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【エピソード6:兄として……。妹として……・その6】

 二人は場所を変え、鬱蒼とした山奥へと足を踏み入れていた。

 背の高い樹木が立ち並び、昼間だというのに暗闇に近い濃度となっている。菁々とした地面からは、一足を踏む度に靴底と草の擦れ合いが静寂とした空間で音を奏でる。夏だというのに風の冷たさは素肌に寒気を与えては、密かに奪った体温を運んでいく。

 槞牙は脚を止める。振り返ると正面には膳邇の姿がある。

 界隈と同調するように穏和な挙動だが、表情と雰囲気だけは反対の性質だった。また、全く警戒を怠らない。ここまで着いてくる間も、ずっとだ。

 そんな膳邇を槞牙は軽蔑の眼差しで睨んでいた。冷淡な瞳の中には、測り切れないほどの激情が閉じられている。


「行くぜ……」


 たったの一言だが、この二人には今生の別れを意味させる言葉だ。今回ばかりは訓練中の生半可な探り合いだけでは済まない。

 槞牙は勿論のこと、膳邇とてそう覚悟しているだろう。殺らねば、自分が殺られてしまうのだから。

 木々の隙間を擦り抜けた強風が二人の身体を押し付けながら通り過ぎる。

 同時に槞牙の右頬に鋭い風圧。刃物が掠ったように血が流れ、背後に流れていく。

 戦いは一瞬で始まった。 最初に感じたのは追い風。槞牙が初歩から全力の加速をしたためだ。次に迎え撃つ膳邇の右拳。振り下ろし気味に放たれた重い拳は、寸前で躱した程度では裂傷となる。浅いとはいえ脅威だ。

 膳邇の右腕の外側に出た槞牙は、がら空きの脇腹に左拳を叩き込む。

 鈍い音が響く。歯を剥き出して拳の先を見ていた槞牙の表情が曇り、舌打ちする。

 拳は脇腹に届く前に止められていた。膳邇の左手によって。


「小僧が……本気で勝てると思っているか!?」


 膳邇は堰を切ったように激越な口調の怒鳴り声を上げた。

 槞牙が頭部に激痛を感じた時には、頭を後ろに引き、脚に力を集めて上段への蹴りを放つ。最初は軸足にした体重を乗せ、蹴りのタイミングに合わせて重心を滑らかに前方へと掛けて、目標に当たる瞬間に一気に全ての力を脚に収束する。理想的な蹴りだ。放った後の体勢すら完璧である。

 しかし実戦で破壊力を発揮できねば、ただのお手本に過ぎない。

 体格の違いを上手く利用し避けた槞牙は、屈んだ体勢から水平に脚を薙ぐ。膳邇の軸足を狙っての、刈り取るような足払い。

 膳邇は体勢を崩し、左膝を地面に衝く。右足は前に投げ出した格好だ。

 む、と短く唸ったその顔面に向かって、真横から迫る水平の飛び蹴り。身体を回転させた勢いを右足に集め、軸足すら地面を蹴って威力に加える。見目形は綺麗だが、あまり褒められた攻撃でないのも確かだ。

