あなたの世界が終わるとき
ざらついた風が巻き上がって、少女の長い髪がなすがままに乱される。風が耳元で大きく唸り声をあげた。
荒涼とした大地に立つ裸の足は陽の光を知らぬように白く細い。
少女は灼熱の陽光の中に立ちつくし、不気味に燃える太陽をじろりと睨んだ。その異様な大きさはまともな教育を受けていない彼女にすら、ある予感を植え付けさせる。
そう。この世界はもうじき終わりを迎えようとしてる。
(でも、そんなことあいつらには関係ない)
少女はじりじりと照りつける太陽が少しでも遠のいてくれないかとじっと睨み付けた。
「美也、ようやく見つけた」
不意に心地の良いテノールが風の中に響き、美也と呼ばれた少女は声の主を振り返った。
日差しから身を守る厚いマントをすっぽりと被り、大きなゴーグルで顔を隠した人物が立っている。風貌からでは男女の別など全くわからないが、美也にはその人物が誰なのがすぐに分かった。
「タケル。迎えに来てくれたの?」
美也は険しかった表情を和らげにっこりと微笑むと、細い腕をそっと彼に伸ばす。その白い腕が陽の光を反射して輝いた。
強烈な日差しの中でノースリーブの白いワンピースだけを身に纏った美也は、世界に終焉を知らせる天の使者のように不吉にも見える。しかし、戸惑いなど一欠片も見せずにタケルは小柄な少女を自らのマントの中に招き入れた。
「良かった。見つからなかったらどうしようかと思っていたところなんだ」
美也の細い身体をひしと抱きしめてタケルはほっとしたように言った。しかし美也はそれを否定するように小さく首を振る。
「もうじき醒めてしまうわ。監視員がドアのロックを解除する音が聞こえるもの」
耳の奥ではカチカチと電子ロックの外れる音が響いている。あと数秒で、美也は眠りから覚醒する。
そう。ここは彼女の夢の中。彼女にとって現実ではない場所。
『315-W05。朝食の時間だ、起きろ』
その時、無機質な声と共に意識が無理矢理引きずり出された。青年の姿がひずみ、泡のように消えていく。
目を開けると、のっぺりとした白い天上が見えた。つい先程まで感じていたタケルの力強い腕の感触は、覚醒と共に急速に現実味を薄れさせていく。
「315-W05。朝食の時間だ」
白い制服に身を包んだ監視員が単調な口調で繰り返す。
美也はゆっくりと起きあがると、赤く燃える太陽を見るように頑丈なドアの向こうに消えようとする監視員を睨み付けた。
(わたしをそんなふうに呼ばないで)
タケルの心地の良い声が彼女の名を形取る時とは天と地ほどの差があった。
小さなテーブルの上に置かれたトレイにはパンとスープが置かれている。
パンの表面には『315-W05』の印字が打ち込まれていた。その数列はこの施設で彼女を表すシリアルナンバーだ。
「わたしの名前は美也よ」
美也は彼女のためにあつらえられたパンを作業的に咀嚼しながら呟いた。
「シュレディンガーの猫」の思考実験から発生した多世界解釈は、長らく観測不可能という事実から黙殺されてきたが、ある特定の人種により観測が可能であるとの実験報告が発表されて以来、無数に存在する多世界はわずかにながら解明され始めている。多世界を観測するための媒体となる限られた人種というのが、ある精神疾患の妄想型に分類される患者であった。彼らが見聞きする幻覚、幻聴はドーパミン作動性神経の不具合などではなく、平行線上に存在する多世界を感受していたためである。
研究者たちは該当する患者たちを大規模な施設に集め、彼らを介して多世界を観察し始めた。
観測される多世界の中から有益な情報を得られるのではないかと大企業が資金提供を行い始めたのをきっかけに、多世界の観測は一気に加速していく。
該当する患者は物のように市場で売買され、人権など無いに等しくなった。
美也もその中の一人だった。幼少期に統合失調症の妄想型の診断を下されると、研究者たちはこぞって彼女を獲得しようと試みた。
下層階級の出身だった美也の両親は、一生安泰に暮らしていけるだけの金で彼女を売った。
そうして美也はごみ溜のようなあばら屋から、全てが管理された清潔で安全な施設へと移された。
それは幸福と呼ぶべきなのだろうか。
美也の観測する多世界は、焼け付くような太陽が照りつけるオレンジ色の荒涼とした大地の世界だった。
夜毎見る不吉な夢とありもしない世界を垣間見ることへの恐怖に幼い頃はひどく怯えていたが、終焉が忍び寄る足音が聞こえるその世界で彼女が見つけたのは、タケルと言う名の青年だった。彼女はタケルの声だけを観測した。
『世界はもうすぐ終わるんだ』
陰鬱に響くその声に震え、日々思考が犯されていく。
投薬治療を行えば症状が改善するにも関わらず、観測に支障を来すからと投薬は一切行われていなかった。
いくら耳をふさいでも追いかけてくる声に怯えて泣いていると、不意にその声が語りかけてきた。
『君は、誰? なぜ泣いているの?』
美也はその問いに驚いて息を飲んだ。
「わたしの声が聞こえるの?」
『うん。ずっと聞こえていたよ。ずっと泣いているから、おれは君のことが怖かったんだ』
「わたしもあなたのことが怖いわ。どうして世界が終わるなんてひどいことを言うの?」
『ひどいこと? 太陽が膨張して、もうすぐ地球は飲み込まれるんだ。みんなが言っている。植物も家畜もどんどん死んでいって、海は干上がってしまったよ。おれたちは地下に穴を掘って暮らすしかないんだ。でも君はずっと安全なところにいるだろう? どうして泣く必要があるんだい?』
