孤独と真実の狭間
「真織が誘拐されたってどういうことだよっ!」
勢いよくアゲハが叫びながら駆けつければ、リビングに集まっていた誰もが振り返ってアゲハを睨んだ。
ふと、視線を向けると、黒澤兄弟全員と、父と母、それに真織の父親である直弥が数人のガラの悪い部下を連れて、リラックスソファに座る緒凛を中心に取り巻いている。
アゲハは気まずそうに視線を泳がせながら、その輪の中に歩み寄ると、緒凛の姿を見て驚愕した。
気だるそうに息を荒げる兄の姿。
右手の平と左の二の腕に巻かれた包帯。
休めるものなら休ませてあげたいほど痛々しい姿に、アゲハは言葉を失いながら、隣に立つすぐ上の兄、茅にひっそりと声を掛けた。
「どうなってんの? 状況は?」
「車のナンバーから二宮を誘拐した真犯人を割り出した所。最悪の相手だよ。警察は頼りにならない」
「誰だよ?」
「坂上だよ……坂上善一」
「坂上って――!」
茅がすんなりと答えた人物の名に、アゲハは唖然とした。
坂上家と言えば、日本に古くからある財閥のひとつで、善一の祖父は元総理大臣を務めたこともある代議士一家だ。
この業界ではあまりいい噂を持たない一家で、表向きは代議士、裏では薬物のルート確保や腎臓売買などを行っているとされている。
その大きい財閥の存在は、何度も表沙汰になりそうだった事件を金と権威でもみ消しているため、警察が素直に動くことはまずないだろう。
犯人とされる善一も、現在は参議院議員を務めており、その権力は絶大だった。
「間違いないの?」
「二宮を連れ去った車の三台とも確認したけど、どれも坂上善一の所有物だった。見られても平気なところがアイツらしいよな」
そう言っていつもは温厚な茅が、ギリッと歯を食いしばったのを見て、アゲハもぎゅっと手を握り締めた。
「今お前を責めるような事はしない。けれど相手が厄介すぎる……どうするつもりだ?」
直弥が静かに緒凛に言えば、緒凛は視線を虚ろとさせながら直弥の居る方を見て、苦しそうに顔をゆがめた。
その様子を見て、直弥は何もできないと悟ったのか、緒凛に背を向けると、壁を拳で殴りつける。
「クソッ……」
背を丸め、襲い来る絶望感に体を振るわせる直弥を、皆はただ見守るしかできなかった。
◇◆◇
ふと、まぶたの向こうの何かが揺れた。
心地よいぬくもりに、真織はゆっくりとまぶたを開いてく。
目に飛び込んできたものは、見たこともない空間だった。
アンティークのテーブルとセットになった椅子。
それに大きな開閉不可能なガラス張りの壁に、お姫様のような天蓋付きベッド。
熊や兎のぬいぐるみに、フランス人形にマリオネットが所狭しとドレッサーの上に並べられ、真織はボーっとした意識の中、それを見つめながら、ふと自分にも違和感を感じた。
自分の着ている服が、見たこともないような乙女チックな服装だったのだ。
乙女チック――確かロリータファッションと言えばいいのか……と、真織はさえない頭で考えた。
フリルが多くあしらわれた淡い水色のドレスに、胸元に光る大きなルビーのネックレス。
膝の上まである白いソックスに、真っ黒なローファーを履いた自分の足は、まるで人形のようで。
黒い大きなリクライニングソファに座っていた事に気が付き、真織はゆっくりと立ち上がりもう一度辺りを見渡した。
確か、自分は誘拐されたはず――。
そう思ってぬいぐるみの並ぶドレッサーに静かに歩み寄り、そこにあった鏡に、恐る恐る自分の姿を覗かせた。
変わり映えのない、けれど綺麗に整えられた髪形と、化粧を薄く施された自分の顔。
何が一体、どうなっているのかと現状を理解しようと、寝起きの頭を働かせていると、真織の後ろの白いドアがガチャリと開いた。
「お目覚めですか?」
入ってきた人物は、背中でドアを閉めながら真織に笑顔で尋ねてきた。
年は真織の父親ぐらいだろうか、それよりも少し若いくらいに見えるその人は、紺色のスーツを見事に着こなし、清楚な品のある面持ちで真織に微笑みかけた。
「気分はいかがですか?」
再び掛けられた言葉に、真織はゾクッと体を振るわせた。
もし昨日、自分が誘拐された事実が夢ではなかったら、この人は自分を陥れた相手だ。
瞬時に警戒心を剥き出しにし、一歩、二歩、とゆっくり後退していく真織を追い詰めるように、その人は真織との感覚を狭めるように歩みよってきた。
「そんなに怯えないでください。大丈夫です。アナタに危害を与えるつもりはありませんから」
穏やかに告げられる言葉も、真織の心には届かない。
真織の中でひたすら警鐘が鳴り響いているのだ。
この人は笑顔で自分に接しようとしている。
けれどこの人は、まったくと言っていいほど眼が笑っていないのだ。
真織はぎゅっと身を強張らせていれば、その人は静かに部屋の中を見渡して言った。
「お気に召しましたか? アナタの為に用意した部屋です」
「わ……私の?」
真織がようやく口を開いたことに喜びを感じたのか、その人は真織に向き直って笑顔を向けた。
「はい、アナタの為に用意したんですよ。この家具も、人形も、ベッドも全て。アナタはここで暮らしていくんですから、欲しいものがあれば何でも言ってください」
ここで暮らす――?
