第二十五話 壁
無理をするな、とエマたちに念を押された翌朝、俺は迷宮城の広場にいた。
日課にしている狩りを始める時間よりも、少し早い。明けようとしている空はまだ薄暗く、布鎧と鋲皮鎧を着込んだ身体に冷たい風が心地良い。職人街も、商店街も、まだ店を開いていない払暁である。
(さて、お目当ての人物は――)
暗視の指輪のおかげで、顔を出し始めたばかりの炎帝の弱い光でも、人の顔は楽に見分けられる。
(お、いた)
探していた人物を見つけ、早歩きに近づく。上半身裸の浅黒い肌、引き締まった筋肉。髭は剃っているが、髪型は少し無精でぼさっとしている、エマと同じようなショートボブの、意外と細身な男性。
第一印象は、身体つきだけは引き締まった、冴えない中年男性だった。目尻や、鼻筋に寄った皺が、くたびれたような印象を与える。
彼の身体能力に耐えうる装備がなくなり、兜をかぶらなくなってからも、あの髪型は続けているらしい。ことさらに実力を誇示しているわけでもないのに、マイペースでぼちぼちと歩いているだけで、妙に人目を引いている。
それは、彼の知名度を表していた。外見に、人を惹きつけるものは何もない。
迷宮に赴くにあたっての彼の装備は、紐で背中にくくりつけた、鞘に入った長刀だけである。
「すみません、少しお時間よろしいですか?」
「ん?」
俺の方へと振り向く、老いの線が顔に増え始めた中年の男性。『開拓者』、ボーヴォ氏である。
「ええと、知人がボーヴォ氏の住んでいる場所を教えて欲しいと言っているのです。教えても構いませんか?」
「俺が人付き合いが嫌いなことは知っているだろう?」
にべもない返答である。確かに、この人は徒党も組まず、ただ一人で黙々と迷宮に潜る。その実力からか、様々な商談や誘い、吟遊詩人の取材などが申し込まれているが、そのほぼすべてを拒絶しているという話だ。
「存じています。それでも、知人はあなたに話を聞いてもらいたいそうで」
「ならば自分で来いと言っておけ。それが最低限の礼儀であろう。もっとも、来たところで俺が取り合うとは思えんが」
ここまでは予想通りである。彼の持つ、強大な力の恩恵に預かろうとして群がる人間には辟易しているはずだ。
「それが、直接お会いできない理由がありまして。こいつなんですが」
手早く、俺は血の紋章を起動させて、ボーヴォ氏に見せ付けた。これで興味を惹かなければ、後はお手上げである。
「始祖吸血鬼――? お前、加護持ちか」
「はい。申し訳ないですが、私自身は平穏に冒険者をやりたいので、加護については声を抑えて頂けると助かります。街の外、森をいくつも越えたところに、始祖吸血鬼は住んでいます。正直、あなたにどんな用があるのかわかりませんが、あなたと話がしたいらしく」
俺の目論見は成功したらしく、血の紋章に表示された文字を眺めつつ、彼はふむ、と頷いた。
「わかった。闇と光の日、週末の二日間だけ俺は冒険を休んでいる。その日に連絡をくれれば会うなり喋るなりしよう。場所は知っているか? 高級住宅街の隅にあるのだが」
「存じています」
