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「どうした」
真剣な私の様子に思うところがあったのか、シリル様が首を傾げる。
もう一度勇気をかき集めて、口を開く。右手は本棚の本を縋るように掴んでいた。
「その、こんなときなんですけど、私、貴方が──」
ぎぃ……がたんっ。
その音は、二人きりの執務室にいやに大きく響いた。
シリル様が目を丸くしている。
私は手をついた瞬間に押してしまったらしい本を見た。周囲の本と見比べても違和感なく馴染んでいるそれは、どうやら隠された空間の鍵になっていたようだ。
先程までの恋する乙女の気持ちもすっかり落ち着いてしまって、私は反対側の壁に視線を移す。
「──これは」
「隠し部屋、でしょうか」
動いたのはこの大きな絵画だ。
扉のようにこちら側に開いて、奥の空間を見せつけている。
私は本から手を離して、絵画の方に一歩を踏み出した。
「シリル様、入ってみましょう」
シリル様が引き止めるように私の手首を掴む。勝手に入っていかないようになのか、私の話の続きが気になっているからなのかは分からなかった。
「だが、話があるのでは」
シリル様は真剣な瞳で私を見つめている。
私はその瞳をまっすぐに睨んで、叫んだ。
「そんなことどうでも良いです!」
どうでも良くないがこう言うしかない。さっきまでならばまだしも、こんなタイミングで愛の告白ができるほどには肝は据わっていない。
そもそも今はこの先の空間が気になって仕方ない。
シリル様は仕方がないというように私の手を握り直して、近くに置かれていたランプに火をつけ、絵画の奥に踏み込んだ。
「暗いから足元に気を付けて」
「はい」
中は暗いが、扉を開けたままにしているため、真っ暗闇ではない。
私達は中にランプを見つけ、火を灯した。
途端に明らかになったのは、床に描かれた魔法陣だ。
部屋の端に置かれている大きな机の上には、研究途中らしいいくつもの魔術式が書かれた紙と、古く紙の端がよれている本が雑多に積まれている。
それらは精霊の力を借りて使う魔法の理論とは全く違うものだった。
「──言い逃れできない証拠だ」
「これが、精霊避けの魔術……」
ここで行われていた研究は、大地の力を強制的に吸い上げ、人間の都合の良いように捻じ曲げるものだ。
大地の力で生かされている精霊達がここに近寄りたがらないのも当然だろう。
「開け方は分かった。後は他の者が来てからにしよう」
シリル様の提案に頷いて、私達は部屋を出た。
絵画を元に戻して、部屋の端に置かれていたソファに並んで座る。
「この邸に住んでいるのは、ロランス嬢と伯爵の二人だけだ。元伯爵夫人は数年前に離縁して出て行っているし、嫡男は母親についていったらしい。フロベール伯爵家はこのまま取り潰しになるだろう」
「……そうですか」
長い歴史のある名家と言われてきたフロベール伯爵家も、社交界の華と呼ばれたロランス様も、多くのものを失うのだろう。
私が目を伏せると、シリル様が励ますように頭を撫でてくれた。
それが嬉しくて、甘えるように肩に頭を預ける。何だか、恋人のようだ。
「クラリス嬢。……明日、会いに行ってもいいだろうか」
「構いませんけど、どうしたんですか?」
こんな甘え方をするのはいつぶりだろう。もっと小さい頃に、お兄様に甘えて以来のような気がする。だからこんなに擽ったくて、心が落ち着くのかもしれない。
それでもどきどきと高鳴る鼓動は、相手がシリル様だからこそのものだ。
「改めて、伝えたいことがある。クラリス嬢が言おうとしてくれたことも、そのときに」
私はそのときこそきちんと想いを伝えるのだと、内心で自分自身と約束をした。
「はい。……お待ちしていますね」
シリル様は変わらず頭を撫で続けてくれている。
目を閉じてみると、地下牢から今までずっと張り詰めていた心がふっと緩んだ。シリル様が来てくれて一人きりよりもずっと心強かったが、やはり緊張していたのだろう。
「寝ても良い。クロードが迎えに来るから、大丈夫だ」
「ありがとうございます……」
そうか、お兄様が来てくれるのなら、今眠ってしまっても大丈夫だ。
少し寝て、家に帰って、食事を与えられなかった分まで心ゆくまで美味しいものを食べるのだ。
元来私は睡眠不足に弱い自覚があった。地下牢で眠れるわけもなくて、ずっと寝ていない。
あっという間に眠りに落ちた私は、しばらくして伯爵邸にやってきたお兄様の剣幕も、意識を取り戻したフロベール伯爵が国への不満を叫んでいたことも、ロランス様と破落戸の振りをしていた執事が王城の牢に拘束されたことも知ることはなかった。






