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セラエノ一の有名人と言っても過言ではないエレスチャル公爵家の屋敷は、帝都の西方に聳え立っている。魔族らしく黒一色の外壁で、民からも「見づらい」と時々苦情が入るセラエノ城とは違い、こちらは鮮やかな赤色で統一されている。
壁だけではなく柱や屋根、正門まで赤い。こちらはこちらで「目が痛い」、「視覚を狙った暴力行為」と密かに囁かれているが、本人たちの耳に入ることを恐れ、直接文句を言う勇者は未だに現れていない。
ルビーやガーネットなど赤い宝石を鏤められた無駄に豪勢な扉の前では、屋敷中の使用人が待機していた。
公爵の可愛い可愛い一人娘が外出から帰ってきた時は、全員で出迎える。この屋敷に敷かれているルールの一つだ。ルールを破ればその者は即座にクビを言い渡され、不快にさせた慰謝料としてこれまでに支払われていた給金の全額返還を命じられる。
セラエノにも過去に暴君と称された皇帝が存在し、それと対等に渡り合えるレベルの理不尽さだが、その分給金は破格の金額だ。そのため、全てを失う覚悟で屋敷で働きたいと申し出る者も少なくはなかった。
「馬車が来た……お嬢様のお戻りですよ」
メイドの一人が固い口調で告げると、皆の表情が強張った。出迎えも細心の注意を払わなければならない。少しでもコーネリアの機嫌を損ねれば、それだけで給金の五割がカットされる。
まるで執行を待つ死刑囚のような面持ちで使用人が待つ中、馬車が正門を抜けて屋敷の前に停まった。扉が開き、まず最初に側近の執事が降りる。続いて彼に支えられて降りた赤髪の美女に、全員が頭を下げようと動き始める。
「ああ、もう……腹が立つわ……!!」
猫耳をぴんと立てて怒りを露にしている主に、周囲の気温が二、三度上昇した。感情の昂りで暴走した魔力が熱風に変換され、体外に放出されているのだ。
この世で一番怒らせてはならない人物が、帰って来た時点で怒髪天を衝いている。まさかの異常事態に使用人たちは狼狽えたが、決して顔に出してはならないと平静を保つ。ここで火に油を注ぐような真似をすれば、給金カットどころの話ではない。
「お、おかえりなさいませ、お嬢様」
命懸けのお出迎えである。メイド長が最初に頭を下げると、他の者も頭を下げた。
「……ただいま」
「……お、お嬢様、今何と?」
「だからただいまって言ってるじゃないの。何よ、文句あるの?」
鋭く睨み付けられ、メイド長は「滅相もございません!」と高速で首を振った。
しかし、動揺したのはメイド長だけではなかった。後ろに下がっていた執事ですら言葉を失っている。
普段ならばご機嫌取りのため、必死に頭を下げる使用人たちを鼻で笑い、無言で屋敷へ入るコーネリアが。
少しでも不満点があれば顔を歪め、炎を纏った平手打ちを喰らわせるコーネリアが。
「ただいま」と言った。皇太子の婚約者に喧嘩を売りに行ったはずなのに、何故か少しまともになって帰ってきた。
「翡翠の聖女様とはお会い出来たのでしょう? 如何でした?」
先に馬車で待機していたため、何も知らない執事はなるべく穏やか声で訊ねた。機嫌が最高潮に悪い主の神経をあまり逆撫でる真似はしたくないのだが、後にエレスチャル公爵に報告する任があるのだ。可能であれば、この時点で詳細を知っておきたい。
「とんでもなかったわよ。あんな頭が悪くて何も考えていない女は初めて」
「ほお、そんな人間めを殿下はお見初めになったと?」
「……あいつもあいつで何かヤバそうだったけど。あんなに気持ち悪い性格だったかしら」
「はい?」
「何でもないわ。それより、『戦乙女の決闘』の手配は済んでいる?」
コーネリアからの問いに、執事はにんまりと微笑んで「当然でございます」と答えた。
セラエノでは皇太子殿下が婚約する際、その相手が妃に相応しいかを見極める『審判の女神』という役職が存在する。その名の通り女性のみが就くことが出来るのだが、コーネリアが見事就任することとなった。
と言っても、競争率は非常に低い。殿下が選んだ相手に「何だこいつ」といちゃもんを付けるのが仕事のようなものだ。
通常は高位貴族の夫人から選ばれるのだが、恐れ多すぎて誰もやりたがらない。更にエレスチャル公爵が色々と手を回した結果、コーネリアにあっさり決まってしまった。
水面下で密かに進められていた計画だったため、シリウスも知らずにいたようだ。コーネリアが僅かにヒントを与えたので、彼ならば今頃勘付いていそうだが。
そして、審判の女神によって婚約者が妃の器ではないと判断されると、『戦乙女の決闘』が発生する。婚約者と審判の女神となった女性が文字通り決闘を行うのだ。
婚約者が勝てば皇太子との結婚が認められるが、審判の女神側が勝利した場合、婚約は破棄となる。現皇帝ウラノメトリアの正妻であったヴェラ妃も、結婚前に戦乙女の決闘を申し込まれた経験を持つ。その際は相手を完膚なきまで叩きのめしたようだが。
しかしマリアライトは、聖女というだけでただの人間だ。コーネリアに到底敵うはずがない。
「ふふ……人間であっても聖女であっても、女神による裁決は公平に行われる。この国の妃には強い女が選ばれるべきよ」
「そうでございますな、お嬢様。では、一刻も早く決闘を申し込むために書状を送りましょう」
「ええ。あのお花畑の聖女がしっかり怖がってくれるような文章を長々と……」
そこでコーネリアは言葉を止めた。
どうしよう。そんな表情で固まっている主に、執事が恐る恐る声をかける。
「お、お嬢様……?」
「参ったわね。一つ大きな問題があるわ」
「と、言いますと?」
「マリアライトを怖がらせる方法が本気で分からないんだけど」
額に手を当てながらコーネリアは深く溜め息をついた。頭の猫耳もぺたんと垂れてしまっている。
「あんな目に遭ったのに、全然怯えてなかったあいつに精神的ダメージを与える方法が思い付かない……何を送っても『すごいですねぇ』の一言で済まされる予感しかしない……」
「お嬢様に脅迫されて屈しなかった者はおりません。自信を持ってください」
「あんたはあの場にいなかったから、そんな呑気なことが言えるのよ……ってああっ!?」
言葉の途中でコーネリアが自らの胸元を確認して声を上げる。
あの忌まわしい女からペンダントを取り返すのを忘れていた。
「馬車を出してちょうだい! もう一度セラエノ城に行くわよ!」
「い、如何されたのです!?」
「あんた私を見て分からないの!? マリアライトにあのペンダントを取られたままなのよ!」
他のアクセサリーならいくらでもくれてやる。どれも安物ばかりだ。
けれど、あれだけは絶対に取り返さなければ。飲みかけの紅茶を残してコーネリアは屋敷を飛び出した。




