変化の兆し
きっかけ
ユフィリアは呆然と蜘蛛の魔物を見ていた。見たことのない巨体に、禍々しいほどの存在感。祖国のミストルティンでは一生見ることのなかっただろう、ゼイングロウの魔物だ。
普通の蜘蛛の食事方法は、動けなくした獲物の体に消化液を入れ、どろどろに溶かして食べる。あれは普通の蜘蛛としての食べ方以外にも、直接咀嚼して食べれる口もある。人間なんて、一齧りで真っ二つにできそうだ。
ユフィリアは自分が逃げなければいけないことが分かっている。
ここにいたら邪魔にしかならず、ミオンたちの足を引っ張るだけ。それなのに、足が竦んで動けない。
(逃げなきゃ! 逃げなきゃ! まだ森の浅いところなのにこんな魔物が出るなんて……油断していたわ)
麓なら小型の魔物が多いと聞いていたので油断していた。
ユフィリアは焦りながらもじりじりと後退していたが、うっかり木の根元に躓いて転んでしまった。倒れ込むユフィリアに、蜘蛛の意識が行く。
その時、クオンとレオンが動いた。攪乱するように二人同時に並走したかと思ったら、蜘蛛の目の前で交差したり離れたりと蜘蛛の注意を引く。
蜘蛛は近づきながらもウロチョロと目障りな二人に、糸を吐く。投網のように広がりながら二人に飛んでいくが、地を蹴って見事に避ける二人。
二人が時間を稼いでいるうちに、ユフィリアは必死に立ち上がろうとする。だが、腰が抜けてしまって立ち上がれない。焦れば焦るほど、無駄に土や落ち葉を蹴っているだけだ。
「ユフィリア様、失礼いたします」
その時、後ろから聞き馴染みのある声がする。落ち着いた女性の声の正体はミオンだ。
ミオンは手早くユフィリアを抱き上げると、クオンとレオンを一瞥もせず一気に走り出す。その間、新人の三人は棒立ちだ。
ユフィリアを助けなければいけないと頭では分かっている。でもあの巨大な蜘蛛に対策なしに背を見せるのは躊躇われて、動けなかったのだ。
「クルト! お前は一番足が速いから、ユフィリア様をなるべくこの森から離して! 村長のいる屋敷まで!」
「りょ、了解した!」
ミオンに鋭く声で指示され、今までの余裕など消えたクルトが二つ返事をする。
「ソービとトウダは残って援護を! あの二人が陽動で誘い込むから、足から狙って潰していきなさい!」
「は、はい!」
「分かった」
ミオンの指示にソービとトウダも返事をする。いつものように不服そうな声ややる気のない声ではない。
自分たちがこの場に残るか、クルトのフォローに回るか迷っていたので指示があって助かったと言う気持ちが如実に表れている。
ソービはやっと自分の武力を示せる機会が来ているというのに、緊張と恐怖で強張っていた。自分の想定とは全く違う状況だったのだ。こんな大きい化け物と対峙するとは思っていなかった。
しかもあのゴワゴワとした剛毛で全身を覆われていて、堅そうである。
ソービはヤマアラシの獣人。体毛――特に髪を硬く強化できる。大概のものは突き刺すことができるが、あの蜘蛛の姿と相性が悪い。
まずは大きさ、そしてあの毛。ソービの髪の針が届くか怪しい。鋭さではなく、長さの問題だ。一番の武器が通じないのは致命的だ。
「でも、試してなんぼでしょ!」
ソービは髪に力を込めて、硬質化する。いくつかは手に取り、蜘蛛の目らしき部分に投げつけた。毛の生えている部分は刺さっても痛みを感じているか良く分からないが、目に刺さるとどす黒い緑がかった液体が流れる。
「やっぱ狙いは目、一択でしょ!」
ぺろりと舌なめずりしたソービは、再び狙おうと距離を詰める。
ソービが走り出した時、トウダは手に持った剣で暴れる足を一本切り落とした。と言っても、十本くらいありそうなうちの一本だ。双子とミオンがそれぞれ一本折ったり、切ったりしたがまだまだ動きは変わらない。
蜘蛛だって馬鹿ではない。このまま足を切られ続ければ支障をきたす。警戒心が高まっていたところに、真っ直ぐソービが飛び出してきたのだ。
「うーりゃあああ!」
手足と同じくらい沢山ある目を全部潰してやろうと、ソービは威勢よく突っ込んでいく。
その姿に皆一瞬唖然とする。ミオンとトウダは、その愚直なまでの突っ込みっぷりに怒りを通り越してあっぱれと思うと同時に呆れすら感じていた。
まさにヤマアラシと言った具合に髪をいがぐりのように身で覆いながら、攻防一体の姿となったソービは走る。
思い切り跳躍し、その身を武器に刺し潰そうと躍りかかる。踏み込みのタイミングもばっちりで蜘蛛の目玉に向かっていた。そのままであれば、蜘蛛の頭に大きな損傷を与えていただろうけれど、蜘蛛だってそのままやられない。
