小さな聖女の事情 その1
その日は、メルに災難が続いた日だった。
朝ごはんの時、ウェンが赤いスープの中に野菜をぼちゃんと落とした滴がはねて、うきうきしながら結んだ胸元の白いリボンが汚れてしまった。
人形たちがぴこぴこわらわらやってきて、汚れを確認して大丈夫だというように親指をたててくれたけれど、お洗濯のために回収されたリボンが無くなって、紺色のブラウスだけになってしまった胸元は妙に寂しい気がした。
ついで勉強の時間。書き取りをしていたら、朝から妙に眠そうなレインがインク壷にペンをひっかけて、盛大にひっくり返してしまった。慌てて片づけをしていたらいつのまにか顔にインクがついてしまっていて、ひげのようになっていたらしく、ウェンにそれを「メル、顔、おもしろい」と指摘されたのだ。レインには神妙に謝られたけど、アルとシグは笑いをこらえようとしていたけれど肩がぷるぷる震えていて。
ミアン先生はたしなめてくれたけど、何よりリサが小さく笑ったのが、メルにとっては一番恥ずかしくて、一番苦しいことだった。
顔が熱くなって、喉の奥も熱くなって、原因のレインに、何するの! とわめきたくなったけれど、レインは謝ったわけだからこれ以上責めるのは良くない、とメルの理性は言うし、リサはすぐに「ごめんね」と言いながらインクをぬぐってくれたし、そこはぐっと我慢して、「気をつけてね」と言うだけにしたのだ。
でも、きれいにしてもらったのに、それでも男の子たちはメルの顔を見る度にちょっと口元を歪めるので、メルは言葉にはしないながらもムカムカしていた。
おまけに、午後の運動の時間、外を走っている時に転んでしまって、膝をすりむいてしまったのだ。
「メルが怪我したってっ!?」
その一分足らず後、血相を変えて飛んできたリサに──何も無いところにいきなり円柱状の光でできた籠のような物が現れたかと思ったら、家の中にいたはずのリサが突然現れたのには本当にびっくりして、痛みを忘れてしまったけれど──傷の様子を確認していたゼス先生は、あきれたような口調で言った。
「治すな、リサ」
「なんで! メルに痛い思いしろっていうの!?」
「阿呆。この程度でガタガタ抜かすな、すぐ治る」
「でも!」
「痛みを怖がらない奴は長生きできん。どうやったら痛みを受けないようにするか考えなくなる。そうさせたいのか?」
ゼス先生がそう言うと、リサはぴたりと口を閉じてメルを見た。その気遣わしげな表情は、どこか泣きそうで、けれどゼス先生の言うことももっともだと思ったので、メルは言ったのだ。
「リサ、私、大丈夫だから」
「うん……とりあえず、傷口洗わせてね」
リサが何事か呟くと、器のようにした手のひらから綺麗な水が溢れでて、土のついた傷口を洗い流していく。少ししみるそれに身をすくめたけれど、メルは我慢した。リサの方が、痛そうな表情をしていたので。
そしてリサが「ちょっと待ってて」と言いおいてどこかに姿を消したら、ゼス先生はメルの頭に手を載せて言ってくれた。
「よく言った。偉いぞ、おまえ」
ゼス先生の大きな手で頭を撫でられるのは、少し痛いけど、なんだか気分はくすぐったくて、我慢できた自分が少し誇らしかった。その時は。
戻ってきたリサはなぜか卵の殻を手にしていて、内側の薄い膜を剥がしながら「これ貼っておくと早く治るって聞いたの」と傷口にぺたりと貼ってくれたけれたのだけれど、やっぱりちくちくとした痛みは足を動かすたびに襲ってきて、メルの神経をささくれさせる。
──治してほしいって、言えば良かったの、かな。
久しぶりに転んだということもあって、痛みにはなかなか慣れなかった。
それにメルは、昨日から悩んでいることがあった。
夕ご飯を食べて、ちょっとおなかを休ませてからお風呂に入って、それからアルの昨日のお話の続きを聞くことになっていたのだけれど、メルはどんどん憂鬱になっていた。
恐ろしい竜が、お姫様をさらうのだけれど、そのお姫様がとてもきれいで、恐ろしい竜にも優しかったから、お姫様を好きになってしまうお話。
昨日途中までで止められてしまったそのお話の続きを考えておくようリサは言った。だからメルは合間合間に考えた。考えてはみたのだ。けれど。
──ぜんぜん、でてこない。