「だって、あなたの声が聞こえるんだもの。いくら耳をふさいでも。だから、わたしはどんどん怖くて不安になっていくの」
美也はいつものように狭い部屋の隅できつく両耳をふさいでうずくまった。それでも声は耳の中で響いている。
『君は誰? どこにいるの?』
その問いに彼女はじっと考え込み、おそるおそる答えた。
「わたしは美也。あなたのいる世界とは別の世界にいるの」
『そうか。やっぱりここは別の世界なのか』
声が一段と明瞭に聞こえた。驚いて顔を上げると、ベットの脇に分厚いマントを被った青年が立っていた。突然のことに美也が身体を強張らせていると、彼は頑丈なゴーグルを外してにっこりと微笑んだ。日焼けした肌に人懐こそうな瞳が印象的だった。
『始めまして、美也。おれはタケル。たぶん、おれたちは同じ体質なんだと思う』
「同じ体質?」
『別の世界のことを関知することが出来る体質』
そう言ってにかりと笑うタケルの顔を、美也はじっと見つめていた。
* * *
「以上315-W05、報告終了」
朝食後の映像報告を済ませると、美也はベットの脇に不自然に寄りかかった。まるでそこに誰かが居るように。しかし監視カメラはいつものように彼女一人を映し出すだけで、そこには誰もいない。
「地下の生活は退屈じゃないの?」
ぽつりと言うと声は狭い部屋の中にわずかに余韻を残して換気ファンの音に掻き消された。
『ここと大して変わらない。それを言うなら君だって退屈じゃないのかい?』
美也は耳の中に聞こえる声に振り返った。彼女の瞳にはベットに腰掛けるタケルの姿がはっきりと見えている。
「他の人たちは知らないけれど、わたしにはタケルがいるもの。外には出してもらえないから、ここは二人きりの世界でしょ? わたしと二人きりは不満なの?」
『そんなことはないよ』
タケルが首を振ると、美也は大きくため息を付いた。
「退屈なのは、わたしがモルモットだからよ。親はわたしを大金で売ってから一度も顔を見に来てもくれないし、監視員は食事を運ぶだけ。月に一度のカウンセリングではお決まりのことしか聞いてこないし。全部、わたしが病気になったせいよ」
『美也はその運命を呪うかい?』
「呪わない」
美也はきっぱりと言い放った。
「病気になったおかげでタケルに会えたらなら、わたしは神様に感謝したいわ」
『でも、辛い思いもたくさんしただろう?』
「それくらい、いくらでも我慢できる。あなたがずっとここにいてくれるなら」
『だけど、おれの世界はもうすぐ終わる。そう遠くない未来で太陽が全てを飲み込んで焼き尽くす。君はきっと、おれを通してその瞬間を目撃するはずだよ』
「そんなの見たくない。あなたがいなくなるなら、わたしもここから消える」
『そんな悲しいこと言うなよ。おれは美也がいなくなるところなんて見たくない』
「でもタケルはそれをわたしに見せようとしているでしょ?」
『それは仕方のないことだよ』
「そんなの知らない」
美也はふくれっ面でそっぽを向いた。しわの寄ったシーツをいじりながらぽつりと呟く。
「タケルは死ぬのが怖くないの?」
タケルは美也の手をやさしく撫でる。
『怖くない』
「嘘」
タケルの言葉に美也が反論すると、彼は小さく微笑んだ。
『おれが消える瞬間まで、美也が側にいてくれると思うと怖くないな』
「そんなの自分勝手すぎるわ」
『そうかもしれない。それでも君が側にいてくれるなら、おれは世界が終わってもきっと幸せだよ』
その言葉に、美也はタケルの手をきつく握りしめた。節くれ立った手の感触も伝わってくる温もりも確かに感じるというのに、彼はこの世界に存在していないという事実が彼女の胸をきつく締め付けさせる。
(こんなに近くにいるのに、とっても遠い。世界の隔たりが無くなってしまえば良いのに。そうしたら、わたしはすぐにあなたに会いに行く)
二人は、遠く隔たる二つの世界で恋をしていた。
それは、互いの夢の中でしか触れ合うことの出来ない儚い関係だ。
薄暗い部屋に設置されたモニターには、美也の映像報告が映し出されている。
白衣を着た二人の男女が険しい顔つきでそれを眺めている。
「315-W05の多世界観測は終了させた方がいいでしょうか? このまま観測を続けると、被検体の精神が衰弱してしまう恐れがあります」
髪を結い上げた女がモニターから男に視線を移して言った。
「彼女も〈世界の終焉〉を目撃してしまったら自ら死を望むようになるだろうか」
「前例では90%の確率で死に至っています」
「そうか。それでは一定期間の投薬を申請しよう。315-W05の観測する世界が終焉を迎える頃には、彼女は新たな被検体として次の実験に協力してもらうことになるだろう」
「承知いたしました。それでは明日のカウンセリング終了後から、投薬を開始いたします」
「つかの間の休息というわけだな」
男は書類にサインをすると、足早に部屋から出ていった。
* * *
月に一度のカウンセリングは、美也にとっては退屈なものだった。
睡眠、食事などの基本生活の口頭チェックと、多世界観測においての留意点が毎度繰り返されるだけである。最後に「何か変わったことはありましたか?」と付け加えて。
しかしその日は、口頭チェックが終わるとスチールのテーブルにピンクと白の二つのカプセルが置かれた。
「これは何?」と聞く前に、カウンセラーがにっこりと微笑んで言った。
「今日から投薬を始めることになったのよ。しばらくの間は多世界観測はお休みよ」
「お休み」その意味を察知して、美也は激しく首を振った。
「嫌よ。飲まない」
(そんなことをしたら、タケルに会えなくなってしまう! そんなの嫌!)
