特別番外「雲外蒼天物語」
かつて、俺は長屋の狭い部屋で母と二人慎ましく暮らしていた。母は針子で呉服屋から仕事をもらって親子二人でなんとかギリギリ食べられるという生活。
物心ついた頃は幸せだった記憶がある。優しい母と共に裁縫をしたり、猫の蚤取りの仕事を任されたりしながら、勉強は大切だと寺子屋へ少しだけ通って読み書きを覚えた。
ある日を境に生活が一変。なぜなら母は男を作ったからだ。その男は俺が蚤取りの依頼主に猫を返して飴を貰って帰ってきたら、横になっていてゴロゴロしていて俺をひと睨み。それからの日々は、その男の顔色をうかがう生活で、機嫌が良いと遊んでくれるけど機嫌が悪いと殴られる。
男は米屋の奉公人だったので、昼間は不在だから天の原。しかし、帰宅すると追い出されるというか、母にやんわりと外へ出て行くように促される。今なら何をしていたとか、俺が無駄に殴られないようにしていたと理解出来る。
男は博打好きで酒飲みだから、働き手が増えても暮らしは楽にならないどころか貧しくなったし、寺子屋へ行くなら母親の針子仕事をしろということで勉強が出来なくなり、友人達とも遊べなくなってしまった。
そんなある日、男は俺と母にこう告げた。
「お前は戦場兵になって稼いでこい」
聞いたことのない単語だったので、俺は「はい」と答えたけれど母は怒った。男に対して怒ったところを見たことがなかったので驚きである。当然男は激昂。
彼が母の髪を引っ掴んで殴ったので、俺は止めようと暴れた。いつもは恐怖で体が固まっていたけどこの時は動いた。物を投げたり噛みついたり抵抗。
男は衝撃的な行動に出た。包丁を持って俺を切りつけたのだ。正確には切りつけようとした、だ。俺を庇った母の背中が切られて倒れたので、泣き叫んで体を揺すっていたら近所の人が集まってきた。その刹那、男は俺に包丁を握らせて母の胸を刺して絶叫。
「やめろ! なぜこんな事を!」
まるで俺が刺して母を助けようとした、というように男は俺の腕を持ち上げて包丁を壁に投げつけた。
目撃者もいたので、地区兵官に逮捕されたのは俺。男は口が上手くて日頃から俺が母を殴ったとか、盗みをしたとか、人を騙したとか、金を盗んだとか、自分に噛みついたなどなど、悪い噂を流していたらしい。
その夜も「飯が足りないと怒りだしたので説教をしようとしたら包丁を持ち出した」と息を呑むように嘘をついた。
季節は夏が終わったばかりで、死ぬ間際にうんと鳴こうとしているのか蝉がやたらうるさい夜で、俺は間もなく八歳になり、大人になる可能性がうんと上がる半元服というものを迎えて祝われる直前だった。
俺は知っている。外面が良い男を信じて好いて恋人となり、本性を知って別れたくなっても息子への暴力などで脅迫されて、母はあの男から逃げられなかったことを。
俺は知っている。たまに母の友人らしき女性が来て相談に乗ってくれていたことを。彼からどう逃げるかとか、お金を使い果たされて身動きが取れないような状況でも息子と二人でどこかへどうにか逃げようと、母はあれこれ計画していたことを。
だから俺は母のことは恨んでいないけど、男のことは一生忘れないし恨み続ける。何も持たなくなった俺には失うものは何もないのでいつか必ず、復讐する。絶対に許さない。
——約十年後——
兵官に二度と来るなよ、と言われて俺は監獄を出た。大きく伸びをして「ずっと監獄で良かったのに。困った」と苦笑い。八歳以上の者が人を殺すと死罪か奴隷奉公だが、俺は死罪を免れた。
兵官には福祉班というものが存在していて、日頃から浮浪児や悪ガキに目をつけて悪党にならないように気にかけてくれている。
俺の悪評を仕入れたものの、調査をしていたら素行に何の問題もない。むしろ怪しいのは母親の男。母のところに女性兵官がたまに来ていて、自分と息子のために恋人と別れるように促してくれていたそうだ。