知らない人はこの街ではいないだろう。富裕層の住居として開拓された、小高い丘に瀟洒な建物が並ぶ高級住宅街。施設の整備に莫大な先行投資をかけて作られたその区画は、住む土地を買うために、桁を疑うほどの金銭が必要だ。
ボーヴォ氏は、その区画の中でも、隅の方に広大な土地を所有し、専用の炉や工房までを自前で所持している大富豪でもある。
「ならばいい。連絡はどうやって取るつもりだ? その吸血鬼は、街には入れぬのだろう?」
「聞いていませんでした。使い魔は自由にこの街に来れるようなので、それを使うのか、それとも私が念話の指輪を持って伺うことになるのか。ともかく、そいつに話はしておきます」
「わかった。話は以上か?」
「ええ。時間を割いて頂きまして、ありがとうございます」
のそのそと迷宮に向かっていく『開拓者』ボーヴォ氏の後姿を見送って、俺は安堵のため息をついた。堅苦しい話し方というのは、どうも肩が凝っていけない。
ともかくこれで、ボーヴォ氏に無断でチェルージュが住まいに突撃するという不義理はせずに済む。俺の瞳を通して情報を得ている以上、チェルージュも彼の住まいは元から知っているはずなので、そのあたりはチェルージュが彼に気を使っているという証左でもあった。
要は、自分のことを彼に売り込んでおけ、という依頼なのである。
まあ、俺の仕事はこれで終了であった。チェルージュからのもう一つの要望、隷属の首輪に関しては、もう話が済んでいた。冒険者ギルドと魔法ギルドの連名で発行される取り扱い許可証を持っていない人間には、隷属の首輪も衛兵の腕輪も売れないとのことだったが、ギルドで見本を見せてもらいつつ、職員に話を聞くことはできたので、どういう原理で魔術印を刻んでいるのかを説明してもらい、チェルージュは満足したようだ。
一仕事終わって晴ればれとした気分になったところで、俺も迷宮に潜ろう。
背嚢を背負いなおし、歩き始めようとしたところで、背中から声をかけられた。
「はっ。『アウェイクム』の次は『開拓者』に取り入るのか?」
刺々しい言葉である。声のする方を見ると、先日、ダグラスの護衛依頼で面識を得た、エディアルド少年が、二人の男を連れて立っていた。
「エヴィの弟か。何か用か?」
「とぼけてんじゃねえよ。また有名どころに媚び売って甘い汁吸おうとしてるんだろう? 汚ねえ奴だ。『開拓者』に尻尾振って何を企んでるんだ、言ってみろよ、え?」
反論するのは容易だったが、それ以上に、エディアルド少年の脇にいる二人の男に意識を奪われた。大ムカデを狩った初陣の日、俺に甲殻の剥ぎ取り方を教えてくれた、今では飲み友達である――キリヒトなのだ。
何か俺に伝えたいことがあるらしく、連れの男たちに見えない方の目で盛んに目配せを繰り返している。
「初めて見る顔だな、こいつは何をしたんだ?」
「それがよ、テン。俺の兄貴がこの前死んだ話はしただろ? そのときの、討伐団の数少ない生き残りなんだ、こいつ。『アウェイクム』の連中と結託して、俺の兄貴や他の連中を殺して、賊の賞金を独り占めにしやがったんだ」
テン、と呼ばれたのは、キリヒトである。そして、俺のことを初対面であるかのように言ったのも、キリヒトだ。
(そういうことにしておけばいいのか?)