 受け止められれば次はない。

 実際に防がれていた。左腕を顔の横に構え、右手を添えて。

 それでも威力だけは抜群である。押さえる膳邇の両腕が小刻みに震えている。 力を相殺すると、膳邇は両手で槞牙の脚を掴み、腕の膂力のみで背後に投げ飛ばす。

 視線も空中に投げ出される。

 槞牙はすぐさま膳邇のいる位置に目を向ける。膳邇は素早く立ち上がり、上空を睨んでいる。

 視線が合う頃には地面に近い。

 反転。着地。即、離脱。 追撃してきた膳邇の猛攻を避ける。

 左正拳。打ち上げ気味の右。また左。右の回し蹴り。切り返して、左の裏拳。 その全てを紙一重で、だ。今度はコンビネーションなので裂傷を負わせる威力はない。

 右正拳を受け止めると、槞牙の反撃。

 腰部を狙っての蹴りは膝の付近で防がれる。

 脚を下げると同時に、腹部狙いで右の回し蹴り。これも右肘で防御された。

 顔面へのラッシュを終えると、振り下ろされた拳の直撃を右腕で回避する。

 直後に跳躍。膳邇の頭上への踵落しは地面を刔った。

 大技から生まれた隙を突かれ顔面に拳を貰うも、槞牙も膳邇の胸部を蹴り飛ばす。

 吹き飛ぶ両者。

 ほぼ同時に体勢を立て直し、速度で勝る槞牙が駆け、力で勝る膳邇が迎え撃つ形となった。

 槞牙は再度、放たれた重い一撃を、今度は完璧に躱した。

 脚で地面を押して跳び、近くの木を蹴って加速を付ける。膳邇の左頬に目掛けて膝での打撃を食らわす。 よろめく膳邇を見て、槞牙が自分の優位を悟った、その砌――

 ……身体が……!

 空中で停止していた。首の付近に痛みを感じ注視すると、膳邇の左腕によって胸倉を鷲掴みにされていた。

 腹部を貫かれるような打撃がくる。


「ぐはっ……! こ、の……野郎っ!」


 掴まれている腕を振り解き、胸倉を掴み返すと、右足の靴底で膳邇の左脚の踝を蹴り、掴んだ手を一気に引き下ろす。

 膳邇の巨体が空中で横臥した。


「琉蹴烈撃っ!」


 槞牙は空いた腹部に左右の拳と肘を使っての高速連撃を打ち込んだ。速く、正確に一点だけに狙いを絞った変則的な攻撃だ。

 最後は肘で突き出すと、膳邇の身体はそのままの体勢で吹っ飛び、地面を転がり倒れた。

 膳邇は停止してから、すぐに上体を起こしたものの、ダメージは決して軽くはない。その証拠に立ち上がれないでいる。

 今が好機。槞牙は間合いを詰め、顔面に向かって右拳を突き出す。

 しかし膳邇には、まだ体力が残されていた。目を見開き、拳を避けると、立ち上がるついでに槞牙の顎に膝蹴りを入れる。

 強制的に上方を見させられ、怯む槞牙に、


「拳聖繞崎流派、奥義っ! 牙翔連脚炮っ!」


 腹部への蹴り上げ。

 槞牙にはそれ以降の動作を理解することが出来なかった。

 視界は高速で上下に揺れ動き、激痛が身体を襲う度に吐血した。血は上空に噴き出したり、地面に零れ落ちたりを繰り返す。

 打撃が止むと、後頭部を掴まれ顔面から地面に叩きつけられた。

 葉と僅かな鉄分を含んだ臭いが鼻孔を擦り抜ける。不快な臭いだ。だが、いい気付け薬にもなった。

 圧倒的な破壊力に、半ば飛んでいた意識を引き戻す。

 狙いは技を決め終わった瞬間だ。どんな人間でも自分が鍛え抜いた攻撃には自信を持つ。例え相手を倒すには足りない威力だと解っていても、そこに僅かな油断が付いて回る。ましてや大技が決まったのであれば尚更のことだ。

