前編
あるところに、素晴らしい機織りがいました。
彼女の織る布は夢のように美しく、天女の羽衣かと思うほど軽くしなやかでした。
評判が評判を呼び、織り上がるのを待ちわびる富豪の夫人や娘たちが、機から外されたと同時に買いあげるようになりました。
あまりに希少になってしまったからか、その布を花嫁衣裳に仕立てて結婚式に臨めば幸せになれるなどと、いつしかささやかれるようになっていました。
そうなると、多少無理をしてでも娘や恋人の為に反物を手に入れようとする男も現れます。
反物は『幻の綺羅』と呼ばれるようになり、馬鹿みたいに値段が上がってゆきました。
寒村の機織り小屋はまたたくうちに目を見張る立派な建物になり、アトリエとか工房とか呼ばれるようになりました。
弟子入り希望の若い織り手が次から次へと現れ、村に居付くようになりました。
蚕を育てる農家、糸を紡いだり染色したりする工房も軒を連ねるようになります。
そうなると、お金の絡む難しい問題も次々出てくるので優秀な経理員が雇われ、山のようにある依頼や仕事の調整をする秘書も雇われるようになりました。
富も名声も厄介事も、勝手に機織りの許へと集まってきます。
でも本当を言うと、機織りにとってはそのすべてがどうでもいいことでした。
ただ機を織るのが好きで、そして機を織るしか能のないつまらない女だと、彼女は自分で自分のことを思っていました。
美しい布を織ることだけを考え、それ以外のことは出来るだけ他人に任せて、彼女は生きることにしました。
そうでなければ、うんざりするほど押し寄せる注文をさばくことなど、とても出来ませんでしたから。
とんからり、とんからり、とんからり、とんとん。
とんからり、とんからり、とんからり、とんとんとん。
来る日も来る日も彼女は、ただただ自分の織る綺羅とだけ向き合って生きました。
夫を持つことも子を持つこともないまま、いつしか彼女は、すっかり年老いていました。
だからその日も、彼女は機を織っていました。
この模様がもう少し切りのつくまで……と思い、一心に手を動かしているうちに、とっぷりと夜が更けていました。
さすがに疲れた、と彼女は手を止め、眼鏡を取って眉間を強く押さえます。
最近、鈍い頭痛が取れなくなりました。
「さすがに歳を取ったのねえ」
何気なくつぶやいた言葉へ
「そういうことだよ、あんた」
と、横柄な声が答えました。
機織りは驚き、声がした方へ顔を向けます。
そこには、闇を思わせる黒髪を無造作に長く伸ばした、羽二重で仕立てたらしい真白の着物に真白の帯をきちんと締めた、ぞっとするほど美しい娘がいました。
まるで、百年前からずっとそこにいたかのように。
娘は、紅を引いたように赤い唇でにぃっと笑って、こう言いました。
「迎えに来たよ。『幻の綺羅』を織れる、織匠の大先生」
機織りの心臓が大きくひとつ、ごとりと鳴りました。
ああ、ついにこの日が来たのだと、胸で泣き笑いしながら思います。
が、機織りはすでに老婆、遠からぬうちにこの日が来る覚悟くらい、心ひそかにしていました。
せめて今織っている布を仕上げたかったと思いましたが、この世ならぬ者のお迎えに対して人間が何も出来ないことくらい、年の功で理解しています。
息を調えてゆっくり立ち上がると彼女は、散らばっている道具を丁寧に片付け始めました。
「おいおい」
あきれたように呼びかける白い着物の娘へ、機織りは、片付けの手を止めました。
あきれた顔をしているのに冴え冴えとした美しさを保っている娘は、やはりこの世の者ではないのだと頭の隅で思いつつ、機織りは首を傾げます。
「あの……何か?」
「何かじゃないよ、あんた」
やや芝居がかった調子で娘は、大きくため息をついてみせます。
「ひょっとしてわかってないのかい?あんた、今すぐ死ぬんだよ?いつかは死ぬってわかっていても、突然鼻先に自分の死をつきつけられたら、もっとじたばたするのが人間ってものだろう?」
「……はあ」
言われてみればそうかもしれないと機織りは思いましたが、だからと言ってじたばたする気にはなれません。
「そうかもしれませんけど。でも、じたばたする気になれないんです」
ちょっと申し訳なさそうに彼女は言いました。
「それに、死ぬのを待ってくれと言って、あなたは待って下さいますか?」
娘は再び、にぃっと笑います。
あまり機嫌のいい笑みではありません。
「まあ、確かに待たないねえ」
娘は腕を組み、目をすがめて機織りを眺めました。
「ふん。さすがですねえ、大先生。いつお迎えが来てもうろたえないよう、心掛けていらっしゃった、と。他人様に幸せを与えるお方は、やっぱり普通の者とは違うということなのかねえ」
馬鹿にしたように鼻を鳴らし、娘――いえ、死をもたらす『お迎え』なのですから死神と呼ぶべきかもしれません――は、言います。
その途端、機織りの心の隅が鋭く痛みました。
痛みはあっという間に全身へ広がり、彼女は、声にならない悲鳴を上げました。
死神の娘は続けます。
「あんたの織る布で花嫁衣裳を仕立てて結婚式をあげたら、一生幸せに暮らせるそうじゃないか、まあただの噂だけどさ。噂が噂を呼んだお陰で、今のあんたの地位やら名声やらが出来上がり、好きな機織りさえしてればすべて上手くいくようになった。……幸せな話じゃないか。そりゃあこの世に何の未練もないくらい、幸せで満たされた人生だったろうさ」
「……幸せ、なんかじゃない」
故の知らぬ痛みに食いしばっていた歯の間から、機織りは言葉をしぼり出します。
「幸せなんかじゃなかった、私は!」
人生で初めてかもしれない熱い思いが、彼女の心と身体をゆさぶります。
心の奥底へ、ずうっとずうっと押し込めていた思いが弾けたのです。
「私は確かに恵まれていたけど、幸せなんかじゃなかった!機織りでない私を誰も見ない、機織り以外の私を誰も認めない、そんな人生のどこが幸せなの!」