目線でそう伝えると、他の二人にはバレないように小刻みに頷くキリヒトである。
「思い込むのは頭の中だけにしとけよ、少年。賊を討伐したのは俺の功績だと、『アウェイクム』も認めてるんだぜ? ダグラスの護衛任務のときも感じたが、お前は敵を作りすぎだ」
「ガキ扱いすんじゃねえよ、乞食野郎! 『アウェイクム』がなんだってんだ、『竜の息吹』の十分の一もギルドメンバーがいない弱小の癖しやがって。赤ネーム専門対人ギルドなんて謳っちゃいるが、兄貴を殺した詐欺集団じゃねえか。そんなところの後ろ盾を得たぐらいでいい気になってんじゃねえぞ?」
「『アウェイクム』の連中に後ろ盾になってもらった覚えはないが、お前こそ増長してないか? エヴィには世話になった恩もあるし、弟のお前に、一度だけ心から忠告してやる。だれかれ構わず噛み付くのをやめろ。お前の所属ギルドの評判が落ちる上に、純粋に損だ。普通に接してればお前の利益になったであろう人の繋がりを、お前は自分で潰しすぎている。敵を作りすぎだ」
「はっ、今度は上から目線でお説教か? 頭の目出度い奴だ。お前こそ、『竜の息吹』を敵に回してこの街でやっていけると思うなよ? 俺ら三人だけじゃない、総勢三百人はいるんだ」
なるほど、テンと呼ばれたキリヒトも、ギルド「竜の息吹」に所属しているというわけだ。エディアルド少年でもキリヒトでもない、連れのもう一人の男は、ふんぞり返りつつも、どこか気弱そうな小太りの男である。
「だけどよ、エディ。ちょっと、やばくないか? 『アウェイクム』って言ったら、誰でも知ってる武闘派だぜ?」
「だから何だよ、お前ビビってんのか? まあ見てろよ、この乞食野郎を徹底的にこの街から締め出してやる。俺たちの息のかかった冒険者は多いんだ、今後、普通にパーティなんか組めると思うなよ?」
広場の石畳にぺっと唾を吐き捨て、エディアルド少年たち三人は意気揚々と帰っていった。人もまばらな早朝とはいえ、広場にはそれなりの数の冒険者がいて、俺たちのやり取りは注目の的になっていた。
後ろめたいことは何もないが、突き刺さる視線は気持ちのいいものではない。
俺は、改めて背嚢を担ぎなおし、迷宮へと足を進めるべく、広場を後にした。
(しばらくは、一人での狩り生活が続くかもなあ)
正直なところ、エディアルド少年のような問題児の言うことを、彼の所属ギルドがどこまで受け入れるかは不明だが、そこまで規律のいい集団だとは思えなかった。よってパーティ募集の集会場に俺が行った際、彼らから何らかの妨害を受ける可能性がある。一人で狩りを続けることになるかもしれない覚悟はしておいた方がいいかもしれない。
もう一つの懸念、なぜキリヒトが偽名を使ってまで彼と同じギルドに所属しているのか?
『ジルさんも、気をつけてください。キリヒトは、色々後ろ暗い商売もやっていますから』
ディノ青年が、酒の席で俺に教えてくれたことである。とはいえ、俺に必死に目配せしていたキリヒトの様子を見るに、俺に害意があるとは感じられなかったので、これについては、何も考えないことにした。
十日ほど経った、ある朝のことである。大部屋の片隅、俺のベッドの脇に寄せてある装備品の山から、俺は一着の装備を引っ張りだしていた。鱗にも似た、鈍い銀色の光沢を持つ、銀蛇の皮鎧である。
銀蛇は、ランク2の中層を通り越して、ランク3、深層と呼ばれている場所に出没する、凶悪な魔物である。
素早い移動速度と、強靭な皮膚による防御力、蛇特有の生命力の強さ、そして何よりも、致死性の極めて高い、猛毒。安物の解毒薬では、治癒はおろか、効果を軽減することすらできないその毒は、ものの一分で人間を絶命させるほどである。
その、ベテラン冒険者でも忌避するほどの、上位の魔物、銀蛇の皮革で作られた皮鎧が、手元にある。「赤の盗賊団」のウキョウとフィンクスが着用していたものだ。彼らの装備で、売ったのは武器だけである。
柔軟かつ弾力に富み、それでいて並の刃物などでは傷を付けることすら難しい銀蛇で作った皮鎧は、得られる防御力を考えると驚くほど軽く、金属を使用していないためマナ回復を妨害しないこということもあり、魔術師にとっての垂涎の品となっている。もちろん、俺にとっては、超がつくほどの高級品だ。