美也はカウンセラーを突き飛ばして部屋から走り出た。ここへきて初めて抗ったのだ。すっかり気を緩ませていた監視員も不意を突かれて呆けている。
部屋を出ると白い廊下がどこまでも続いていた。同じドアがいくつも並んでいる。
「待ちなさい!」
後から声が聞こえて美也は走る速度を上げた。
しかし走ることなど久しくしていないために、細い足はすぐに悲鳴を上げる。
『美也! 何があったんだ?』
気が付くとタケルが並んで走っていた。その姿を見て、美也は泣きながら彼の手を取った。
「あいつらが、観測はもうしなくて良いというの! わたしタケルの側にいてあげられなくなっちゃう! もう会えなくなっちゃう!」
涙でかすむ視界の中に廊下の奥に非常階段を見つけて、そこから出ようと美也は駆け寄った。
しかし、非常階段に走り出た美也は、そこから見える景色に目がくらんで立ち止まった。
巻き上げる風に髪が踊る。夢の中で見る、タケルの住む世界とは全く違う白くくすんだ空が広がっている。遙か下方に見える灰色の地面に目眩がした。
『美也。ここは危ない。早く部屋に戻るんだ』
タケルがその高さに危惧を抱いて美也を引き留めると、彼女は激しく首を振った。
「嫌よ! 戻ったらわたしたちはもう会うことが出来ない!」
『君が危険な目に遭うくらいなら、その方がいい』
「そんなの嫌! わたしはずっとあなたといたいの! どんなに遠くてもあなたを感じていたいの!」
そう言うと美也は、タケルが止めるのも聞かずに非常階段から飛び降りた。
その向こうに赤く燃える世界が見えたような気がしたのだ。
美也は焼け付くような暑さに目を覚ました。太陽の光に焼かれる世界の中に彼女は倒れていた。焼けた地面は鉄のように熱く、触れた肌はたちまち赤くただれた。
(熱い)
あまりの痛みにうずくまってじっと堪えていると、靴音が近づいてきた。
「美也!」
その声に彼女は顔を上げる。
マントを翻してタケルが駆け寄ってきた。
「なんてことをしたんだ! 君は自分が何をやったのかわかっているのか?」
タケルは自らのマントの中に美也を引き入れると、その細い身体をしっかりと抱きしめた。
「ねえ、わたしはどこにいるの? これは夢?」
いつもの夢とは違う。焼け付くような暑さなど今まで一度も感じたことはなかった。
「夢じゃない。君はこの世界にやってきたんだ」
「なぜそんなことが出来たの?」
美也は不思議そうに首をかしげたが、すぐに思い直してタケルに抱きついた。
「そんなこと、どうでも良いわ。これでわたしたち、ずっと一緒にいられるってことなのよね」
「ああ、世界が終わるときまでずっと」
灼熱の世界で、二人は確かに抱き合っていた。
真っ赤に燃える太陽がじりじりと世界を焼き尽くすまで。
* * *
「0910(マルキューヒトマル)時。315-W05の死亡を確認しました」
白衣の女がモニターに映し出された美也の遺骸をちらりと見やってすぐに目を逸らした。高所から飛び降りたせいであちこちに脳漿が飛び散っている。
「やはり〈世界の終焉〉を観測する被検体は死に至る確率が高いか。彼女の観測していた世界もこれで観測不能になった」
「315-W05は最後まで観測していたのでしょうか?」
「それも今となってはわかるまい。脳が完全な状態で回収できていればあるいは解析できたかもしれないが」
そう言うとデスクに寄りかかった男は、美也のシリアルナンバー315-W05をリストから消去した。




