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D-3

シグルドの場合




 森の中は、真っ暗だった。

 

 大陸北部に位置する針葉樹林の巨大な森。一年の半分以上を氷と雪が覆うその地では、夏は短くあっという間に通り過ぎてしまう。

 そして今年の短い夏は、いつにもまして涼しく、実りは少なく、森の中の小さな村の小さな家の暮らしは、いつにもまして苦しくなっていった。

 だから、彼は「森に還された」。

 命は森からやってくるのだと、彼の村では信じられていた。死者は森に葬られ、その魂は森に還るのだと。

「おまえは森に還るんだよ。この道をまっすぐ歩いていくんだ。いいな?」

 彼は黙って頷いた。先日気の利かない奴、と彼を罵った兄は、その様子に満足したようだった。


 要するに、彼は捨てられたのだった。


 幼い頃から、のろま、グズと言われ続けていた。

 ほとんど口をきかず、ぼうっと遠くを見つめているような子どもだった彼は、閉鎖的な小さな村での鬱屈を晴らすための生贄だった。父は酒が入ると時折彼を殴ったし、母の口癖は「なんであんたみたいな子産んでしまったんだ」だった。兄も姉も彼を奴隷のように──彼はそんな単語は知らなかったが──扱った。彼はくちごたえはしなかったが、その行動が遅いときょうだい達は彼をなじり、時には手をあげた。彼にとっては一生懸命だったのだが、そんなことは関係なかった。

 妹が生まれたが、娘ならば「売り物になる」可能性が高かったから、いじめられるのはいつまでも彼だった。

 自分が悪いんだ、と思っていた。のろまでぐずでごくつぶしのばかだから。だからぶたれるのだ。

 ──仕方ない。

 そう、思っていた。

 

 学校などという大層な物はこの小さな村にはなかったから、彼は読み書きができなかった。もっとも、村の者のほとんどは読み書きができないので、どうということも無かったが、それでも森の獣の恐ろしさについて、子どもたちはさんざん言い聞かされていた。

 けれどその日、いつもより少しだけ良い服を着せられ、滅多に口にできない甘い菓子を少しだけ食べさせてもらった彼に告げられたのは、「おまえに森に還ってもらう」という言葉だった。

 もう必要ないのだという宣告。

 彼はぼんやりとそれを受け止め、頷いた。

 仕方がないのだ。自分が役立たずだから。


 ──仕方がない。

 

 彼は言われたとおり道を歩きだした。

 細い道はほどなく、枝と繁みに埋もれ、やがて道ではなくなる。昼なお暗い森の木々の間を、村とは逆の方向に、彼はひたすら歩いた。

 そのうちに日が暮れ、あたりが真っ暗になり、足下がおぼつかなくなっても、彼は歩いた。履いていた革靴の中が、だんだんぬめりを帯びて気持ち悪かったが、彼は歩き続けた。

 けれど、その歩みは、獣の遠吠えで乱れた。

 ──食べられてしまう。

 早足になった彼は、木の根に足を取られた。

 倒れた彼は、すぐさま起きあがろうとしたが、昼から歩き続けた体はもはや言うことをきいてくれない。飲まず食わずのため空腹は限界に近かったし、靴の中のぬめりが──酷使されて皮が剥けた足裏が痛くて、彼は体を丸めた。

 立ち止まった途端にすさまじい勢いで体の熱が奪われていく。北の冬は早い。汗ばんだ体が急に冷えていき、彼は身を震わせた。

 

 また、獣が鳴いた。今度は、先ほどよりも近い。

 びくりと体を震わせ、目を閉じて息を殺し、彼は身を縮めた。

 そうしながら、ぼんやりと思った。


 ──どうして、食べられたくないんだろう。

 

 必要ないといわれたのに。

 痛いのが嫌だから? けれどすでに、彼の全身が痛みを訴えている。もうどこが痛いのか、わからない。

 