俺は、それに袖を通す。
今までは、着用は控えていた。分不相応な装備は、身を滅ぼす。しかし、今日狩る獲物には、万全を期したかった。
大部屋の隅に積んだ装備類の中で埋もれていた、銀蛇の皮鎧は、布鎧の上から袖を通したにも関わらず、伸縮性が高くて、ぴっちりと肌に張り付くような感触だった。
試しに、握りこぶしで胸元をどんどんと叩いてみる。かなり力を入れたにも関わらず、ほとんど感覚がなかった。衝撃がすべて、弾力のある皮革に吸収されてしまっているのだ。これで、刃物にも強いのだという。
銀蛇の皮鎧ともなると、修繕費用もただではない。仮にどこかが破れてしまったとして、余り布を当てて縫い直すだけでも、同じ銀蛇の素材と、その皮革に穴を通せるだけの特殊な針、そして高い技量が必要だ。仕立屋サフランの女将に相談したところ、一箇所、小さな穴を修復するだけで10,000ゴルド取るという。
つまりは、ちょっとでも傷付けてしまえば、俺の二日分の稼ぎがふいになってしまう高級防具なのだ。
それでも俺が、身の丈に合わないこの装備を身につけた理由は一つ。恐狼と戦うためだ。
ランク1の中で最上位に分類される恐狼は、他の同階層の魔物と違い、弱点らしい弱点がない。筋力自慢の豚人よりはわずかに力で劣るが、鋭い爪と牙、高い嗅覚による危機察知能力と、そして何よりも、すさまじい俊敏さを誇る。ランク2でも特定の弱点があり、与しやすい魔物がいる中で、ランク1での恐狼の性能は、苦手な分野がないという点で破格だった。
俺が恐狼の討伐を決意した理由は単純で、豚人ですら武器スキルの上がりが遅くなってきたからだ。今では、不意を突かずとも、真正面からの斬り合いで攻撃を食らわずに倒せることも珍しくない。
つまりは、俺はまた一段階、強くなったのだ。レベルを上げるだけなら豚人を続けて狩っていればいいが、武器スキルを磨くために、恐狼に挑戦することにしたのである。
ランク1の最深部は、蟻の巣のようになっていた迷宮の入り口とは、少々景観が異なる。マナが濃くなってきているために、植物が生えている土地が増えるのだ。
入り口付近の土地は荒れ肌であり、酸水母が出没し始める地下六、七階あたりにはわずかな苔類が生えているだけだが、恐狼の出没域、地下九階を越えると、あちこちに小さな花をつけた雑草や、場所によっては膝あたりまで埋まる
草原らしきものもあるのだ。
暗視の指輪があるために忘れがちだが、ここは光一つ差し込まない地底である。
これらの植物は、炎帝の光のかわりに、迷宮内のマナを栄養としているのだろう。このあたりの植物はまだ食用にはならないが、もう少し深部になると、百薬草や漢玉葱など、街にも流通している、いわゆる迷宮産の食材が採取できるようになるらしい。
「グルアァァ!」
豚人が振り下ろした棍棒を、後ろに少し跳んで避ける。地面に棍棒を打ち付けて、一瞬無防備になった頭を狙い、長剣を横薙ぎに振るう。首の中ほどまで長剣がめり込んだため、引き斬るように剣を抜く。
しばし出血する首を抑えながら悶えていたが、間もなく豚人は倒れこみ、息絶えた。マナで肉体能力の進化した魔物とはいえ、基本的な急所は人間と変わらない。首から上と、心臓だ。股間は効果的な魔物とそうでない魔物に分かれるため、俺は積極的には狙わない。
倒した豚人の死体が迷宮に吸収され、魔石を残して消えるよりも早く、豚人の新手が現れる。一体だけだ。知能の低い種族であるとはいえ、個体によってどんな動きをするかは変わってくる。臆病な豚人もいれば、がむしゃらに突っ込んでくる奴もいる。
この豚人は、慎重な個体だ。手に持った棍棒を無闇に振り回したりはせず、俺と一定の距離を取って、警戒している。
俺は、すり足で刃圏に踏み込むと、そのまま一気に距離を詰める。長剣どころか、棍棒ですら一歩踏み込んで振り回せば当たる距離だ。それでも、豚人にしてみれば、目の前に迫ってくる長剣の切っ先が威圧になって、無防備に棍棒を振り回そうという気になれないだろう。反射的に下がろうとした豚人の後退を許さず、一気に飛び込んで、構えた長剣の切っ先を、真っすぐに突き出す。喉元をえぐる、しっかりした肉の手ごたえ。