お風呂の中でも、何度もお話を最初からなぞってみた。時には人を殺してしまう恐ろしい竜。どんな姿なのかとウェンが訊いて、リサはまだ見たことがないというから、ミアン先生に幻の絵を描いてもらった。人界の、メルたちが住んでいたところとは別の大陸──海をまだ見たことがないメルにとっては遠い遠い所の話すぎて見当がつかないけれど──は、今でも竜が住んでいるらしい。
硬い鱗に身を包み、口から炎を吐くという、大きなその生き物が、小さな人間の、でもとても優しいお姫様を好きになってしまって、そのあと──。
メルの知っている中で、一番お姫様に近いのはリサだ。
綺麗で優しい彼女をお姫様になぞらえようとして、メルはぷるぷるとかぶりをふった。
──だめ。なんだか、だめ。
リサなら多分、竜にも優しくしてしまえるだろう。ゼス先生が言うには、「リサは頑丈だからな。誰もあいつに怪我なんかさせられねぇよ」ということなので──細くて柔らかい体はそうはとても見えないのだけど──みんなが怖がる竜も、全然怖がらなさそうだ。でも、だけど。
──リサが他の人に優しくすると、なんだかいやなの。
朝のあいさつの時、自分を優しく抱きしめてくれるとすごく嬉しくなるのに、他の子たちをぎゅっとしているのを見ると、何故か胸をきゅうっと締め付けられたような気分になってしまう。
だから、お姫様をリサにはできない。
そうすると──メルの考えはそこで止まってしまうのだ。
──どうしよう。
もう、時間がないのに。
焦れば焦るほどに思考は空回りするばかり。
いつも陶然と見つめている、リサがその長い髪を洗っている様子も目に映らない。
濡れた金がつやつやと煌めきながら流れ落ちるその光景はとても綺麗で、綺麗すぎて触ることもできずに、息を止めるようにして後ろから見つめているだけだったリサの綺麗な、自分とは全然違う長い髪。今度、触らせてほしいと言ってみようとかと思っていたのだけれど、それどころではなくなってしまっている。
メルはお湯につかりながらぐるぐると考え続けていた。
「メル、どうしたの? 具合、悪いの?」
声をかけられて、メルははっと顔を上げた。
心配そうな表情で自分を見つめるリサと目が合い、心臓がはねる。
「ううんっ、なんでもないのっ」
慌ててかぶりを振りながら、メルは答えたけれど。
──どうしよう。まっしろ、なの。
他の子たちはちゃんと考えられているのだろうか。困ってる様子とか、全然見受けられなかったけれど、自分がひとりだけ、できないんじゃないだろうか。
できない子って思われたら。
──リサに、要らないって言われたら。
そう考えただけで、温かいはずのお湯に浸かっているのに、急にぞっとなって、メルは自分の体を抱きしめた。
けれど一度浮かんだその考えが、消えてくれない。
それどころか、どれだけ考えてもでてこない「続き」とあわせて、どんどん灰色の不安が胸の中に広がっていく。
──どうしよう。
のぼせるよ、とリサに促されるまで、メルはずっとぐるぐると考え続けていた。
そして脱衣所から出たメルが目にしたのは。
「アル……頭……っ」
長くて綺麗なアルの銀色の髪。それは今、ばっさりと断ち切られて、アルの手の中にあった。彼の髪は、今や首の上までしかない。
「思い切ったね……!」
リサに言われて、どこか嬉しそうに、アルは笑う。
「うん。シグが、切ったらって言うから。もう、要らないものだし」
「……いつも、邪魔そうに、絞ってたから」
隣にいるシグも、嬉しそうににこにこしている。
それもいいね、と微笑むリサの横で、メルは──愕然としていた。
あんなに綺麗な髪だったのに。
長くて、綺麗で、さらさらで。メルのまっすぐなだけの短い髪とは全然違うそれが、風に揺らぐのがうらやましかったのに。
誰かの髪を結うなんてやったことがなかったから、リサの髪を触らせてもらう前に、練習させてもらおうと思ってたのに。
──邪魔だ、なんて。要らない、なんて。
なんで、そんなにあっさり、言ってしまえるのか。
というか、自分が一生懸命考えているのに、何でそんな風に笑っていられるのか。やっぱり自分だけができてないのか。ずるい。なんで。どうして。
アルは自分にないものをいっぱい持ってるのに。それなのに、シグに言われたら、そんな風に、簡単に捨てられちゃうんだ……!
