愛二乗=暖かい背中
果穂子は最後まで聞く勇気がなかった。
床に水滴が落ちる。
まるで果穂子の行き先を教えるように。
果穂子は荒い息をつきながら屋上に出た。
滅多に出さない全速力を出したからか、脚が震える。
違う。本当の理由は分かってる。
怖かったから。
大君くんを好きな自分を否定されたくなかった。
これまで育った気持ちは、大きな樹となっている。
深く大地に根ざす樹。
けれど今その樹には葉がない。
ちょうど目の前にある樹のようだ。
冬が果穂子に訪れる。
私を言葉で殺してしまえる人。
彼に言われた言葉が胸を締め付ける。
視界はすでに歪んでいて、思い切り泣きたかった。
視線の先には誰もいなかった。
大君は立ち尽くす。
聞いてほしかった。
心に降り積もるこの気持ちを。
けれどそれは、もう遅かったのだろうか。
床に落ちる雫は彼女の行方を導く。
彼女が泣いている。
行かなきゃいけないと思った。
他には何も考えられない。
涙は屋上まで続く。
鳴き声がドアの外まで聞こえる。
俺は泣いている彼女を驚かせないために、ゆっくりとドアを開けた。
しかしドアはきしんだ音をたてる。
平田さんは大きく肩を揺らし、泣き腫らした目をしている。
彼女の目が揺れ、眉が下がる。
怯えた顔をした。
俺は何か大きな過ちをおかしたのだと思った。
彼女の心が俺から離れているかもしれない。
俺は心の中で、どこか期待していたんだ。
まだ好きでいてくれるかもしれない。
そう思っていた。
恥ずかしい。思いあがりだ。欲深い。
思いつく限り自分をなじった。
彼女は今も俺をまっすぐに見られない。
そうしたのは他でもない、俺だ。
大君はおびえる果穂子に何も言えなかった。
振り返り際に「ここは寒いと思うから早く中に入った方がいいよ」とだけ言えた。
果穂子は呆然とした。
拒絶されると思っていたからである。
これまで大事に育ててきたものを根こそぎ刈られると思っていた。終わりだと思っていた。
しかし実際は何も起こらない。
肩透かしをくらった気分だ。
大君のことがまったく分からない。
優しい言葉をそのまま受け止められなかった。
あなたの心が知りたい。
大君くんは何を考えているのだろう。
大君は屋上のドアを閉める。
階段の下には見知った顔が三人いた。
一人は無表情、一人は微笑み、そして一人は不安そうな顔をしていた。
語り合うことはなかった。
互いに見つめ合う。
それが一言二言の会話に勝る。
大君は踵を返す。
そして再びドアを開けた。
「雪哉ならやれる。大丈夫だ」
絶対の信頼が彼の背中を押した。
「先輩達が上手くいくことを願っています」
「果穂子……」
大切な人の幸せを願う二人。
彼らはドアを見た。
本来見えないドアの向こう、光に満ちた未来を夢見て。
大君は啓一たちの視線を受けて勇気が満ちてくるのを感じた。
そして、ここで引き下がるのは間違っていると自らを奮い立たせる。
また平田さんの家に行った時みたいに繰り返すのか?
違う、俺は進むんだ!
平田さんは驚きを顔に浮かべて固まっていた。
流石に二回も来るなんて普通は思わない。
俺もそう思う。
けれど、意気地なしの俺にみんなは力をくれたから、此処で引き下がるわけにはいかないんだ。
何より俺のために伝えたい。
気負っていたけれど、肩が軽い。
今も背中に視線を感じる。
ありがとう。
「俺は平田 果穂子さんが好きです」
かっこつけようなんて思わなかった。
ありのままの俺、自然な俺で伝るんだ。
嘘だと思った。
だって信じられないの。
信じて、嘘だったらどうするの?
もう傷つきたくない。
果穂子は呼吸もまともに出来なくなっていた。
「俺は平田さんが好き」
自分の言葉をかみ締めるように大君くんは言った。
反復した後彼の口元が緩む。
柔らかい笑みに、このまま話を聞こうと思った。
もしかしたら。
けれど怖い。
私はその一瞬に耐えて動かない。
違う、怖くて動けない。
「初めて会った時は変な子だと思った。
おせっかいで、ずれてる子。でも話していて楽しかった。
平田さんは誰よりもまっすぐに俺のことを見ててくれたね。嬉しかったよ。
いつの間にかたくさん話すようになって、平田さんと話すのが一番楽しくなった。
平田さんといると、自然体でいられた。
どんな時も傍にいてくれた。悩んでいた時も、彼女がいた時も。
ずるい俺の傍に」
私は目に浮ぶかこの映像を追っていた。
本当にいろいろあった。
初めての恋をして、沢山泣いた。
それだけ本気で好きだった。
胸に残るのは恐怖だけじゃない。
大君くんに会って育った愛しいものがある。
「ずるくて馬鹿な俺だけど、付き合ってもらえませんか」
差し出された手に泣き出しそうになった。
そして噴出しそうになる。
こんな時にまでかっこつけなくていいのに。
ばか。
でも私もばかだ。
だってそんな彼が好きだから。
ついに涙が頬を流れ落ちる。
嗚咽が出て声にならない。
一生懸命首を縦に動かした。
彼が彼である限り、私は好きでいるだろう。
私が大きく頷いた時、わっと言う歓声と共に扉が開いた。
頬を高潮させて抱きついてくる皐月。
大君にグッジョブサインを送る遠山君。
嬉しかった。
一緒に喜び合える友達がいる。
大君くんもそう思ったみたいで、目が合った。
同じ気持ちでいることが嬉しくて、くすぐったくて、笑い合う。
そんな時、扉からそっと出てきた俯きがちの姿を見て、私は笑顔が引きつった。
清子ちゃんだ。
私は彼女から大君くんをとった。
罪悪感から固まっていると、彼女は私の目の前に来る。
「おめでとうございます」
彼女の口から出た言葉は罵る言葉でも何でもなかった。
顔を上げた彼女と目が合う。
彼女は泣いていたのだ。
「私じゃ駄目だった。雪哉先輩を笑顔にするのは平田先輩です。
誰よりも幸せな恋人同士になって下さい」
大君くんは私の一歩前に出る。
「誓うよ、清子ちゃんの名に賭けて」
「何ですかそれ。平田先輩は?」
清子ちゃんの顔が見えない。
歪む視界。
頷くと涙がこぼれた。
よく見えなかったけど、清子ちゃんはきっと笑っているだろう。
そんな子だから。