 隙が出来る。膳邇の構えが緩くなり、右脇腹が空いた。

 槞牙は身体を捻り、透かさず脇腹を踵で蹴り飛ばす。驚きつつも反撃に出た膳邇の拳を躱し、同じ箇所に肘打ち。

 初めて膳邇の顔が苦痛で歪んでいる。


「うおおおおっ!」


 凄絶な気合いと同時に、頬に左拳からの一撃。弱っている右脇腹に膝を入れ、連続で顔面を殴打する。

 身体を一回転させ脚を地面から離し、首筋に飛び蹴りを炸裂させた。

 がくん、と腰を沈める膳邇の顎を真下から蹴り飛ばすと、鮮血が口から噴き出す。

 右腕を引いて溜め、思い切り振り下ろす。槞牙の右拳は、鮮血を纏うようにして膳邇の鼻柱に打ち込まれた。

 衝撃音。膳邇の巨体が樹木に叩きつけられた音だ。 さすがに立てない。木に背中を預け、ぐったりしている。

 勝負は着いた。しかし槞牙は止まらなかった。

 ……これで、終わりだ! 駆ける。右腕を凶器と変えて。

 容赦などない。慈悲など知らない。ただ怒りという感情に、全てを任せ。

 膳邇が木にしがみつきながら立ち上がっている。

 一直線に迫る槞牙を睨み据え、両足で地面を踏み締め、両腕を腹部付近に下げた。


「はあああああああ……!」


 気合いを溜め始めた直後、槞牙は薄ら寒い気配を敏感に感じ取った。

 まるで大地が揺れていかのような。

 まるで空気が歪んでいくかのような。

 危険な前触れは、槞牙が脚を止める理由には充分だった。

 まだ間に合ったかもしれない。攻撃すれば事前に回避できたかもしれない。

 判断は完全に鈍った。膳邇のただならぬ気配の前に。


「拳聖繞崎流派、究極奥義……」


 その瞳は、殺意で溢れ返っていた。槞牙が見せた眼と丸っきり同じ。

 力の込められていく腕には幾重もの血管が浮き出ていた。


「破竜絶衝臥っ!(はりゅうぜっしょうが)」


 槞牙はすぐにその技の性質を見破ることが出来た。見えるのだ。練り上げられた凄まじい気の壁が。回避など間に合うはずのない速度で迫ってくる。

 衝突。撥ねられて空中に。更に圧迫され、背後の樹木ごと薙ぎ倒してから、やっとのことで威力が消えた。

 槞牙は動けなかった。全身の骨が砕かれたように、自由が利かない。息も、肺から押し出されるのみの一方通行。

 痛い。苦しい。動けない。

 それらの考えが大半を占め、ループしている。

 そんな中で一部の感情だけが、強く、禍々しく主張していた。

 脳裏に過ぎるのは、妹の泣き顔と憎き相手の顔。

 少しだけ全身の痛みが引き、槞牙はゆっくりと立ち上がる。身体はふらつくが、まだいける。

 膳邇は技の反動からか、片膝を衝き俯いて沈黙していたが、槞牙の動きを見ると慌てて同じ体勢まで回復させる。

 槞牙は脚を一歩前に出し、二歩目は緩慢だが自然に前方に伸びていった。やがて速度が付いていき、


『おおおおおおおっ!』


 走りだしだ頃には、双方、共に叫んだ。

 もはや眼前にまで来た敵に、互いの右拳を突き出した。怒りに憤りと、有りったけの憎しみを握り締めて。


「やめてぇーーーーーー!」


 その時、聞き慣れた声が耳朶を掠めた。誰の声なのかなど、すぐに解る。

 だが、それよりも早く正面に現れた不可思議な現象に注意を奪われた。

 放たれた拳。それは膳邇に命中する寸前で止められていた。

 極めて金剛な『紫色の壁』によって。

 膳邇の拳もである。

 やがて二つの拳は壁の持つ力に弾かれる。

 膳邇は前を見据えてから、声のした方角を注視した。槞牙も呆気に取られていたが、遅れてそちらを見る。

 二人の視線は一人の少女に集まった。今回の争いの原因となった少女を。



 雫が槞牙の部屋に帰ってきたときには、すでに二人の姿は無かった。

 どこかへ行ったんだ。ただ二人ともいなくなっただけ。それだけだ。

 ……それだけ?

 雫は再び駆け出していた。

 近所の空き地や河原。人目に着きにくい場所。屋敷に電話して膳邇の留守も確かめた。

 もう確信していた。二人は闘っているのだと。自分があの場から逃げ出した時の構図なども考慮に入れて。

 このままでは、どちらかが死ぬ。一方は血溜まりに沈み、もう一方はその上に立つ。そのような想像だけが浮かぶ。

 ……早く。早く。早くしなきゃ!

 屋敷の道場すら使ってないとなると、思い当たる場所はあと一つしかない。

 槞牙と膳邇が朝練とは別に修行のために度々、脚を運んていた山奥だ。

 二人は秘密にしていたが、雫はその存在を知っていた。

 一年前の秋。槞牙の誕生日を祝うために徹夜で料理の下拵えとケーキの準備をしていた。少し休憩しようと思い、窓の外を見ると、そこには何故か二人の姿があった。時刻は、まだ深夜。朝練にしても早過ぎる。不審に思い、気になって尾けたのだった。

