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「救援軍はまだか!?」
「もう暫くかかると思われます。それに相手はあの伝説の『フォボスの猫』です。対処法も考える必要があるかと……」
「ええい、そんな悠長なことを言っている場合か! シリウス殿下が我々を守るために、自らのお命を削っておられるのだぞ!?」
「それは俺たちだって分かっています! ですが迂闊に猫に近付けば、事態が更に悪化することになります!」
瓦礫の裏に身を隠しながら、兵士たちは口論を続けていた。皇太子一人がフォボスの猫の暴走を抑えているというこの状況に、誰もが焦りを抱く。
本来ならシリウスの魔力が底を尽きて防壁魔法が切れた時に備え、すぐに助けに入れる位置にいるべきだ。
だが、それすらも難しい。フォボスの猫を刺激してしまう恐れがある。あれは強い悪意や敵意を向けられただけでも、魔力を増幅させてしまうらしい。あの猫を『敵』と認識している自分たちが姿を見せれば、シリウスの負担が増えるだけだ。
「あんな化物をどうやって倒せばいい!? 攻撃をしてはならないだなんて!」
「防壁魔法に閉じ込めたまま、力尽きるのを待つしかないのか……?」
「それは駄目だ。魔力を生命力に変換すれば無限に生き続けるぞ!」
解決法が見出せず、苛立ちの混じった声で議論を続けていると、一人の兵士が「あれ……?」と不思議そうに夜空を見上げた。
「どうした?」
「今、空から白いのが降って来たんです。雪かな……」
「雪ぃ? 今はそんな季節じゃ……」
そう言いかけた兵士の目の前にも、白い粒のようなものが舞い降りた。
夜空から次々と降り注ぐ白い何か。まるで純白の雪のようなそれに思わず手を伸ばすが、それはよく見ると小さな綿だった。
綿は地面に着地すると、すぐに消えてしまったが、そこから緑色の若葉がぴょこんと土から姿を見せた。それはみるみるうちに成長し、小さくて黄色い花を咲かせる。
瓦礫の隙間からも花を咲かせており、ものの数分で周囲は黄色い花畑と化していた。
「これは……」
「『スノウ・レオ』って花らしいっすよ」
困惑する兵士たちにそう教えたのはレイブンだった。
「ダンテライオンって花と同じように、種子をつけた綿を飛ばして繁殖する種類っす。マリアライトさんが聖女の力を使って、この一帯をスノウ・レオだらけにしてるんすよ」
「聖女様か? 何故このような時に……」
「この花ってネコ科の生き物には、ちょっとした影響があるんす。神獣にも適用するかは微妙なところだけど……」
「ま、待て! 猫の様子がおかしいぞ!」
その声に、レイブンたちがフォボスの猫に目を向けた。
あれほど威嚇の動作をしていた猫が大人しくなり、体を伸ばしながら欠伸までしている。
シリウスも、防壁魔法を解くべきか葛藤していた。
「どういうことだ? リラックスしている……のか?」
気が付けば、周辺を柔らかな黄色い花が埋め尽くしている。スノウ・レオだろうか。
これは……と考えてると、愛しい人がこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。
「シリウス様~、ご無事でよかったです」
「マリアライト様!? どうして戻って……いえ、この黄色い花はやはりあなたが?」
「はい。この花の香りにはネコ科の動物を眠らせる作用があります。シリウス様から教えていただいたのを思い出しました」
「では、フォボスの猫が大人しくなったのもまさか……」
コーネリアは猫系の魔族だ。彼女をメイドに任命した時、万が一に備えてスノウ・レオの種を持たせたのだが、まさか神獣にも効くとは。驚愕しつつ、シリウスは防壁魔法を解除した。
猫は睡魔を堪えているらしく、体がゆらゆらと揺れている。
気のせいだろうか、黒い毛並みも薄まって、灰色になりつつあった。
『あれ……何だろ。とっても眠いや……』
ぼんやりとした子供の声を聞き、マリアライトは優しく微笑んだ。
「あの時、怒っていた声もあなたのものだったのですね……」
『この人間……全然怖くない……優しくてあったかいお花の匂い……お母さんみたい……』
ぱたぱたと翼を動かし、寄って来た猫をマリアライトは抱き止めた。
丸い頭を撫でながら、柔らかな声で話しかける。
「いっぱい怒ったり悲しんだりすると、疲れてしまいますから。そういう時は少しだけお昼寝をしましょう。それで……起きたら美味しいご飯をいっぱい食べるんです。私も昔……そうやって毎日過ごしたのですよ」
『うん……』
フォボスの猫が瞼を閉じると体が光り、灰色の毛並みが雪のように白くなった。蝙蝠に似ていた薄い翼も、白鳥を彷彿させるふんわりとした羽に変化していた。