母の相談に乗ってくれていたのは友人ではなくて女性兵官で、俺と母はあと一歩であの男から逃げられそうだったのに、あの事件が起きてしまったのである。
女性兵官は私服のことも多く、幼い俺は母を訪ねてくる女性は全て母の友人だと思っていたので女性兵官だったなんて知らず。
現行犯逮捕され、屯所へ連行されて、屯所の牢獄の中で悲しみで空っぽなのと、母を刺した生々しい感触で放心していて何も語らない俺に対して、地区兵官達は拷問などはしないで寄り添ってくれた。
ぼんやりし続けていると、ある日突然涙が出て、そこで兵官に事情を軽く話したら信じてくれた。しかし、男は死罪になるから口を割らなくて目撃者もいるので俺は無罪放免とはならず、投獄刑。
身寄りのない、身分証明書のない悪評のついた子どもが一人で生きていくのは難しいのもあるからだそうだ。俺は罪人として監獄に投獄されたけど、兵官達の聞き込み調査結果や書類など、俺にはよく分からないもので罪人の刺青は入れられず、仕事は他の者達と同じく見張り付きの力仕事や畑仕事だけではなくて、特別に監獄内の小間使いになった。さらには警兵や監獄担当の兵官達に最低限の教養だと読み書き計算だけではなくて、かなりの知識を与えてくれた。
今、俺の手元にあるのは僅かな金と紹介状と手紙が数通。それから三ヶ月で使えなくなる身分証明書だ。
六歳で母親を亡くして、同居していた母の恋人に家を追い出されて捨てられたので浮浪児になり地区兵官に保護された、ということにして生きなさいと言われている。
その後の偽経歴はこうだ。南西農村地区の農家預かりになり一般的に勤務可能になる一二歳までは所属農家や村に役人の簡単なお手伝い係で、一二歳からは奉公人として勤務開始。一二歳から一六歳元服までの勤労態度は最優良の最高評価。
紹介状はその偽経歴に合わせてあり、勤労態度は俺の約十年間の態度の結果、裁判官や担当役人が与えてくれた評価である。
本当の悪ガキだと罪人の刺青を入れられるし、大体監獄生活の態度が悪いので属国に飛ばされて奴隷奉公などになるという。
俺がこれからするべき事は勤務態度最優良の紹介状を上手く使って、やりたい仕事に就いて、これまでの理不尽な人生を取り戻すことらしい。
余程でなければ、他人は俺が監獄にいたことも、その理由が「母親殺害」であることも調べられない。その真相には辿り着けない。
真実は俺の手を使って、あの男が母を殺した訳だけど、それこそ誰にも証明出来ない。あの男が死罪を選んで自白しない限り。
(真の見返りは命に還る、か。それならあの男は死んでいるか?)
俺はどうやら世間とやらに同情されて保護されて、十六歳元服年には普通の平家男みたいに何とか暮らせる道が用意されたということは、世話になった兵官や役人達に説明されたのでしっかり理解している。
生々しい母の体を刺した感覚は昼夜問わずに俺の手を襲い、週に一度は血の海の悪夢を見るけど、冤罪で死罪や奴隷奉公になるよりはるかにマシな人生だ。
(ありがたい人生だけどしょうもない人生。監獄を追い出されたから知人がいないし家族もいない。あの男がのうのうと暮らしていたら腹が立つ。やっぱり復讐したくなる)
ここは南西農村区で、俺が生まれ育ったのは南三区。名前をジロからユミトに変えられたし、成長したので地元に戻っても「母親殺しだ」と後ろ指をさされて困ることはないだろう、と言われている。
母親が与えてくれた名前に戻したければ身分証明書が使えなくなってから「ジロ」と名乗って紹介状無しで自力で仕事を得ること。
奉公先で名乗った名前で身分証明されたらそれが俺の名前になる。世間はツテコネ社会らしいので、これだと得られる仕事の格がかなり悪くなるそうだ。
新しい名前のユミトは良縁が結ばれて実りがあって安堵する人生でありますうよに、という意味の漢字。名付け親は俺を担当した裁判官で、結実堵という魔除け漢字は彼と俺と今後俺が教える人しか知ることはない。