 そんな偶然がなければ自分には決して縁のない話だったであろう。

 その日から雫は槞牙たちに合わせ、道場で一人、稽古をしていた。欠かした日は一度もない。

 敢えて槞牙や膳邇に修行の付き添いにと求めなかったのは、あの二人の間には親族の自分でさえも入り込めないものがあると、以前からずっと感じていたからだ。

 そんな訳があり、場所を特定できるのだが、

 ……こんなことに役立つなんて、悲しいよ。

 山の奥まで突っ走る。急な斜面を登り、足場の悪い通路も素早く駆け抜けた。 辿り着いた先で雫が見た光景は、最悪だった。いや、最悪の一歩手前。

 二人とも満身創痍。いつどちらかが倒れても不思議でなかった。今から放たれる一撃でかもしれないのだ。

 雫は叫んだ。声の限りに。

 しかし二人には届かない。

 解っていた。この程度では二人が止まらないことを。ただ、この押し潰されそうな気持ちを少しでも吐き出したかった。

 もはや二人の拳が互いの命を潰し合う寸前だ。

 ……止めたいの! 私の大切な人達を……私自身の手で守りたいの!

 もう間に合わない。手遅れだ。このまま見捨てるしかない。 そう思考は結論付けるが、雫は決して諦めようとはしなかった。

 ……誰かが傷付くのは、もう嫌なのっ! それを見てるだけなのは……いやっ! もう……いやぁーーー!

 想いは力となった。

 気付くと、胸の前に紫色の光が収束していた。ふわり、と浮かんでいるよう。とても温かい。触れていると安らぎを感じる。そんな、光。

 その光に命じた。大切な人達を守れと。使い方など知らなかったが、なんとなく、そうすれば良いと感じたのだ。

 命じられた光は高速で槞牙と膳邇の間に入り込み、守るための力となった。

 命じたはずの雫は、ただ呆然としていた。実行した今でも半信半疑だろう。だが、そこには的確な感情が生まれていた。

 雫は涙を溜めながらも、しっかりと微笑んだ。

 ……これが〈パステル〉……。



 停戦の合図となった〈パステル〉は消え去り、数瞬の沈黙が訪れた。

 槞牙はもう膳邇のことなど、どうでも良くなっていた。

 今は雫の覚醒をどうやってごまかすかだ。〈パステル〉について深く知れば、雫も戦わなくてはならなくなる。縦んば雫が拒絶しても、〈プテイレイン〉の連中が放っては置かないだろう。だから何も知らない方がいい。狙われたら守ってやればいい。

 雫に近付く。彼女は泣きながら笑うといった、よく解らない表情をしている。 慎重に第一声を選んでいると、意外にも雫の方から口を開いた。自分の両手を注視してから、今度はこちらに掌を広げている。


「お兄ちゃん……私……、私にも……」


 声は震え、舌足らずとなっていた。相当、困惑しているようだ。

 ……当たり前か。いきなりあんな妙な力を無意識に使っちまったんだし……。 槞牙は面持ちを柔らかく構えると、


「どうよ、雫! 今のが最新の映像技術をフルに使った家庭内ドッキリ! 驚いたか? うん、まあそうだろ。あ、この血は偽物なんだぜ? ハリウッド顔負けだろ? しっかしさすがに魔法はないよな? あれならどんなに鈍い奴にやっても気付くっての、ははは!」


 槞牙の言葉を聞いた雫は俯き笑顔を隠した。すると身体が小刻みに震え出す。


「わー、待て! 怒るなって! ドッキリは最後に笑って皆で楽しく記念撮影って相場が決まっていてな、バイオレンスはなし! やるとしても、ちょぴっとコメディー風味が――」


「いい加減にして!」


 雫は怒鳴り、そして泣いていた。涙を流しながらも、その眼の奥からは槞牙に対する憤りが確かに感じられた。

 槞牙は開口したまま、固まっていた。

 こんな彼女を今まで見たことがなく、また自分の過ちに気付けないでいるからだ。

 そんな槞牙を余所に、雫は爆発した感情を止めようとはしない。


「私……知ってるんだよ? ソラさんから聞いたの。この力でお兄ちゃんが闘ってるってこと……。お兄ちゃんと皆との繋がり……。お兄ちゃんとの絆……」


 止められないのだ。


「どうして……? 雫だって力が使えるようになったんだよ? なのに、なんで引き離そうとするの? 皆は傍に置いてるのに……なんで私だけ!」


「それは違――」


 槞牙は否定しようとして、言葉に詰まった。否定できるだけの自信がなかった。心の底で疑問が浮かぶ。 本当に違うのか?