「何だか可愛くなりましたねぇ。さっきの見た目もとっても可愛かったですけれど」
「文献にもこのような姿は載っていなかったのですが、これが本来の姿なのかもしれま……」
シリウスの体がぐらつき、その場に膝をついた。
「シリウス様、お体は大丈夫ですか? 顔色も悪いです」
「情けない……体は未だ限界を迎えていないのに、気が緩んで力も抜けてしまったようです」
「情けなくありません。シリウス様は私たちを守るために頑張っていらっしゃいました」
「ですが、あなたがいなければ俺もフォボスの猫も……マリアライト様ぁ!?」
ぎょっとした表情で名前を呼ばれてマリアライトは首を傾げたが、シリウスの指が頬を触れたことでようやく自覚した。
自分が涙を流していたことに。
「どこか痛む場所がありますか!? 今すぐに治癒魔法をかけてもらいましょう!」
「シリウス様とレイブン様が守ってくださったので、私は無事です。……もしかしたら、私も気が緩んでしまったのかもしれません。こんなに怖いと思ったのは、久しぶりだったので」
マリアライトは、自分の涙を拭うシリウスの手を強く握り締めた。
顔からは笑みが消え、細い体は小刻みに震え始める。
「シリウス様がいなくなってしまうかもしれないと思った時、本当に怖かったのです」
「……マリアライト様」
「お願いです。やっと見付けた幸せを私から奪わないで……」
マリアライトは掠れた声でそう告げて俯いてしまった。シリウスは傷だらけの両手を彼女の背に回した。
大丈夫だと思ったのだ。見かけによらず、芯が強いこの聖女ならば、自分がいなくなった後も魔族の国で何とかやっていけるだろうと。優しい誰かとともに、今度こそ幸せになってくれるだろうと。
だが、そうではなかったのだ。マリアライトはもう、自分以外との未来を望んでいない。
だったら、自分は何が何でも生き続けなければならない。皇帝としても、一人の男としても。
シリウスはそう決意した。
神獣騒動が落ち着くのには、数週間の時間を要した。
まずデネボラ皇子は、セラエノ城の地下にある牢獄に収監された。いや、最早皇子ですらない。ウラノメトリアによって即座に廃嫡を言い渡され、デネボラは平民として裁きを受けることとなった。極刑は免れたが、権力争いに神獣を利用した罪は重く、それ相応の罰が課せられると予想されている。
デネボラの犯行に関与していなかった職員の面々は、引き続き神獣の世話を任されている。
あれほど凶暴だった神獣たちも大人しく手当てを受け、餌を食べている。デネボラに何かがあったことを、本能的に感じ取ったのかもしれない。
餌となる果実も、マリアライトのおかげで十分に余裕がある。
快復した神獣は次々と自然に帰った。別れ際、職員に甘える神獣も多く存在した。
「はい、出来ました。スノウさんのために作った花冠ですよ」
マリアライトが育てた花で作った白い花冠だ。小さめに作られたそれを頭に載せられると、白い猫はぴにゃあ、と嬉しそうに鳴いた。
フォボスの猫は、特例でセラエノ城で保護されることになった。攻撃や強い悪意によって暴走する神獣を自然に放し、密猟者に出くわしたら危険だと判断されたのだ。
猫の母親が見付かるまでの間は、マリアライトが母親代わりだ。初めは職員たちが預かる流れだったのだが、マリアライトから離れると寂しがるのである。
そして、この猫には『スノウ』という名前が与えられた。マリアライトが中々名前を決められずにいたので、シリウスがそう名付けた。
「ですけど、あの時みたいに声が聞こえなくなってしまいましたねぇ」
今のスノウからは猫の鳴き声か、機嫌がいい時に聞けるゴロゴロという音しか聞こえない。
「聖女の能力のおかげだったんじゃない?」
そう指摘するのはコーネリアだった。スノウをブラッシングした時に出た、大量の毛玉を丸めている。
「原初に存在していた翡翠の聖女トパジオスも、動物の言語を理解出来たそうよ。あんたも火事場の何とやらで一時的に使えてたのかも」
「コーネリア様……」
「な、何よ、その顔」
「レイブン様が仰っていましたけど、スノウさんが可愛いからって勝手にご飯をあげてはいけませんよ」
「わ、分かってるわよ! レイブンに注意されたからもうやらないってば!」
スノウの存在は、慣れないメイド仕事で苦労しているコーネリアの癒しにもなっているようだ。
「うわああああっ!?」
その頃、城の外では見回り兵が悲鳴を上げていた。
マリアライトが植えたとは思えない、凶暴な見た目をしたトパジオスの花。二本の花の間に埋まっていた緑色の球体が、土中から飛び出していたのだ。
球体の表面にはうっすらと赤い筋が浮き出ており、どくん、どくんと規則正しく脈を打っていた。
まるで何らかの生物がその中に宿っているかのように。




