。

正直、お腹は空いていても喉を通る気がしないのだ。

戸惑う真織に、善一は少しだけ残念そうにため息を漏らした。


「食べて頂かないと体調を崩しますよ? それともフランス料理はお嫌いでしたか? シェフに作り直させますのでお好きなものを言ってください」


ポツリと漏らした善一の言葉に、真織は眉をひそめ、酷く困り果てた。

ここで、帰して欲しいとお願いすれば聞いてくれるだろうか? 

駄目元で聞いてみるのもいいかもしれないが、正直善一の反応が恐ろしくて聞くに聞けない。

真織は膝の上でぎゅっと手を握り締めていると、善一は仕方ない、といったようにため息をついて、近くに置いてあった箱を取り出し、そのまま真織に渡した。


「アナタに頼みたいことがあるんです」

「……これは?」


真織は戸惑いながらそれを受け取れば、ずっしりと重みを感じる銀色の箱だった。

シンプルな長方形のステンレスのような銀の光沢を出し、上部には電卓のように数字のボタンが並んでいる。

真織はそれを自分の膝の上に置きながら、じっと見つめた。


「その箱を開けて頂きたい」

「これを……ですか?」


善一の言葉に、真織は箱をくるくると回しながら切れ目を見つけるが、そんなものはひとつも見当たらない。

完全に密閉された形の箱を不思議に思いながら、真織は静かに善一を見た。


「本来ならアナタの母親である真理がこの箱を開ける唯一の暗証番号を知っているはずだった。けれどその真理が居なくなった今、知っているのはアナタだけなのです」

「私……が?」


善一の言葉に、真織は少し驚きながら尋ね返せば、善一はそれを肯定するように静かに頷いた。

真織がここで初めて目を覚ましたとき、善一が漏らした暗証番号とはこのことだったのかと理解した。

けれど、暗証番号と言われ、思い浮かぶことなど何もない。

真織は覚えていないらしい自分の頭の構成を恨みながら、どうすればいいのかと恐る恐る善一を見た。

善一は真織の反応がまるで当然だといったように何食わぬ顔で真織に言った。


「暗証番号は多分、英単語を数字化したものが設定されているはずです。アルファベット順に、Aなら1、Bなら2……Zなら26……と、まで続きます。たとえば、アナタのお名前、“真織”ならば“MAORI”を数字化して“13・1・15・18・9”となる。そのようにして思い浮かぶものを全て入力していってください」


そう説明が終われば善一は、束になった紙を真織に差し出した。


「これはアナタの母親の経歴を綴ったものです。ヒントになるものがあればいいのですが……」

「この……中身は一体……?」


真織はおずおずと紙の束を受け取りながら尋ねれば、善一はふっと微笑んで――この時初めて人間らしい表情を見せながら、静かに言った。


「“大切なもの”です」


善一はそう言って席から立ち上がると、ドアに歩きながら真織に振り返った。


「急かすことは致しません。ですがそれを開けて頂かなければ困るという事を伝えておきます。もし、その箱が開けれたならば……ここから出して差し上げることも可能です」

「えっ……」


真織が驚いて声をあげるも、善一はクッと微笑んで「それから」と付け足した。


「それは大きな衝撃を与えないでくださいね。衝撃を与えると爆発する可能性がありますから」


そういってパタンと閉じられたドアを、真織は呆然と見つめながら、それから膝の上にある箱をじっと見下ろした。

この暗証番号さえわかれば、ここから出られる。

けれど本当に解放してくれるのだろうか? 

当然信じられる言葉ではないけれど、少しでも可能性があるなら縋りたい。

真織は並べられたままの食事に手をつけず、静かに箱と資料を持ってベッドへ行き、腰掛けた。

静かにベッドの上に箱を置き、渡された資料を眺めだす。

母の旧姓、本職、経歴、開発完成薬、交友関係……。

どれも初めて知るものばかりだ。

こんなものを見て、暗証番号などわかるものなのか、と真織は首をひねった。

きっと、生年月日などの数字ぐらいはすでに試されているだろう。

ここに残された何かを英単語に書き換え、それを数字に置き換えればいいというのだが、いまいちピンとくる言葉はない。

真織の知る母は、遠い記憶の彼方だ。

顔さえすでに覚えていないのに、母が自分に暗証番号を教えたかなんてわかるわけがない。

一通り資料を目に通し、すっと箱を撫でた。

暗証番号は覚えていない。

けれどこの箱には見覚えがあった。

小さな頃、母が大切そうにしていた箱とよく似ている。

真織はそれを宝箱だと喜んで、母がそれを開けるのをよく横で見ていた。

中には何が入っていたかも忘れているが、確かにこれは母が持っていたものだ。

真織はギュッと唇をかみ締め、それから静かに近くにあったペンを取り、考えられる限りの数字を入力し始めた。


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