思考が絡まり、ぐちゃぐちゃになり。
気がついたら、メルの口から、言葉がほとばしりでていた。
「──シグの、ばかっ!」
理不尽だ、とメルの理性は囁いていた。
「なんでそんな余計なことするのっ」
けれど、どうしても、止められなかった。
シグが、体をびくっと震わせたのが分かった。
アルの水色の瞳が、さっと怒りに染まるのが分かった。
「馬鹿って、言うなっ」
「……あ、アル」
言われたシグよりも腹を立てている様子のアルは怖かった。それなのに。
「だってばかだもんっ!」
それでもメルの言葉は止まらなかった。
「いつもぼうっとしてるのに! なんでこんな時だけ!」
「……っの」
アルが右手を振り上げた。叩かれるのだ、と思った。
けれど、すっとメルの視界を金色が遮った。
「叩くのは駄目。──でもメル、言い過ぎ」
メルに背を向けたリサの静かな声に、メルははっと息をのむけれど。
「ずるい! リサはメルばっかり!」
聞こえたアルの声に、再び、火が点いた。
──ずるいのはどっちだ。
「アルの方がずるいじゃない……意地悪!」
楽器もひけちゃうし、読み書きもすらすらとできて、計算もできて。年は同じ位なのに、意地悪なのに、アルはずっとずっと先を行っているなんて、ずるい。
──私は、なんにも、持ってないのに。
「アルなんか、綺麗なのは顔だけじゃないのっ!」
ぴたり、と空気が固まった気がした。
「……メル」
聞いたことがないくらい硬い声で、リサがメルの名を呼ぶ。
それに、体が突き動かされた。
振り向こうとするリサの表情を見るのが怖くて。
メルは、その場から、逃げ出した。
◆ ◆ ◆
メルの様子がなんだかおかしいのには、リサも気づいていた。
お風呂では「なんでもない」と言っていたけれど、とっても可愛らしい顔を曇らせて、何事か考えこんでいるメルに、後で話を聞こうと思っていた矢先のことだ。
「シグの、ばかっ!」
突然のメルの罵倒に、リサは反応できなかったのである。
──何で怒ってるの!?
おとなしくて可愛らしいメルが、いきなり怒りだした理由がさっぱり分からず。
「なんでそんな余計なことするのっ」
続いての言葉に、メルが、シグがアージェントに髪を切るように勧めたのが気に入らないのはなんとなく分かった。
しかしその真意が全然理解できず、けれどピンポイントでシグには言ってほしくない言葉を投げつけるメルを、止めなければとは思ったのだ。
同時に、メルの理由を聞かなくてはと思った。
だから、出遅れた。
「馬鹿って、言うなっ」
アージェントの方が早くて、そして、シグをちゃんとかばってあげられるようになったんだ…! とかと一瞬感慨に浸ってしまったのである。
その間にも、メルは苦しそうな表情で言葉を吐き出す。
「だってばかだもんっ! いつもぼうっとしてるのに! なんでこんな時だけ!」
「……っの」
アージェントが右手を振り上げた時、ようやくリサは動けた。
メルの前に入り込んで、アージェントの右手を押さえて止めた。
「叩くのは駄目」
けれどこれではアージェントは納得しないだろう。だから付け加える。
「でもメル、言い過ぎ」
怒るのは後でも良いと判断。リサは、メルの真意が知りたかった。
今のは、シグを傷つけるというよりは、まるでアージェントを傷つけるためのように聞こえたから。
そう、思っていたら。
「ずるい! リサはメルばっかり!」
水色の目を怒りに光らせたアージェントの言葉に、リサは息をのんだ。
──なんでバレてるの!?
