5000兆円欲しい。
※本作品はフィクションです。実在する人物・団体・事件とは関係ありません。何かの相似点があっても、創作上の偶然であることを明記致します。
5000兆円欲しい。金欠に喘ぐつこ氏(仮称・北海道在住)は、新年を前にした夜空に、強く願いを捧げた。
天にまします経済の神は、つこ氏のことを憐れんで、その願いを聞き届けた。
神の見えざる手によって、つこ氏の楽天銀行口座には、一晩にして5000兆円――5京円が突如として入金された。楽天銀行は即座に原因不明のサーバーダウンを起こし、つこ氏が普段使用しているスマホの楽天銀行アプリも、終了期限不明のシステムメンテナンスにより使用不能と化した。
5京円は、日本の名目GDP約600兆円の十倍弱に相当し、日本銀行が供給しているマネタリーベース約700兆円前後を大きく逸脱するものであった。これは世界GDPの5〜6%にまで相当する。したがって、神の行った5京円の入金は、単なる資産の移転、一個人の「巨額資産保有」というレベルではなくで、事実上の通貨供給量の爆発的増加――ハイパーインフレ誘発要因として機能することとなった。
市場最大の世界恐慌とされる、1929年10月のニューヨーク株式市場の大暴落。
それを遥かに凌ぐ、全地球規模の経済危機が突如として勃発した。5京円の一個人の口座への入金は、国家財政規模を超越した流動性ショックであり、実質的には全世界の通貨制度の破壊への引き金となったのだ。
神がつこ氏の楽天銀行口座に入金した5000兆円には、当然その裏付けとなる資産は存在しない。銀行は瞬時に自己資本規制比率(BIS規制)を満たせなくなり、即座に債務超過となった。
楽天銀行が日本銀行に当該資金の裏付けを求めれば、日銀は事実上「5000兆円の信用創造」を強制されることになり、これは中央銀行バランスシートの大規模拡張を引き起こした。
北海道在住のつこ氏は、一晩にして日本銀行からの日本経済へ最も深刻な影響を与えうる人物として危険視されることになった。もしこの入金をつこ氏が市場に放出した場合、消費・投資需要が現実の供給能力を遥かに上回り、需給ギャップが爆発的に拡大する。
一個人が5000兆円を保有していることが明らかになれば、不動産・金融資産・コモディティ関連商品などに対して投機的需要が生じ、アセット・インフレーションが急激に進行することは明確である。その後、資産高騰が消費者物価にも波及し、ハイパーインフレ的な価格上昇が避けられない。
政府および日本銀行は、最も妥当な判断として、即時に当該の5000兆円の無効化処置をとり、市場への影響を最小限に抑える形で収束させようと試みた。
しかし、つこ氏へ神から与えられた5000兆円は、日本銀行の無効化処置を受けつけなかった。どういう理屈かは分からないが、神がそう定めたのだから仕方がない。
つこ氏は、5000兆円を、ただ美味しいラーメンが食べたいとか、寝心地の良い枕が欲しいとか、もっといいウイスキーが飲みたいとか、そういう理由で欲したのみである。そこには投機的な野望や意図はまるで存在しなかった。
けれども、市場はそうは判断しない。5000兆円が個人によって外貨に転換されれば、為替市場に前例のない規模の円売りが発生し、円相場は瞬時に暴落する。すべての投資家や各国の経済担当者はその危惧に青ざめた。彼らの危惧により輸入物価は急騰し、コストプッシュ・インフレがさらに加速した。為替市場のボラティリティが高まり、国際投資家は円資産を忌避し、キャピタル・フライト(資本逃避)が発生したのだ。
為替相場のチャートは、史上誰もが見たことも勢いで急転直下の転落を起こした。
円はゴミ同然に投げ売りされ、ドルやユーロ、人民元への資産分散が行われた。また、安全資産への退避として、金やプラチナなどのコモディティ資産の購入が殺到し、価格が急騰した。
日本の株式市場の取引は、勿論サーキットブレイカーが発動して停止していたが、日本は世界第3位の経済大国であり、かつ対外純資産世界一の国家である。日本の金融システム不安は世界資本市場を席捲し、全ての国家の株式市場の取引はたちまち中止となった。
一晩にして、円は国際決済通貨としての地位を消失した。特別引出権の利用が発生し、IMF等の国際金融安全網が緊急介入を行おうとしたが、既に手の付けようがないほど、世界経済は混乱の渦に巻き込まれていた。
『ああ、終わりだよ終わり。日本はもう終わりです』
『世界経済、壊れちゃう』
介入の余地なく暇を持て余した投資家達は、SNSへ理解を越えた経済恐慌への終末論を書き綴ったが、この地球規模の経済恐慌の始点が一個人の口座への5000兆円の入金であることを知っているものはごく僅かだった。
投資家たちの間で世界経済終末論が広まり、自殺さえ相次いだ。
遅まきながら、日本政府と日本銀行は、当該預金口座の即時凍結、資金の無効化・没収に関する緊急立法の制定、日本銀行による流動性供給を行う銀行救済処置、国債市場安定のための大量買い入れなどの処置に踏み切っていた。
何よりも。
ピンポーン。つこ氏の家のチャイムが鳴った。
「はい、なんでしょう」
平日の休暇に二度寝を楽しんでいたつこ氏は、寝ぼけ眼で対応した。
つこ氏の住居の前には、黒塗りの高級車がずらりと並び、羽田空港から飛び立った飛行機で札幌空港へ駆け抜けつけた閣僚級の政府関係者がずらりと立ちならんでいた。
「ええっと、何のご用で?」
つこ氏は、ビビりながら尋ねた。
黒服のお偉いさんは答えた。
「貴方の5000兆円で世界がヤバい」
つこ氏は、楽天銀行アプリのメンテ早く終わらないかな、などと思って通帳を確認していなかったので、己が5000兆円を手にしたことさえ知らなかったのだ。
政府関係者は、易しく噛み砕いで現在世界に起こっている経済危機を説明した。5000兆円を持っていても、世界経済が壊れてしまえば、パン一つ買えない。つこ氏は己が保有している(らしい)5000兆円を放棄することを快く認めた。
こうして、世界に平和が――戻ったとは、言い難い。つこ氏への5000兆円の入金は、世界文明規模の未曾有のマクロ経済災害となり、向こう数十年に渡って世界に爪痕を残すだろう。
これを憐れんだ神様は、つこ氏に、5000兆円を現生で渡すことにことにした。勿論、既に日本の旧貨幣の信用は崩壊しており、一文にもならない。けれども、超越者の考えることというのは、往々にしてそういうものなのだ。
つこ氏には、5000兆円分――5000億枚、東京ドームの約半分、東京スカイツリーで言うなら、14本分の一万円札が積み上げられた。
つこ氏はしばし、その紙幣の山を見上げ、『1万円札の顔は、渋沢栄一より福沢諭吉の方が良かったなあ』などと考えていたが、勿体ないので、その表に小説でも書き綴ることにした。
世が世なら、日本一高価だったかもしれない小説を、つこ氏は日々書き続けている。
終。




