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文官やメイドはマリアライトに感謝していた。誰が何を言っても、執務室から出ようとしなかったシリウスがすぐに出て来たのだ。しかし、その顔は決して喜色満面という感じではなかった。
喜びと困惑が入り混じる表情をしている。直前までその場に立ち会っていたレイブンも、得体の知れないものを見るような眼差しを聖女に向けていた。
無理もない話だった。どんなにシリウスからアタックされようとも、のほほんと微笑むばかりのマリアライトが頬を染めて喜んだのだ。シリウスは自分にとって都合のいい夢を見ているのかと思ったし、レイブンは幻覚を疑った。
「マリアライト様、何かありましたか?」
「何かとは……?」
「……何でもありません」
「?」
シリウスは思わず視線を逸らした。心なしか首を傾げるマリアライトがいつもよりも愛らしく見える。彼女の周囲に花びらが散っているような幻すら見え始め、シリウスは人知れず焦っていた。その可愛さで呼吸が止まりそうだ。その真っ白な手にキスを落としたいし、吹き出物一つないまろやかな頬に頬擦がしたい。
ちなみに普段のマリアライトをまだよく知らないメイドたちは、微笑ましい光景だとほのぼのしていた。
マリアライトに用意された部屋に足を踏み入れると、焼き菓子の甘く香ばしい香りと紅茶の芳しい香りが鼻腔を擽る。
複数のメイドが皇太子と聖女のために茶会の準備を行っていた。我儘が許されるのならマリアライトが焼いてくれたクッキーが食べたいが、まだ城にやって来たばかりの彼女にそんなことはさせられない。
それにメイドたちは皆楽しそうに動いている。
「シリウス様のためにご準備出来ることを喜んでいらっしゃるようです」
マリアライトにそう言われて、昔は茶会に参加したことがなかったとシリウスは思い出していた。そんなものに興味はなかったし、メイドもその方が楽だろうと考えてのことだったのだが。
「誰かのために美味しいお茶やお菓子を準備するのは、とても楽しいことなのですよ」
「……そうですか」
「私もそうでした」
懐かしむような、それでいて寂しさも含んだ柔らかな声だった。彼女は誰を思い出しているのだろう。
小さかった時のシリウスか、彼女を捨てた王太子か、それとも本来結ばれるはずだった婚約者の男か。カップに注がれた紅茶を見詰める薄青の双眸からは、彼女の思考までは読み取れない。
笑っている時の顔が一番好きだが、こんな風に物思いに耽るマリアライトには不思議な美しさがある。透明な美という表現すべきか。どこか無機質さを感じさせる。
惚れた弱みを差し引いても、マリアライトは美しい顔立ちをしている。
「……俺も紅茶の淹れ方や菓子の作り方を学ぼうかと思います」
「シリウス様がですか?」
「はい! 是非マリアライト様に……!」
そこまで口走ってからシリウスは言葉を止めた。今のマリアライトには少し重すぎるかもしれない。本当はもっと愛を囁きたいが、無理に愛を押し付けるのは避けるべきだろう。
「いえ、俺が用意するよりもメイドが用意したものの方が、味も見た目も絶対にいいはず……」
「そんなことはありません。きっと美味しくて、見た目も綺麗だと思いますよ」
先程まで人形のような表情をしていたマリアライトが頬を緩め、目を細めて微笑んでいる。
シリウスが大好きなマリアライトの笑顔。だが、心から幸せそうな、甘いそれは初めて見る笑みだった。
「だって、シリウス様がご用意してくださるのですから」
まるで恋する乙女の微笑みだ。
シリウスは真顔でティーカップの取っ手を握り潰した。破片が周囲に飛び散り、中身がシリウスの衣服にかかる。
「シリウス殿下!? 大丈夫でございますか!?」
「マ、マリアライト様……お聞きしたいことが……」
「殿下! マリアライト様のことより今はご自分のことをお気になさってください!」
淹れたばかりの紅茶を太股にぶちまけたまま、シリウスはマリアライトの手を握り締める。メイドたちがパニックになっているのが分かるが、魔族なのでこの程度で火傷をするはずもない。たとえ火傷をしていたとしても、そんなのを気にしている余裕などなかった。
今すぐに聞かなければならないことがあった。
「ケーキはどのような種類がお好みですか?」
「果物をたくさん使ったケーキでしょうか……それから、お早くお召し物をお脱ぎになった方がいいですよ」
「それはまだ早すぎます!! 嬉しいですが!!」
「? 火傷が酷くなってしまいますので、早すぎるということはないと思いますけれど……」
何故か顔を真っ赤にして叫ぶシリウスに、マリアライトは不思議そうに首を傾げた。
そして、茶会後。城の図書室では菓子作りの本を読み漁るシリウスの姿があった。
「あんま聞きたくないけど一応聞くっすね。何調べてるんすか?」
「果実をたくさん使った結婚式用のケーキの作り方だが?」
「ちょっと疲れてるみたいなんで、寝た方がいいんじゃないっすかね」
どうしてレイブンがそんな気の毒そうな顔をしているのか、シリウスには理解出来なかった。