えとあれ私そんなに分かりやすくえこひいきしてた? いやでも仕方ないではないかメルは可愛いんだものいやいやいやこのまま言ったら他の子が可愛くないって受け取られかねないよ、いやそんなことはないんだけどねメルが一番可愛いのは確かだけどともあれえーとどうしよう何て言ったらいいのこういう時!?
リサが自身で無自覚な表情と自覚のあるやましさとに葛藤している間に、メルはさらに言いつのる。
「アルの方がずるいじゃない……意地悪!」
──いやちょっと待ってメル、アージェントがずるいってどういうこと?
そんなリサの疑問が音になる前に、メルは、爆弾を叩きつけた。
「アルなんか、綺麗なのは顔だけじゃないのっ!」
その音の連なりの意味を理解した瞬間、リサは硬直しつつ内心でぎゃああああと絶叫した。
──やばいなんというかそれはやばい他意は無いのかもしれないけどというかきっと無いけど性格が悪いって意味なんだろうけどでも、それは、アージェントには、言ったらまずい気がするっ……!
ぎぎっと視線を動かして見たアージェントの水色の瞳が、その顔が、完全に表情を失っている。
──止めなければ。
これ以上は、もう、だめだ。
その一心で、リサは口を開いた。
「メル」
けれど出た声は、自分が思っている以上に硬くて。
──あああだめだだめだ落ち着け私落ち着かないと! れーせーに! れーせーにっ!!
一生懸命自分に言い聞かせつつ、動揺が出すぎていることを苦々しく思いながら振り向いたら、メルが背を向けて走り出していた。
条件反射のようにその後を追おうとして、リサは自分が止めたままのアージェントの腕に気がついた。
そして、表情を無くしながらも、自分を見ている彼の目に。
メルばっかりずるい、と言ったアージェント。
そんな風に思われていたなんて、全然、気づけてなかったけど。
今、確実に傷ついているであろう彼に、「そんなことはない」と言うのが、多分一番、優しい答え。
でも、それは、嘘だ。そして、リサは嘘をつくのが、苦手だ。だからどちらかというと、言わない方を選んできた。
けれど今、何かを言わなければならないなら。
「ごめんね、アージェント。私、ひどくてずるいの」
嫌われるかもしれないけど、本当のことを、言っておこうと、思った。
「あなたは綺麗だよ。……でも私、メルと友だちになりたいの」
アージェントには、心配そうに彼と自分を見ているシグがいる。
でも今メルは、ひとりぼっちだ。
「だから、今はメルを選ぶわ」
リサはアージェントの右手から手を離し、身を返してメルの後を追った。
◆ ◆ ◆
走り去ったメルと、その後を追ったリサの後ろ姿を半ば呆然と見送り、シグは一言も発しなくなったアルの表情をうかがった。
ぐっと握りしめられた右手。そして水色の目にうっすら浮かぶ涙に気づき、慌てて言う。
「……アル、アルは、ちゃんと、優しいよ」
意地悪なところも無いわけではないけれど、アルはシグをかばってくれた。優しいところもあるって、知っている。
「リサだって、そう言ってた」
リサがアルに言った、「あなたは綺麗だよ」という言葉の意味は、そういうことだろうとシグは思っていた。
けれど、アルはうつむいた
「……違うんだよ」
ようやく出てきた、しかし何かを押し殺したアルの声に、その言葉の内容に、シグは困惑する。
「……違う、って?」
「──言いたく、ない」
袖を目にあて、区切るように、アルは言う。
「シグ、今日はもう、寝なよ。……ウェンたちにも、そう言っておいて」
「……うん」
今日の弾き語りは無い、という言外の言葉を少し残念に思いつつも、シグは頷いた。それでアルは、と聞きかけたシグの前で、アルはゆらりと歩き出す。
「……アル」
「ついて、来るな」
シグを完全に拒絶した、後ろ姿。
それ以上声をかけられずに、シグはゆっくりと、けれど確実に遠ざかるその背中を見送った。