棍棒を手放し、喉を押さえながら転げまわる豚人に近づき、頭蓋に剣を振り下ろしてとどめを刺してやる。
先端だけ血に染まった長剣を布で拭い、その場にしばらく留まる。死体が魔石を残して消えるのを待っているのだ。
この場所で恐狼に襲われる危険は、今のところ低いと見積もっている。
例によって、恐狼は豚人を襲って捕食するので、両者の縄張りは重複しない。食料を探しに恐狼が現れる可能性はあるが、もしそうなっても即座に戦えるよう、警戒を怠ってはいない。
数分ほど経ち、死体が消えた後に残された小粒の魔石を拾い、背嚢のサイドポケットに押し込む。これで、今日は豚人から得た魔石は五個目だ。まだ、恐狼とは遭遇していない。
同じ階層なのに豚人ばかりと遭遇するのには理由があって、ここは恐狼の出没域でもかなり浅い階層なのである。もう少し深く潜れば、恐狼ばかりが出没する中で、稀に中層の魔物が紛れ込んでくる危険地帯になる。
しばし歩く。より地下へと歩き続けるのは危険なので、頃合を見て登り道を進んだりと、深度の調節をする。もう、体感で自分がどのあたりの階層にいるのか把握することにも慣れた。今は、地下九階を過ぎたあたりである。
先ほどまで、ものの十分も歩けば豚人と出くわしていたのだが、今はさっぱり魔物の影がなかった。魔物の痕跡を調べようにも、道の上下左右は岩であるため、足跡も残らない。魔物の糞や死体、あるいは人間の死体、装備品なども、一定時間が経過すると迷宮が吸収してしまうので、恐狼を見つけることは難しい。
(これは――当たり、か?)
恐狼の縄張りは広く、数キロ四方にも及ぶ。その攻撃性は非常に高く、縄張り内に踏み込んだ者は、人間であれ豚人であれ、優れた追跡能力で追いかけられ、仕留められるそうだ。
俺は、息を吸い込んだ。
「おおおおおお――――――ッ!!」
岩や壁が俺の叫び声を反射し、大地がかすかに揺れる。しばし、あちこちで残響が鳴っていたが、やがて静まった。外敵がここにいるぞ、というアピールである。
俺は、見通しの良い、左右を見渡せる通路に陣取り、恐狼を待ち構える。存分に長剣を振り回せる、広い道のさ中だ。
やがて、何かの大きな気配が、近づいてくることに気づいた。体重の大きさの割に、上手に音を消す足さばき。かすかな息遣い。それらの音は、急速に近づいてきて――通路に、恐狼が飛び出してきた。
「グガアアッ!!」
もとは犬科の生物であったなどとは信じがたい、野太く、耳障りな吠え声。全身を覆う、夜のような、群青色の毛。そして――鉄ですら噛み砕けるほどの、発達した、歯。犬歯だけではない、ギザギザの虎ばさみを思わせる恐狼の歯は、横一列に綺麗に並ぶ、鋭い先端を持った、唯一にして無二の武器だ。
恐狼の体格は大きい。成人男性の平均よりも総じて重く、大きい個体の体重は百キロを越す。その重さを支えるために、四肢は太く、筋肉が付いているために、迷宮の外で生きている犬と比べると、ずんぐりむっくりとした印象を受ける。
あくまで、印象だけだ。
恐狼が走りだした。左手に剣を逆手に持ち、あらかじめ詠唱してあった火矢を、恐狼に撃ち込む。きゅんっ、と空を裂く音とともに、恐狼の顔面、鼻のあたりに火矢は突き立り、火の粉の華を散らして消えた。
顔面が抉れ、焦げついた肌からはわずかに煙が出ている。親指と人差し指で、丸が作れる程度の大きさの穴が、恐狼の顔面に空いている。
(影響なし、か)
怯みもせず、あっという間に恐狼は距離を詰めてくる。一見すると鈍重そうな体躯で、軽やかに大地を蹴る。
銀蛇ほどの高級品ではないにしろ、恐狼の皮革は、鎧の素材になる。俺ぐらいの魔法スキルでは、火矢の一撃では大したダメージは与えられそうもなかった。
俺の目を見据え、恐狼は真っすぐ俺への最短距離を疾走してきた。俺は上段に振りかぶって待ち構える。
「ガアッ!」
今にも俺に飛びかかろうとした恐狼が吠えた瞬間、俺は長剣を振り下ろした。
大ネズミで散々練習した、飛びかかってくる相手にカウンターで脳天に加える一撃は、しかし空を斬った。
(フェイント――!)
