☆12 縁日の夜
野山を飛ぶように駆けた。
足早に、風となって走った。
カラカラと下駄を履いて駆ける少年と少女に、すれ違う木々は枝を揺らして驚いた。
やがて、麓まで下った八重の目の前には、一つの田舎の役場があった。数々の灯りをともした提灯がぶら下がった縁日の光景が夜に浮かび上がる。
オレンジ色の電飾の美しさと、儚く涼しい闇の空気に身震いをしそうになった。
まるで日常と非日常が混ざり合ったかのよう。
「そんなに珍しいかよ」
言葉を失い頬を赤くした少女の様子にアヤカシが苦笑する。
「……ごい」
「杉也! こんなすごいの知らない!」
八重は興奮気味に大きくはしゃいだ。
月之宮家の令嬢である八重は、つまらなく気取った富裕層のパーティーには沢山出たことがあるけれど、このように雑多で豪快な農村の祭りは初めてだ。
「んな大層なもんじゃねーだろ。この程度の祭りなら、いくらでも日本中に……」
呆れて杉也が口を開くと、八重は食い気味に話す。
「いいえ、これはすごいものよ! 皆はあたしに隠れてこんな楽しいことをしていたなんてずるいわ! アレは何をやっているの!?」
「アレは金魚すくいと云って……」
「金魚?」
はしゃぎながら、二人は屋台を冷かしたり、遊んだり見物をする。あっという間に一時間が過ぎて、いつの間にか笑っていた自分を天狗は知った。
とうに飽きたはずの妖生何度目か分からない祭りの夜。違うのは、隣に立っているのがこの少女というだけ。
(……ああ、そうか。こいつは下町にすら出たことがないのか)
そのことに気付き、限られた世界で囲われて育てられたこの少女への憐憫の情をわずかながらに杉也は抱いた。
絶滅危惧種になった陰陽師の、ましてや半神という生き物。私利私欲の大人たちが彼女の視界を塞ぐことによって。少女は一体どれだけの生きる光や可能性を潰されてきたのだろう。
(本当に、人の世界へ帰してしまって構わないのか?)
初めて、その疑念が杉也の胸をよぎった。
もしかしたら、自分が連れ出したことによって八重は初めて自由を手に入れたのだとしたら。だとしたなら、すでに彼女は元居た籠の中に戻されることは幸福となり得ない。
(……いいや、それすらも全部言い訳だ)
杉也はそう思考して顔色が悪くなる。
くるくると変わる少女の表情。
飛んでいく蝶々。艶やかに咲きそうな華。
先へ先へと惹かれながら歩いていく八重に連れながら、杉也は人の世界へと足を踏み入れる。
ああ。その憧憬は、誰のものか。
何かが締め付けられる衝動にかられ、奥歯を噛みしめて立ち止まった。
「杉也?」
八重が振り返った。
少女の長い髪が、涼風に宙を舞った。
「……昔、一年に一度こうやって行灯と二人で縁日に来たことがある」
「…………」
「ずっと昔の話だ。祭りで俺に会うと……必ず飴をくれる人間の娘がいた」
いつの記憶か。
「縁日で会う度に、娘は大きくなっていった。美しく育って嫁に行ったと聞いた。やがて、彼女は年老いて気が付いたら姿も見かけなくなった。
その三十年間。俺は、アヤカシの俺だけは何も変わらなかった」
(忘れたかった。
忘れてしまった方が生きるのに楽だった)
「俺は、人間とは生きる時間が違う。半神のお前とは、何もかもが一緒じゃない。もしも行灯が消えたら、お前が死んだら。俺は今度こそ一人きりで生きていかなくてはならなくなる」
(独りが怖いんだ。
そう素直に云えたら良かった。そういう綺麗な自分になりたかった。
だけど本当の自分は、こんなにも汚れていて。悲しくなるぐらい両手には何もなくって)
「なにもかも、虚ろで空っぽなんだ。俺の中には何もない。お前みたいな家族も、使命も、生まれた意味も」
「――そんなことない!」
八重は大きく抗った。
「杉也には杉也のいいところが沢山ある、それをあたしはちゃんと知っているわ!」
「そうだとしても、お前を両親から引き離して誘拐した罪は消えない」
嵐の前の静けさ。道化が嗤った。
自嘲して、少年は下を向く。杉也が八重にしたことは、これから先の人生で決して償えるものではない。
「お前へ惹かれる度に、罪の意識がどこかで声がするんだ。お前のせいだって、何度も響くんだ。傷口が抉られるような、ナイフで切りつけられるような想いになって、それでも、本当は」
無言で、暗がりにいた八重は杉也を抱きしめた。
煙と花の香りがする。
どこかで嗅いだような、落ち着く匂いだ。
「杉也」
すぎや、と泣きそうな口調で八重は繰り返す。
想い余り、杉也は口走った。
「好きだ」
だけど、こんな汚れた自分じゃ手を伸ばすことなんてできない。
「あたしも」
「あたしも、あなたのことが好き。この世界に生まれて、独りぼっちの杉也に会えて、良かったと思ってる」
その純粋さに反していつの間にか大人びた表情で、少女は少年に囁いた。
どうして、こんな自分に貴女はこんなに綺麗に笑うんだろう。
「嘘だ、そんなの。あり得るはずがない」
「嘘じゃないわ、あたしだってあなたのことが好き」
掴もうと思っても、掴もうとしても、いつも自分の掌からは大切なものがすり抜けていく。そんな感覚に襲われながら、幾つもの挫折を繰り返しながら。
(それでも、出会えて良かったといつか思えるのだろうか)
失うことの辛さを知っているというのに。
いつか別れる日が来るなら、出逢わない方がよほど楽じゃないか。
気まぐれの優しさを与えられるくらいなら、いっそ嫌われてしまえば仮初の平穏が手に入る。
(人は嫌いだ。
短い生で、途方もない永遠を約束する。
永久の幸福を口にしては、あっさりとその命を儚くする。
行灯を産み、育み、そうして奪っていく。
人間なんか大嫌いだ……)
そう身に染みるほどに分かっているはずなのに、杉也はどうしてもこの温かな手を振り払うことができない。
胸を掴まれたかのように、感情が溢れる。
「八重、助けてくれ」
顔をくしゃくしゃにして、杉也は言った。
「行灯を助けたいんだ、もう何をしたらいいのか分からないんだ。神様なんだろう。頼むからこれ以上俺の大切なものを奪わないでくれ」
杉也のそんな言葉に、八重は切なく思う。
「違う、そんなことを言いたいんじゃない……俺は、お前と生きたい。本当はこのまま一緒に暮らして、どこにも返したくない。初めてなんだ、空っぽでもやっと倖せだと思ったんだ」
たとえそれが泡沫の夢だとしても。
泣きそうな声でそう言ったアヤカシを、少女は強く抱きしめた。
「…………」
どうして、何かを選ぶということは、他の何かを捨てなければならないことと一緒なのか。
なぜ、自分も君もこのままでいられないのだろう。
祭りの音がする。
夜が近づいてくる。
――――永遠にも近かった夏が、終わる音がした。