ソービは跳んだ。翼や翅をもたない彼女は、空中で軌道を変えることは不可能。
そんな彼女を蜘蛛が放っておくだろうか――否である。
ぺっと白い蜘蛛糸が網状に吐き出され、まんまと捕獲されたソービ。自慢の針ごとべったべたに粘着性のある蜘蛛糸に絡められ、近くの枝にぶら下がった。
これが予想できていたミオンたちは頭を抱える。五対一で少しずつこちらの有利に戦いを運んでいたのに、これではリセットどころかマイナスだ。
ミオンは自分も陽動に回り、トウダにソービの救出をさせようかと迷った。勝手な行動をするソービを助けるより、時間がかかっても四人で戦うほうがマシかもしれない。
そんな時、上から声が降ってきた。
「珍しいな。ゼインピークスパイダーだ。縄張りでも追われて下りてきたのかな?」
声の主はいつの間にかいなくなっていたモルガナだ。
彼は腕を一振りすると、飛んできた蜘蛛糸を風で薙ぎ払った。その風は蜘蛛糸だけでなく、蜘蛛の手足も次々切り落とす。そしてひときわ大きな風の渦が生まれると、蜘蛛の巨体が見事に裂けて絶命していた。
五人の護衛たちは唖然とする。ゼイングロウでも強いほうである彼らが、てこずっていた相手をいとも簡単に倒すなんて。このふざけたハイエルフが、実は強いと分かったのだ。
族長なんて嘘だろうと思っていたが、認識が変わった。
「これも丁度いい肥料になりそうだし、持って行こうか」
にっこりと笑うモルガナは、蜘蛛の死体を指さす。
嫌だと思ったけれど、モルガナの笑顔が有無を言わせない。結局、荷台の半分以上が蜘蛛の死体になったけれど運ぶことになった。
酉の一族の集落は、森の戦闘など知らず静かだった。
クルトと共に、村長の屋敷に着いたユフィリアはまず治療を受けることとなった。蜘蛛の恐怖で気づいていなかったが、転んだ時に足をねん挫していたのである。
自分で勝手に転んだのだが、ユフィリアが怪我をしたと知ってクルトは顔色を変えた。
「申し訳ございません、ユフィリア様。護衛として随行していながら、お怪我をさせるような事態になり、面目ございません」
「でもこれは、私が転んだだけですし」
今までの軽薄さが消えユフィリアに深々と頭を下げるクルト。
クルトは油断していた。自分はソービやトウダと違い、俯瞰して物事を見ているからしくじらないと過信していたのだ。
その結果が魔物に後れを取り、護衛対象を忘れたあげく怪我までさせてしまった。ミオンから指示を受けるまで、棒立ちになっていたのだ。
午の一族でも将来を期待されていたクルトは、護衛に抜擢されたことを当然だと感じつつも、簡単そうでつまらないと思っていた。ユフィリアは堅実で大人しい性格だから、勝手なことをしない。想定外はない。今回行く森だって、集落近くだから大したことのない魔物や獣しか出てこないと油断していた。
すべては、自分の驕りだ。ソービやトウダと変わらない愚かさだ。ソービの先走り過ぎる性格や、トウダの誰とも距離を置きたがる性格からの消極性を知っていた。
少なくともクルトには二人より状況を見ていた。油断していると忠告することもできれば、彼らを取り持つ余裕すらあったのにそれを放棄していたのだ。
目の前で白く細い足を腫れさせているユフィリアは、己の愚行が招いた結果である。
ヨルハが知ったら指どころか、腕の一つや二つ折られるかもしれない。
村長のムラノは顔を真っ青にして、泡を吹いて倒れている。養蚕をしている村人オリベはそんな彼を揺さぶり、必死に起こそうとしていた。
「これくらいなら少し安静にしていれば大丈夫ですわ。打撲や炎症に効く軟膏も塗りましたし」
大した怪我ではないとユフィリアは言うが、彼女は良くてもヨルハは怒るだろう。
クルトは馬の獣人。午の一族は足の速さと高い持久力を自慢にする者が多い。クルトもそうだ。だからこそヨルハはクルトを二度と走れないようにするかもしれない。
ユフィリアはこれくらいというがクルトを含め、新人三人が一番油断していた。全く心構えがなっていなかった。ミオンたちは蜘蛛の魔物を目の前に、肉壁になってでもユフィリアを死守しようとしていた時、自分たちが逃げることを最優先させた。
咄嗟のことだからこそ護衛としての判断能力が問われた。あの時、立ち向かった者と逃げた者。格の高さ以前の問題で、クルトたちはミオンたちに劣っている。
ユフィリアの信頼だって、全然違う。
今のユフィリアは、クルトたちを気にしていない。最初から護衛として期待していなかった。クルトたちがいなくても、ミオンたちを信じていたから必要性を感じず、何も言わなかったのだと今なら分かる。
ユフィリアを治療後、半刻もしないうちにミオンたちも戻ってきた。