大切な人が出来たら教えるものらしいが、それならジロはどんな魔除け漢字だったのかとか気になるし、天涯孤独の前科者が、誰かの大切な人になれる気もしない。
かなり詳しく調べない限り、俺の過去は分からないから大丈夫、と言われたけど楽観視なんて出来ない。人生は何が起こるのか分からない、と俺はこの十八年間で身をもって学んだ。
(あの男を探して、のうのうと生きていたら母さんの仇を討ちたいけど、色々な人に助けられてここまで生きてきたしなぁ)
俺は一先ず、亡くなった母があの後どうなったのか知りたいので地元に帰る予定。周りに聞いたけど、監獄へ移動後に何ヶ月も経ってから気になったので教えてもらいたくなった時には、俺の周りには情報を持っている人がいなかった。
母が無縁仏として神社に葬られているのか、地域の合同墓に葬られたのか分からないが、そこに花くらい添えたい。母は花が好きだったから。
監獄でお世話になった兵官達のツテコネで紹介された働き口は、監獄から遠くない小さな街や村などにいくつかある。墓があるなら墓参りをして戻ってきて、働き口を選んでどうにか生きていく。
復讐をするなら、今手にしている幸運が全て失われた時だ。再び何もかもを失ったら、その時はどんな手を使ってでもあの男を探し出して、生きていたらこの手で殺す。死んでいたら川か海に沈もう。
近くの村へ行って、小街へ行くような仕事がないか探して、荷運びの日雇い仕事を得て小街へ移動。そこで今度は南三区へ行く仕事がないか探して、同じ荷運びの日雇い仕事を得て南三区へ。
力仕事が出来ると困らない、と監獄の兵官達に鍛錬をさせられた結果がこれ。正直疲れた後に鍛錬なんて嫌だったけど素直に励んで良かった。
態度が悪い奴は逆に鍛錬禁止だった。理由は教わっていないけど監獄を出た後に悪さをするからだろう。農作物を市場へ運べば、今日の俺の仕事は終わりだ。
(市場って楽しいな。世の中にはこんなに食べ物があるのか)
包丁を持つと震えたり吐いたりする俺は炊事班にはなれず。監獄を出た後に料理人になれる可能性があるからと優先配属してくれたけど無理だった。
(金はあるし何か食ってみようかな。金無しになるのが怖くて監獄を出てからずっと食ってねぇ。四日経つから少しくらいええよな)
露店を見て回りながら、どれならその場で食べられて腹が満たされるのか店主に値段とともに質問。軽く雑談を繰り返していたら、やたら話してくる夫婦がいて、安い飯屋でしっかり食えと言われた。
都会に憧れて農家を飛び出して上京してきた青年。そんな風には話していないのに、それが彼等から見た俺らしい。勝手にそうなってびっくりしたが、これは使えるのでそういう事にして生きていこう。
(安い飯屋。……うおっ)
視界がぐらぐらしたのでしゃがんだ。食べな過ぎたようだ。監獄では満腹はなくても一日三食与えられていたのでこのようになった事はない。母に男が出来た後はちょこちょこあった。
母も痩せていったので、俺だけ飯抜きだった訳ではないことは理解している。酒と博打に金が消えていっただけだ。だから俺は、酒も博打もしたくないと思っている。
「大丈夫ですか?」
視界が真っ暗で何も見えない。女性の声だけが耳に飛び込んできた。目元を押さえて瞬きを繰り返していると、だんだん視界が黒から元に戻たので顔を上げる。眼前に綺麗で若い女性の顔があって見惚れた。
監獄を出て、約十年振りに近くで女達を見た時も衝撃的でかわいい生き物がいると思ったけど、そのかわゆい生き物の中でも更にかわゆい、しかも若い女が目の前にいる。
猫みたいな顔立ちで全体的に優しげ。俺と違って肌が白くてすべすべしてそうだし、声も男と違ったし、キラキラした黒い髪は肩よりも長くて風にさららと揺れている。
「具合が悪いんですか?」
ぐうーっ!