 ──消えてしまえたらいいのに。


 固く閉じたまな裏に、それでも鮮烈な光が走ったのは、その時。

 獣が「ギャンッ」と悲鳴をあげたそれに、彼は再び身を震わせた。苦痛の悲鳴に、聞こえた。

 ──何だろう、今のは。

 疑問に思った彼の耳に、次いで届いたのは、軽い着地音。そして。

「追い払ったよ。──大丈夫?」

 きれいな、女の子の声だった。

 おそるおそる目を開けると、青っぽい色のドレスが見える。

 そろそろと首を動かして見上げると、そこには柔らかい白い光に照らされた──とんでもなく綺麗な、黄金色の髪の少女が腰をかがめて彼を見つめていた。

 ──なんて綺麗な紫色の瞳。

「どうしてこんなところにいるかなぁ……このあたりに村っぽいもの無かったよ? 迷子?」

 あきれたように問われて、彼はかぶりを振った。なんとか身を起こそうとするのだが、やはりうまくいかずに体を震わせることしかできなかった彼を、少女はそっと抱き起こして、背中を支えてくれた。

 柔らかい体。触れられた肩は温かくて、彼の知らない、甘い香りがする。

「……歩いて、きたから」

 掠れた声で彼がそう言うと、少女はぴくりと身じろぎする。

「──どうして?」

 ゆっくりとつむがれた問いに、彼はしばし迷った末に、答えた。

「……森に還れって、言われた」

「……っ」

 少女が小さく息をのんだ。綺麗な紫の瞳に剣呑な光がよぎり、途端、これまでにないほどの怖気が背を走り抜け、彼は身をすくませた。それに気づいたのか、はっとしたように少女はかぶりを振って表情をやわらげると、ぽんぽんと彼の肩を優しく叩く。 

「あ、ごめん。あなたに怒ったんじゃないの。……どうして、そんなこと」

「……仕方ないんだ。おれ……のろまで、ぐずで、ばかだから」

「……誰がそんなことを言ったの?」

 再び彼女のまなざしが険しくなるが、自分の遅い返事をきちんと待ってくれる少女に答えなければと、彼は懸命に言葉を紡いだ。

「……村の、みんなが、言ってる……」

「……みんなって誰と誰と誰」

 少女の声が、先ほどからどんどん低くなっているのがとても怖いのだが、それでも彼は正直に答えた。

「……とうちゃんと、かあちゃんと、にいちゃんと、ねえちゃんと……となりのロブおじさんと」

「ごめん、もういい」

 低い声でさえぎられ、突然ぎゅっと抱きしめられて、驚きのあまり目を見開いて声を失った彼の右肩に顔を伏せて、少女は囁いた。

「言わなくて、いいよ。……本当に、みんな、なんだね」

 深く息を吐く少女の体は、温かくて、心地よくて。でもその声は低くて、怖くて。相反する感情に、彼は非常に戸惑ったが、少女は再びぽんぽんと彼の肩を叩いて離れた。離れてしまったのを残念に思った彼の表情を怖がらせたと思ったのか、彼女は困ったように微笑む。

「……ええとね、何度も言うけど、あなたに怒ってるんじゃないの」

「……じゃあ、どうして」

「はっきりいって、あなたの周りの人に怒ってる。……どうしてか分かる?」

 しばし考え、彼はうつむきながらのろのろとかぶりを振った。

「……ごめん。おれ、ばかだから……分からない」

「あなたはばかじゃないよ」

 きっぱりと、少女は言った。強い口調に、思わず顔を上げて少女を見上げた彼の目をのぞきこんで、真剣なまなざしで彼女は続ける。

「ちゃんと私の質問に答えてくれるし、分からないことを分からないって言えるもの。あなたはばかじゃない。ただ物を知らないだけ」

「……」

 彼は、言葉を失った。

 そんなことを言われたのは、もちろん、初めてのことだ。いったい何を言い出すのかと思ったけれど、少女のまなざしが、怖いのに、すごく綺麗で、見とれてしまって。

「それにね──あのね、私がどうしてここにいるか分かる?」

 分からない。先ほどからの会話を思い出しても、理由などは言っていなかった、はず。

 そう思って彼がかぶりを振ると、少女は胸を張った。

「うちのミアンの占術の的中率はすごいの。将来有望な子を探して、出てきたのがあなた。だから、あなたが今は自分をばかだと思ってても──これからきっと、すごく立派になっていくんだよ。もちろん勉強したりしないとならないけど」