吠え声で飛びかかると見せかけて、恐狼は身を伏せて俺の足元を通り抜け、俺の背後から喉を目がけて跳んだ。前のめりになっていた俺は慌てて剣を引き戻すが、体勢は不十分で、剣の柄の部分で喉を守るのが精一杯だった。
「ぐっ!」
喉に噛みつかれこそしなかったものの、俺は後ろに倒れこんでしまい、そのままのしかかられる。 俺よりも重い肉体が、四足歩行で飛びかかってきたのだ、到底立っていられない。跳ね飛ばされたようにすら感じる。
恐狼はギザギザの牙を大きく開け、剣の柄で守っていない、横首のあたりに噛み付いてきた。鉄兜の、下ろした面頬で守っている部分だ。がちりと、硬質なもの同士がぶつかる音がした。鉄兜の板金に、恐狼の牙が食い込む。
この押し倒されている体勢を何とかしないと、と思ったのは一瞬で、恐狼は横首の鉄に牙をめり込ませながら、左右に首を振りはじめた。食いちぎる気だ。
兜が左右に振られているということは、俺の頭を揺らされているということだ。急速度の揺れが、脳震盪を引き起こす。不自然な体勢から、何とか恐狼に長剣の一撃を加えようとするも、押し倒されている上に手元に長剣を抱えこんでいて、さらには頭を揺らされているために体重の乗った斬撃が振るえない。
そうこうしている間にも、横首の面頬はめきめきと音を立てて砕かれつつある。
「調子に――」
俺は長剣を握っていた手を離した。鋲皮鎧の小手で守られた手のひらを、目一杯に開く。
「乗んな!」
俺の右首に噛み付いている恐狼の顔面を、両手で包む。親指に最大限の力をこめて、恐狼の眼球を狙い、突き出す。
「ギャァオ!」
恐狼の眼球を貫いた感触は、なかった。とっさに目を瞑ったのかもしれない。
ともかく、俺の首に噛み付いていた牙を、恐狼は放した。体勢を立て直すなら、今――
「ぐっ!?」
首から口を放した恐狼は、執拗だった。首が防具に守られていると悟ったのか、立ち上がろうとした俺の、今度は足首に噛み付き、振り回そうとする。すさまじい膂力だった。口だけで銜えられているのに、抗えない。
右の足首にがっちりと噛み付いたまま、恐狼はまたしても食いちぎろうと首を振り回し、俺は立ち上がれずに再度倒れこむ。
「しつっ――こい!」
仰向けに寝転がされたまま、俺は傍らに転がっていた長剣を拾い、足元に噛み付く恐狼に向かって振りぬく。剣の一撃が当たる寸前に、恐狼は噛み付きを止め、飛び退がって避ける。
また飛び掛られてはたまらないので、切っ先を恐狼に向けたまま、急ぎ俺は起き上がり、再び恐狼と対峙する。
状況は、何一つ好転してはいない。銀蛇の皮鎧のおかげで、足首へのダメージはない。しかし、兜の首元は、一部分が食いちぎられてなくなってしまっている。わずかに空いた隙間から、無防備な首へ空気が入りこみ、ひやりとする。
もう一度ぐらいなら、首に噛み付きを食らっても、耐えられるかもしれない。しかし、三度目はないだろう。兜は、銀蛇の皮鎧と違って、所詮はただの鉄だ。恐狼の一撃には、そう何度もは耐えられない。
俺は、胸元で剣の柄を持ち、切っ先を真っすぐ恐狼に向けた。突きの体勢だ。
さきほど、無様に尻餅をついていた、無防備極まりない俺に、恐狼は飛び掛ってこなかった。向けた切っ先を恐れたのだ。
「おおおおお!!」
俺は叫びながら、身体を沈めつつ、真っすぐに恐狼に向かって走りこんだ。無論、切っ先は、恐狼に向けたままだ。
(どのように避けようとも、身体ごとぶつかっていって、貫いてやる――!)