真織は眉をひそめ、その人を見れば、その人は「ああ」と思い出したように言った。
「自己紹介がまだでしたね。坂上善一と言います」
「坂上……」
なんだか聞いたことのあるような名前に、真織は一層眉間にしわを寄せると、善一は再びゆっくりと真織に歩み寄り至近距離で真織を見つめた。
「やはり可愛らしい方だ。あのような野蛮で卑猥な男の元に置いておくのは勿体無い」
そう言ってすっと差し出された手に、真織はビクッと体を強張らせれば、善一はクスッと口元に笑みを浮かべて真織の頬に触れた。
「あ……あ……」
真織は恐怖に足がすくんで動けなくなった。
いくら好意的な態度をとられても、善一からは恐怖の二文字しか感じられない。
声を出そうにも喉の奥が詰まるような感覚に囚われ、真織は善一を凝視した。
「私は今日から毎日アナタに会いにこの部屋に通います。アナタは私を受け入れるだけでいい。大丈夫、アナタの綺麗な肌には染みひとつ、汚れひとつつけません。性行為を求めるなんてもっての他だ」
「な……」
「ん?」
「なぜ……私を……」
ようやく搾り出した震える声で真織が尋ねると、善一は目を細めて言った。
「アナタは真理によく似ている……」
「……母に……?」
「私はアナタの母を愛していました。けれどアナタの母は私から離れて行った。あんなにも愛していたのに……。今は亡き真理の変わりに、アナタは私に罪を償うべきなんだ」
ぞっとするほど気味の悪い笑みだった。
それから言葉の意味が理解できず、真織は思わず目を見開く。
「亡く……なった……? 母……が? 亡くなったん……ですか?」
驚きの表情を浮かべながら真織がそう尋ねると、善一は少しだけ不思議そうな表情をし、それからあからぬ方向を向いてブツブツと呟き始めた。
「記憶にない……? 目の前で起こった惨事に記憶を失ったのか……? だったらアレは……覚えてないのか……?」
「何の……こと?」
独り言を言いつづける善一に、真織が静かに尋ねると、善一は改めて真織に向き直って静かに言った。
「君の母親は……真理は君の目の前で殺されたじゃないか。銃弾の雨を浴びて。君のその腰にある傷、それはその流れ弾にあたった時にできた傷跡のはずだ」
初めて聞かされた事実に、真織は信じられないといったような表情をすれば、善一は「本当に記憶がなかったのか……」と確信したように呟いた。
「アナタにはもうひとつ、やってもらわなければいけないことがある。暗証番号と言われて思い浮かぶものは?」
「あ……暗証番号……?」
母親が亡くなっていた事実を理解する猶予もないまま、次の質問をされた真織がオウム返しに聞けば善一は「やはり……」と落胆した表情を見せた。
「まあいい、今日はゆっくり休んでください。私は今から仕事がある」
ガチガチと体を震わせ、真織は逃げ場を探すように視線をあちらこちらに向ける。
その行為を見つめていた善一は、真織の頬を両手で包むようにつかむと、自分のほうに無理矢理向かせ、低い声で言った。
「逃げようなんて考えないことです。入り口は外からしかあかないようになっていますし、内からは鍵がなければ開かない。私が入ってきたタイミングで逃げようとも、入り口には二十四時間体制でSPが張り込んでいる。トイレも風呂もこの部屋についています。この部屋の中でしたらご自由に動き回って結構ですので、欲しいものがあればすぐに言って下さい」
まるでそれは監禁予告だ。
こんなこと間違っていると訴えたくも、その瞳があまりにも現実を逃避しているように感じられ、何をされるかわからない恐怖から何もいえないでいる。
真織が諦めたと思ったのか、善一は気をよくして、真織の肩を抱くと、静かに部屋の端にあるドアに向かって歩き出した。
「アナタにもうひとつプレゼントがあるんですよ。私が居ない間、寂しくないようにと用意したんです。きっと気に入ります」
そう言って、真織は覚束ない足取りのまま、進められるがままに部屋の中を移動する。
善一はドアの前に立つと、中が見渡せる場所に真織を立たせ、静かにドアを開けた。
「どうです? 綺麗でしょう?」
自慢げに善一のこぼした言葉に、その瞳に飛び込んできたものに、真織はさっと血の気が引いた。
美しいドレスを着飾った等身大の女性の人形。
いや、違う。
あれはどう見たって生身の人間だ。
力なく椅子に腰掛け、何も感じない瞳でこちらを向いている美しい女性が一人、静かにそこに居た。
善一は立ちすくむ真織を置いて、彼女に歩み寄り、後ろから肩に手を置いて真織を見る。
「アナタの為に特別に用意したんですよ? 深い催眠にかかっていますから、人形として遊んでくださって結構です。お名前も自由に付けて頂いて結構ですし、着せ替えなんかして遊んでも面白いでしょうね?」
まるで罪悪感などないように、ごくごく当たり前のように語った善一に、真織は目をそらしたくともそらせない状況に陥った。
狂っている――。
こんなことができる人間が、世の中にいるのかと、疑わずには居られない。
震えることも、声を出すことも忘れてしまった真織に、善一は再び歩み寄れば、動かない真織を横抱きにし、静かにベッドの上に下ろした。
「寂しいでしょうが我慢してくださいね。私の愛する真織……」
チュッと音を立てて、善一は真織の額に口付けた。
静かに去り行く足音。
途端、開放されたように真織の全身からどっと冷や汗が流れ出す。
威圧感と独占欲の激しい善一に、真織は自分の体を抱きしめて泣いた。
怖い……助けて……と。
どれだけ泣き叫んでもそれはむなしく部屋の中に響くだけだ。
頭に思い浮かぶのは、別れ際に見た緒凛の切なげな表情だけで。
助けて……助けて……。
声にならないSOSが真織の頭の中に響いた。




