後編
そろそろと目を開けるとそこは、いつも仕事をしている自分のアトリエの、自分の機の前……でした。
疲れてうっかり眠り込み、夢でも見ていたのだろうか、と、機織りはぼんやり思いました。
眉間を強く揉みながらもう一度まぶたを閉じ、ため息をつきました。
と。
不意に人の気配がしました。
機織りはハッと顔を上げ、そちらを見ました。
少し離れたところに背の高い青年がいて、ゆっくりと近付いてきます。
弟子の誰かが、心配して様子を見に来たのかとも思いましたが、何故か目にかすみがかかったようで、はっきり見えません。
機織りは一生懸命目をすがめ、青年が誰なのか確かめようとしますが、わかりません。
「もう遅いよ。根を詰めすぎると身体を壊す」
かすむ視界の中で青年は、一度ためらうように下を向いた後、おずおずとそう言いました。
懐かしさに、機織りは思わず息を呑みました。
ためらうような仕草。遠慮がちに気遣う言葉をかける、優しい声。
天蚕農家の跡取り息子だったあの人の、若い頃と同じです。
青年は意を決したように、ずんずんと近付いてきます。
迷いを断った足取りは、常に自信に満ちあふれていたあのデザイナーの彼に似ています。
青年はすぐそばまで来ると、機の前に座っている機織りの、少し乱れた白髪頭を大事そうに、それこそ宝物に触れるようかのように撫ぜました。
遠い日の、父や祖父のように。
「もう十分、いや十分以上だ。これ以上、君は機を織らなくてもいいんだよ……愛しい人」
ドラマや映画で見た二枚目俳優のように、彼は甘くささやきます。
驚いて見上げる彼女のかすみがかかった視界の中、何故かはっきりと、彼の瞳が輝いているのがわかりました。
『アラクネの系譜に連なる娘を見付けた』とはしゃいでいた、あの日のデザイナーの瞳と同じ、真っ直ぐなきらめきです。
有無を言わせない強引さで、青年は突然、機織りを抱き寄せます。
外国映画に出てくる、情熱的なヒーローのように。
「愛しい人。一緒に行こう。……さあ」
「……いや!」
渾身の力で機織りは、青年の腕を振り払いました。
茫々とかすむ視界の中に、ちょっと困ったように眉を寄せ、小首をかしげている彼の姿がありました。
「いや。やめて。そんな……気持ち悪いわよ!」
吐き捨てるような機織りの言葉に、彼の姿はますますかすみの向こうへ遠ざかります。
「そんな……そんな、都合のいい、寄せ集めみたいな、人!わ、私が欲しいのは……」
ちゃんと、人間で。
強くて優しくて。
包み込むように愛してくれて。
私のことを大事にしてくれるけど、自分は自分でやりたい事を持っていて……私の機織りの、邪魔をしない人。
思いながら彼女は、無意識のうちに手を動かしていました。
経糸の間へ杼を滑らせ、緯糸を渡します。
もう数えきれないくらい、今まで彼女が生きてきた日数以上に繰り返してきた、呼吸のように慣れた動作です。
とんからり、とんからり、とんからり、とんとん。
とんからり、とんからり、とんからり、とんとんとん……。
世界にその名を知られた織匠のアトリエ。
いつも通り遅くまで仕事をしていた彼女はその夜更け、不意に機の音を止めました。
何よりも親しかった愛用の機の前で、彼女は永遠の眠りについたのです。
「……やれやれ」
どこからともなく現れた死神の娘が、床に落ちた食べかけのリンゴを拾います。
「だから私は言ったじゃないか。あんたは幸せだって」
どこか物憂い口調でそう言うと、彼女はてのひらの中でリンゴを握りつぶします。
リンゴは音もなく砕け、闇に溶けてゆきました。
そしていつの間にか、娘の姿も闇の中に消えていました。