しかし、俺の思惑に反して、恐狼は棒立ちで俺の攻撃を待っていてはくれず、俺の足元をすり抜けては、最初のように、背後から噛み付きを狙ってくる。急ぎ身体を捻り、切っ先を恐狼に向けると、やはり恐れたのか、飛び退がって距離を取られてしまう。
「逃げ続けていられないようにしてやる、犬っころ」
俺の攻撃を避け、自分だけ攻撃しようという魂胆なら、こちらも考えがある。
俺は剣の柄を逆手に持ち替え、火矢の詠唱をする。残りのマナは、恐らくは十ポイント。火矢二発を撃っても、戦闘に耐えるだけのマナは残していられる。経験上、二ポイント残っていれば、気分は悪くとも戦闘に支障はない。
「食らえッ!」
柄を握った左手でマナの弓を持ち、空いた右手で火矢を引き絞るイメージ。
本日二発目となる火矢は、狙い過たず、恐狼の顔面に突き立つ。
「ギャアッ!!」
明らかに、痛覚を伴った悲鳴。火矢は、確かに効いているのだ。
三発目の火矢を詠唱しようとして――またも、恐狼が距離を詰めて、飛びかかってこようとする。俺は、今度こそ突きを入れようと、剣を構えなおし、切っ先を恐狼に向ける。すると――それを恐れたのか、恐狼は飛び退がって距離を取る。
あくまで、俺が剣を構えていないときに飛び掛りたいらしい。
ならば、俺は三発目の火矢をぶちこむだけだ。
再度、左手で剣を逆手に持ち、火矢を詠唱するべく、両手にマナを集めだすと――
「は?」
くるりと背を向け、恐狼は、一目散に逃げていった。
しばし待ってみたものの、足音は遠ざかったきり、再び聞こえては来ない。
「何だよ、それ」
どうやら、骨折り損のようだ。恐狼は、見事な生存本能で、俺から逃げ切ってしまった。後に残されたのは、MPを半分以上失い、兜の一部を食いちぎられて、なおも戦意だけは旺盛な俺である。
見事に、逃げられた。
「帰るか」
俺は、独り言を呟く。妙に空しい気分である。鉄兜は大きく破損し、恐狼は討伐できていない。狩りを続行しようにも、鉄兜の一部が食いちぎられている現状では不安が残る。それに、MPも減っているので、次に恐狼に出会ったら火矢による対処ができない。
「はあ」
ついつい肩が落ちてしまうが、気を取り直して帰路を進む。物は考えようだった。 念には念を入れ、銀蛇の皮鎧を着てきて良かったと言うべきである。首への一撃はともかく、足首への噛み付きは、鋲皮鎧では致命傷を負ってしまっていただろう。
今の俺のレベルと剣術では、まだ勝てないということがわかっただけでも、収穫だ。生きて帰れるのだから。