 彼は、目をしばたたいた。

 将来有望と言われても、彼にはその意味が分からない。けれど、これから立派になると言われ、彼は正直腰が引けた。うなだれた彼は、もごもごと口の中でつぶやく。

「……でも、おれ……いらないもの、だし」

「あぁもう」

 苛立たしげな声にびくっと身をすくめて、嫌われてしまったかと不安になった彼はおそるおそる少女を見上げた。

 嫌われるのが怖いと思ったことなど、それまでなかったのに。

 見上げた彼の両肩を両手でつかんだ少女は、まっすぐな目で彼を見つめていた。

「──あなた、名前は? 私はリサっていうんだけど」

「……シグ、ルド……」

「ねぇシグルド。……シグって呼ぶね? ──さっきの答え。私、あなたが必要だから、あなたを捜しに来たんだよ」

「……っ」

 鼓動が、高鳴った。体が、かっと熱くなった。

 走り回りたくなって、なんでか叫びたくなって。

 喜びという感情の味と名を知らない彼は、息をするのも忘れて綺麗な瞳を見つめ返した。

「私と一緒に来てほしい。……今はまだばかでもいいよ、これからたくさん勉強すればいい。あのね、人は変われるんだよ、シグ。でも、自分がこの程度だって思ったら──思いこんでしまったら、もうそれ以上にはいけない。だからこれからは自分がばかだからって言ったらだめ。シグは、自分がずっとばかのままでいいの?」

 問われて、シグはかぶりを振った。ばかのままの自分は、少女にとっていらないものになってしまうと思ったから、懸命に振った。

 そうしたら、手を離した少女はようやく、にっこりと笑った。その笑顔は。

 ──なんて、綺麗なんだろう。

 高鳴る鼓動のまま、彼はそっと少女の名を口にした。

「リ、サ」

 心の中で、彼は何度も彼女の名前を繰り返した。これまでに感じたことのない熱い物が、胸を満たしていく。

「うん。なぁに?」

「……どこに、行くの?」

「魔界の、私の家。──ごめん、言い忘れてた。私、魔族なの。一緒に来るの、嫌かな」

「……魔界って、何?」

 聞いた彼に、リサは少し肩を落としたようだった。

「そっか……やっぱりあんまり知られてないんだ……もっと怖がられてるかと思ってたけど、違うんだ……」

「……あ、あの、ごめん。おれ」

 ばかだから、と言いかけて、だめだと言われたのを思い出して口ごもる彼に、リサは苦笑する。

「気にしないで。私もまだまだ知らないことがいっぱいあるってことだから。……魔界はね、人界──ここからは、少し行きにくいところだから、一度行ったらなかなか戻ってはこれないと思う。……それでも、いい?」

「うん」

 はっきりと彼は頷いた。そうしたらにこりとリサが笑うので、彼の胸はさらに温かみを増す。

「ありがとう」

 そう言って立ち上がる少女につられて立ち上がろうとして、彼は痛みにうめいた。

「どうしたの? ……どこが、痛いの?」

「……足の、裏」

「そういう大事なことはもっと早くに言って!」

 言うが早いか少女はさっさと彼の革靴をはぎ取り、血塗れ状態であることを確認すると、手を器のような形にして、小さく何事かつぶやいた。すると少女の手にみるみる水がたまっていく。

「ちょっとしみるかも」

 言いながら手を彼の足裏に傾け、水で洗っていく。少し冷たくて、けれど初めて見るそのわざに彼はぽかんと口を開けていた。そして彼女が何か歌うようにつぶやいて彼に触れると、温かいものが全身に広がり、痛みが消える。

「じゃ、行こうか」

 不思議なそのわざを、なんでもないことのようにする少女に、彼はおそるおそる尋ねた。

「……リサは、魔法使いなの?」

「うん、ちょっとだけ使えるよ。靴は……置いていこうか。新しいのを用意するから」

「……うん」

 立ち上がると、少女はひょい、と彼の体に抱きついた。

「私につかまって、目を閉じて」

「……ん」

 魔法使いの、綺麗で時々怖い、不思議な女の子。柔らかくて温かい体の主。

 彼女の体にそっと腕を回して、その感覚がひどく気持ちよくて、彼──シグルドは目を閉じた。

 



 


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