荷馬車には載せておいた腐葉土だけでなく、蜘蛛の魔物が乗っていた。絶命しているのは間違いなく、手足がバラバラにもげた状態で雑に括りつけられている。
村人は恐怖に引いて逃げるようにして荷馬車から離れていく。そして、遠くからこちらを見ていた。
村長の屋敷の縁側に座りミオンたちの帰りを待っていたユフィリアも、ミオンたちを見つけた。ミオン、クオン、レオンは先頭側に、真ん中にはソービとトウダ、しんがりはモルガナが荷馬車の後ろに座っている。
ミオンはユフィリアを見つけると、すぐに駆け寄った。ユフィリアも近づこうとしたが、怪我を心配したクルトに止められる。
「ユフィリア様! ご無事で何よりです」
「ミオンこそ無事でよかった。あの、どうして蜘蛛の魔物を?」
立ち上がろうとするとそっとミオンに手で制されて、座り直すように促される。ミオンは笑顔で、その手も穏やかな動きだが圧がある。
気を取り直して、荷台で異彩を放つ蜘蛛の魔物の慣れの果てに視線を向ける。
「モルガナ様曰くあれも肥料になるそうで……」
「あれがですか……」
ミオンは変な冗談を言うタイプではないので、真実なのだろう。ユフィリアが困惑を隠せないでいると、モルガナが飄々と笑いながらやってくる。
「ゼイン山脈の魔物は魔力が豊富だからね。この辺の植物は、魔力大好きだからいい栄養になるよ」
そこまで言われてしまえば、ユフィリアは断れない。
ゼイン山脈の生態系は未知の領域が多い。その土地に合わせて独自の進化を遂げた、固有の動植物の種類も魅力の一つである。
一見は普通の桑に似ていても、この土地に合わせて進化しているのだろう。
蜘蛛の死体を見ていると、その荷台で俯いているソービとトウダに気がついた。そういえば、いつも騒がしいほど元気なソービがやけに静かである。彼女は目を腫らして明らかに今さっきまで泣いていたと分かるほど顔が真っ赤である。
落ち込んでいるのか、トウダもいつもに増して暗い。物静かなほうだが、今は暗雲がたちこめている。
ふと顔を上げたソービがユフィリアと目が合う。すると泣き出しそうなほどに顔をぐしゃりと崩す。
「ご、ごべんだだいいいい! ゆびりあじゃまあああ!」
多分謝っている。泣きすぎて声に濁点がつきまくっていて、正確に聞き取れない。
子供のようにわんわん泣きながらソービは頭を下げる。泣きじゃくるソービにどうしていいのか分からないのかトウダが気まずげに体を揺らしている。表情はあまり変わらないが、焦っているのが分かる。目が泳いでおり、ユフィリアとソービ、ミオンの間をずっと視線が泳いでいる。
そんな彼の裾をソービががっちりつかんでいるから、どこにも行けない。
「わがままいって! くちばっかで! ごえい、できなくて! ごめんなさい!」
潔いほどの謝罪なので、ユフィリアは苦笑する。
ソービは護衛として意欲はあったが、自分のやりたいこと以外は露骨に不満を言って、隙あらばサボろうとする。上司や先輩のミオンたちに咎められても、改善の気配がなかったのに随分と変化したものである。
先に避難したユフィリアの知らないことではあるが、蜘蛛の魔物にもあっさり自分だけが捕まったことにソービはショックを受けていた。強いという自負があったからこそ、鼻っ柱がペッキリ折れたのだ。
「俺も……護衛として未熟だった。これから、努力する」
トウダの言葉は小さく、大泣きするソービにかき消されかけていた。
困ったような顔をしているが、子供のように泣いているソービを無下にできないのだろう。ずっと周りと距離を取っていたトウダであるが、少し雰囲気が柔らかくなった気がする。
隣のソービがここまで感情を出しているから、それに影響を受けたのかもしれない。
三人の変化に、ユフィリアは無意識に笑みがこぼれた。
「まだまだこれからですよ。期待しています」
ユフィリアは本当に話の通じない、言葉が通じても意思疎通ができない相手を知っている。その空しさや、悲しさも痛感していた。
きっとこの三人はそうならない。ちゃんと回りの言葉に耳を傾け、自分で変わろうとしているのだから。
ユフィリアの言葉を聞いて、泣き止みかけていたソービがまた泣き始める。今度は嬉し涙で、トウダの隣で泣き始める。トウダは再び揺れが大きくなって右往左往だ。
困っているトウダを見かねたのか、ミオンがソービを引き取ってくれた。弟たちもいる長女気質なので、ミオンは本来面倒見が良いのだ。
何はともあれ、新人たちが護衛として前進したのは確かだ。今回を機に新人たちは態度を改めたのは言うまでもない。
読んでいただきありがとうございました。