俺の腹の虫が盛大な音を立てた。女性の大きな目がさらに大きくなる。
「おむすび食べますか?」
おむすびとはなんだろう。彼女は斜めがけの鞄から箱を出した。蓋を開けるとそこには三色の握り飯。それから魚の切り身とたくあんに葉物の何か。
魚の切り身があるのは豪華だと思うけど小さい。握り飯は白米ではなくて混ぜ物ご飯。混ぜ物ご飯がなぜ茶色っぽいのと緑なのと紫なのか不明。質素なようでそうでもなし美しい色や配置の食事で喉が鳴った。
「っ痛」
「道の真ん中で邪魔だ!」
俺に親切にしてくれた女性が中年男性に蹴飛ばされてしまった。俺に差し出されていた箱が彼女の手から落下。俺は思わず立ち上がった。またよろめいたけど両足を踏ん張る。
「待てよお前! わざわざ蹴るなんてどういう事だ! 邪魔なら避ければええだろう!」
どうしてこんなに腹が立つのか分からない。そう思ったけどあの男とコイツが重なったからだと感じた。
理不尽に暴力を振るう奴は大嫌いだ。体が成長したから余計にそう思う。見ず知らずの他人なのに俺に優しく手を差し伸べてくれた若い女性はどうみても小さくて華奢。そういう人に暴力なんて反吐が出る。
「はあ? 難癖つけるなよ。単にぶつかっただけだ」
「それならそれで手を貸すとかあるだろう! 謝れよ! 人ならそれが礼儀だ! 人でなしで犬以下だな!」
つい、監獄の兵官達が態度の悪い者達に告げる言葉が口から飛び出した。
「はあ⁈ やるのかテメェ!」
イライラするから相手に殴りかかろうとしたけどやめた。俺は少しでもマシな人生になるように願われて何人もの兵官達や役人達に厳しくも優しくされた。ここで喧嘩をするのは恩を仇で返すようなものだ。
『これから先。困ったら、辛かったらここまでどうにかして来い。代わりに絶対に悪さをするな。そうしたら絶対に助けるから。死なない限り、ここか地区本部にいるから変なことをするくらいなら必ず頼れ』
十年以上前にお世話になった若い兵官の言葉が蘇ったので、俺は拳を作った手をゆっくり、ゆっくりと開いた。監獄の兵官達にも他の人達よりも素行に気をつけるようにと言われて育っている。
俺の身分証明書を見たら、しっかり働いている兵官だと監獄出だと分かるので、偏見を持って対応されることがあるそうだ。
俺には一生、監獄出という身分証明書がついてまわる。それを捨てたら身寄り無しで職なしの不審者だからもっと扱いが悪くなるし、不審がられて辿られたら監獄出の身分証明書に逆戻り。その時には身分を偽ったという悪い内容が追加されるとか。
殴られても殴り返してはいけない。殴られそうになれば避けるか、上手いこと殴られても兵官に突き出す。そういうことが俺の今後の世渡りだと教わっている。
なので、怒り顔の中年男性に背中を向けて女性の方を向いてしゃがんだ。彼女はたくあんを拾って箱に戻している。背中に「ははっ、軟弱かよ」という笑い声がぶつかったけど無視して拳を握って歯を食いしばった。
「すみません。俺のせいです。痛かったですよね」
「だい——……」
ぐうーっ!
俺の腹の虫がまた盛大な音を鳴らした。多分「大丈夫です」と言おうとした女性は肩を揺らして笑っている。
(……うおっ。なんだこれ。胸が痛い!)
胸の中を握りしめられたみたいになり俺は息を止めた。あと急に暑い気がする。
「地面に落ちなかったおむすびをどうぞ」
「……あの。この握り飯がおむすびですか?」
俺は箱の蓋の方に乗った土のついた緑色の何かが混ぜてある三角形の握り飯を掴んで口に運んだ。捨てられてしまうのだから俺が食べた方が良い。土が多少じゃりじゃりするけど美味い。
「あっ!」
「美味いです。ありがとうございます」
少ししょっぱいのは塩味だからだろう。名前の分からない葉物の味もする。
「洗って食べようと思っていたのに。お腹を壊しますよ」
「美味いから腹を壊してもええです」
「こっちを食べて下さい」
落ちた食べ物が乗った蓋を少し遠ざけられて、箱の方を差し出されたけど、俺は蓋の方に手を伸ばした。紫色の握り飯を掴んで口に運ぶ。
「ああっ! ダメです!」
「美味いです」
多分シソの味だなこれは。シソの葉っぱを刻んで握り飯に混ぜるとこうなるのか?
シソなのに色が緑ではないのは謎だ。
「レイさん。居なくなったと思って心配した。どうしました?」
「良かったわレイさん。近くにいて見つかって」
声の方向に顔を向けると眉毛が濃くてもみあげも濃い壮年が近寄ってきた。それから白髪混じりの金持ちそうな着物の女性も一緒だ。
「具合が悪い方がいました。お腹がうんと鳴ったので腹減りもです」
「そうだったのですか」
「君、顔色が悪いな。大丈夫か?」
「いえ、あの。その。節約と思って四日間食べていなかった——……。いてて。痛っ」
急に痛くなってきて俺は腹を抱えた。痛い。痛い、痛い、痛い!
昔、家を追い出されて腹が減っていて拾い食いやゴミ漁りをしてもこんなに急に腹が痛くなった事はない。俺はノブとミトという男性達の肩を借りて薬師所へ行こうと運ばれることになった。