 自分でも不思議だった。 今までの思考の中の何処を探ろうとも、否定できる部分が存在しなかったのだ。

 雫の目は大量の涙で埋め尽くされ、それは頬を伝い地面に降り注いでいく。泣こうと叫ぼうと、一向に治まる様子がない。


「ねえ……どうして……? 私はお兄ちゃんの傍に居たいのに……。皆と一緒がいいのに……」


「…………」


 もはや槞牙に答えは無い。雫の言葉の一つ一つがとても重く、聞く度に胸に痛みが伴う。「私だけ何も知らないのは、もういや! 私だけ仲間ハズレにされるのは、もういやっ! お願いだから雫を置いていかないで! お願いだから雫を一人をしないで! お願いだから雫を……お兄ちゃんの傍に居させて……!」


 あとは鳴咽だけだった。手で顔を覆い、ひたすら泣いていた。

 そんな雫を見ていた槞牙は、自分を殴り飛ばしたい衝動に刈られていた。

 握り締めていた拳は震え、血が流れ出ている。

 痛みはない。あるのは怒りだ。それも己に対する、底の無い怒り。

 ……俺は、なんて馬鹿なんだ……。

 雫の悩みや苦しみを、何一つ察してやれなかった。それどころか逆に傷付けてしまう始末だ。

 彼女を守りたい。悲しませる奴は許さない。

 そんな確固たる意志もあったというのに。

 いや、寧ろその意志こそが彼女を追い詰めていた。知らず知らずの内に遠ざけていた。

 彼女のためと思いしてきたことは、彼女にとっての痛みでしかなかったのだ。 大切なだから。守りたいから。どのような理由を付けようとも、それはこちらの都合である。

 仲間たちの時にもそうだった。都合の押し付けなど、ただのエゴだ。つい最近、学んだことだったのに。 過った理由は、はっきりしている。

 彼女が妹だからだ。差別したくはないが、仲間とは違う。望んでも危険な目には遭わせたくない。ましてや戦いなど以っての外だ。 だが、どんなに相手を想いやった行為でも、都合で動いては単なる身勝手に過ぎない。事実、想っている相手を傷付けているのだから。

 槞牙は過ちの全てを認めた上で、そっと雫を抱きしめた。

 彼女は拒絶しない。あの時――彼女の腕を掴んだ時とは、まるで違う。

 当然だ。上辺だけの行為で、彼女を留めることはできない。

 留めることができるのならば、彼女を理解したということだ。

 しかし、まだ足りない。こんな時には必ず発される言葉が。

 槞牙はその不足したものに、全ての感情を託した。


「ごめん……」


 雫は槞牙の胸に顔を埋め、更に大きな鳴咽を漏らして泣き続けた。

 だが、今度は止んだ。彼女の感情から悲しみの一部を削ぎ取れた証明である。 家で休むよう優しく促すと、彼女は小さく頷いた。 槞牙は雫の脚が一歩を踏み出すのを待ってから、後に続いていった。



 二人の背中が視界から完全に失われると、膳邇は地面に腰を降ろした。身体のダメージが酷く、脚が立っていることを拒絶してきた。

 同時に暗闇から一人の青年が現れる。黒髪に長身、端整な顔をした好青年な風体だ。膳邇を気遣い、傷に差し支えがないように身体を診る。

 それから面持ちを厳しくし、


「手加減など一切ありませんね……全くあいつは……」


「慎吾よ……これは私闘であり、本気の勝負だ。こうなることはお前にとて解ることだろう?」


 慎吾の口調が激高し始めているのを察した膳邇は、そう諭す。


「それでも私は納得できません……!」


 何とか冷静に怒りを押し殺そうと努力しているのが看取できる。

 だが膳邇はそれを解った上で敢えて無視した。天を仰ぎ、目を閉じる。

 寸時が経ってから目を開く。その瞳には珍しく、本当に珍しく哀感な断片を覗かせていた。


「もう時間は無い、か……」

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