34 父の転落
ラミリオはその日、全員が寝静まってから、慎重に誰にも悟られないよう、何通かの密書をしたためた。
宛先はイルミナティ国王とライ国王、それに銀行本部だ。
アントニオ公子が娘の資産を狙い、貸金庫の証書を持ち逃げしたこと。彼はルクレツィアに長年辛く当たっており、娘に愛想を尽かされたことなどをまとめて書いた。
そして、万が一ルクレツィアの宝石一式を取り戻すのに協力してもらえたら、相応の謝礼を払うと添えた。
――まあ、これで戻ってくるほど甘い世の中ではないが。
宝石を取り戻すことが手紙の主題ではない。
アントニオ公子の身柄に、人質としての価値がないことを知らしめるのが目的だ。
いかに貴族といえども、身代金を払ってもらえない者の末路は悲惨である。
ラミリオは、これで厄介払いができればいいがと考えつつ、あちこちに密書を放った。
***
アントニオ公子の行方は杳として知れない。
ラミリオはしばらく形だけ都会などで捜索をさせていたが、そのうち打ち切った。
そうしているうちに、ライ国軍がイルミナティの王都に入り、街を占拠したというニュースが流れてきた。
「お父様、ご無事かしら……」
「無事だったとしても、もう戻ってはこないだろうね。一生遊べる金を手にしたんだから」
父は寂しがってローザやルクレツィアの顔を見にくるような男ではない。そのことは、彼女にも分かっていた。
「結婚の承諾、結局いただけませんでしたわね」
「必要ないだろう? 俺は君を愛しているんだから」
ルクレツィアは満面の笑みで、「はい」と答えた。
***
――もうすぐだ。もうすぐ私は億万長者になれる。
アントニオ公子はラミリオの追っ手をかわしきり、祖国イルミナティの国境に帰り着いた。
一度ここまでたどり着いてしまえば、あとは庭のようなもの。
イルミナティとライの戦争は日に日に悪化しており、国軍が王都に迫っているという噂も聞く。間一髪国境を渡れたのは幸運だった。
――宝石を手に入れたら、ライとの戦争が終わるまで、外国で暮らそう。
公子はのん気にそう考えながら、二日後には無事に王都にたどり着いた。
王都の検問をすり抜け、裏ルートで入った瞬間に、街の異様な雰囲気に気がついた。
通りに人の気配がないのだ。代わりに我が物顔で道路を闊歩しているのは、馬やラクダの兵士たち。
店はほとんど閉まっているが、飲食店には昼から酒を飲んでいる兵士たちの姿があちこちにみられる。
公子は間に合わなかったのだ。
王都はすっかりライ国軍に占領されていた。
――まずいことになった。
万が一怪しまれて身分を問われたら、まずいことになる。貴族だと判明すれば、確実に逃がしてはもらえない。
緊張しつつ、銀行を目指す。
はたしてそこは、通常通りに営業しているように見えた。
――大丈夫そうか?
敵国に攻め入って、略奪を行わない国はない。
ライもまた、銀行に攻め入った後だろうと、いつものアントニオ公子ならば判断できていただろう。
しかし彼は、後がないという気持ちから、とにかく焦っていた。
――試しに入ってみるか。
さりげなく通り抜けようとしたら、両脇にいた衛兵が動いた。
「おい! 何をしている!」
「ここに私の貴重品を預けているのだが」
「この銀行は軍が差し押さえた。貴様らのものなど何もありはしない!」
アントニオ公子はすぐに退くべきだったが、この奥に一億があると思うと、一瞬、ためらう気持ちが生まれた。
そのとき、ちょうど建物から、人が出てきた。
若い男性だった。黒髪に黒目で、ひと目でライ国人と分かるターバンを巻いている。
彼は、はっきりとこちらの姿を認めた。視線が絡み合い、彼の顔に緊張が走る。
外国語の鋭い声が飛んできて、衛兵の注意が全員アントニオに向いた。
本能的に危険を感じたアントニオが走り出すと、後ろから怒鳴り声が聞こえた。
何を言っているのかは分からないまでも、危険だということは十分に感じ取れた。
アントニオは逃げ回りながら、あと少しでうまく行ったのに、という思いでいっぱいだった。
――まさか、こんな末端に私を知る者がいたとは。
路地裏に入ったところで大きな罵声を食らい、後ろからひどく殴られる。
そこにもライの兵士が待ち構えていたのだ。
抵抗は無意味だった。アントニオは奴隷のように意味もなく小突かれる屈辱を味わった。
――私は捕まるのか?
貴族が捕虜として尊重されるのは、身代金が出るからだ。もしもアントニオ公子にそこまでの資産がないことが知れたら、きっとゴミ同然の扱いを受ける。
アントニオは必死に、逃れる方法は、と頭を巡らせた。後生大事に抱えている証書が紙くずほどの価値も持たないのなら、何か別のものを差し出すしかない。
彼に身代金を払ってくれそうなのは、娘のルクレツィアくらいだ。
「ま……待て! 見逃してくれ! もしも自由にしてくれたら、あとで相応の謝礼を払う!」
彼は必死に喚いたが、ライの兵士は自国語で何かを言っただけで、無視した。
「どこかにイルミナティの言葉が分かる者はいないのか!? 私は大貴族だぞ! 王族の血も受け継いでいる! 誰か!」
喚くアントニオを、ライの兵士が思い思いに囃し立てる。頭がどうにかしたのだろうか、というようなニュアンスは、言葉が違えども伝わってきた。
だから、連行先が王城だと知ったときは、助かるかもしれないと思って気分が浮上したのだ。
――そうだ、私は王族だぞ。こんなところで犬死にさせられてたまるか。
粗暴なライの兵士に取り囲まれながら、必死に怒りを抑え込む。何十年も生きてきて、床に座らされる屈辱を受けたのはこれが初めてだ。
やがて銀行で鉢合わせをした青年がやってきた。
「元セラヴァッレ公爵、現アントニオ公子とお見受けした」
青年が滑らかなイルミナティの言葉を話し、椅子を薦めてきたので、アントニオは、これで助かったと本気で思った。
「いや、私の部下が申し訳ない。ずいぶん手荒なこともしてしまったようだ」
「いや。何かの間違いだったのだろう。ところで、君は?」
彼はちょっと目を丸くした。
「……ははは! まさか、私を顔を覚えてないとはね! 親子でなんて面白いんだ!」
けたたましく笑い飛ばす青年に、アントニオは、自分が決定的にまずいことをしたと直感した。
――今、親子で、と、言ったか?
彼の娘がライの皇太子に無礼を働き、大問題になったことは記憶に新しい。
記憶が連鎖的に繋がり、アントニオは、目の前の青年に覚えていたかすかな既視感の正体を見出した。
「……もしや、君は、ライシュ皇太子……」
「思い出していただけましたか。あなたとは、娘のルクレツィアと一緒に何度も会食をしましたね。五度や十度ではきかない回数、宮廷で顔を合わせているはずだ」
彼は異国情緒あふれる面差しに、皮肉げな笑みを浮かべた。
「もっとも、ライ国程度の皇太子など、イルミナティの王族にとっては記憶するに値しなかったようだが」
「も……申し訳ない……! ショックで気が動転していたんだ……! 君のことを忘れるはずがないだろう!?」
「へえ。では、ゆっくりでいいからもうひとつ思い出してもらいたいことがある。ゆっくりでいいが……大事なことなので、間違えないでもらいたい」
わずかに瞳が細められ、アントニオが受けるプレッシャーが増大した。
「ルクレツィアから奪い取った貸金庫の証書はどこにある?」
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