☆11 あの夏の君と無敵時間
翌日、考え事をしていた八重は案の定朝食作りを失敗した。
本当だったら爽やかだったはずの朝。寝坊した杉也の代わりに八重の作った味噌汁を飲んだウィリアムは泡を噴いて気絶した。嫌な予感がしたらしい杉也も浅く飲んでぶっと口から汁を噴き出す。
行灯さんだけは平然として料理を食べている。精神力が強いのか、それとも味覚が音痴なのかはよく分からない。
「馬鹿野郎、なんつーもんを作るんだ!」
「……、ちょっと失敗しちゃっただけだもの!」
八重が泣きそうになりながら反抗すると、杉也は顔色が悪いまま庭先に鍋をまるごと持っていこうとする。そんな様子を見た行灯さんが、穏やかに釘を刺した。
「杉也、まさか捨てるつもりですか?」
「……だって、こんなのゴミと一緒だろ」
「一度口にした食物は余さず食べるよう教えてきたはずですよ。それ即ち、命を引き継いでいくことなのですから」
「…………くっ」
杉也は悔しそうな顔になる。
鍋をちゃぶ台に置きなおし、イライラした態度で八重に向かって吠えた。
「お前、いい加減さっさと家に帰れ!!」
「帰らないわよ!」
八重はキッと杉也を睨みつける。
「行灯さんを助けるまで、あたしはずっとここに居る! 杉也とだって本当の家族になる!」
天狗の少年は、少女の気迫に一瞬怯む。
「それは……ダメだろ……」
杉也は力なく呟いた。
白く血色のない顔色をしている少年に、八重は怒鳴った。
「アンタなんかもう知らないわよ!」
もしも、自分が月之宮に帰ったら……。
そうなったら、それから先の杉也は一体どうなってしまうんだろう。
きっと、あたしの月之宮の家族は行灯さんや杉也、ウィリアムのことを決して許しやしない。どこまでも追いかけて、ケジメをつけるまで諦めない。
ぞくり、と心臓が冷える。
心のどこかで、気付かないようにしていたこと。
今の月之宮八重は、陰陽師として失格なのではないだろうか?
そして、例えそうであったとしても……使命より杉也の方が大事だと職務より優先して考えているんじゃないでしょうか?
甲高い音と共に頭痛がした。
(お願いだから誰も不幸にならないで。
この穏やかで愛おしい日々を殺そうとしないで。
あたしはただ、ひたむきにこの感情の行き場を探している。笑えないくらいに、君との距離は平行線上だ。
琥珀のような茶色い瞳。目じりの小さな皺。その向かう先が見てみたかったのに、だけどいつも、あたし以外を視界に入れてるのが悔しい)
祈るように思うよ。
今の少年を形作る世界を壊したくなかった。
あの美しいアヤカシの隣に居たかった。手をつなぎたかった。望みはそれだけだ。
あたし自身も、いつの間にかこのお山を愛していた。
緑の深い自然。朝露を弾いて咲き乱れる花々。澄み切って冷たい水が流れる小川。ずうっと等間隔に道なりに並ぶ道祖神の石像と、それに寄り添う桜の木。
故郷へ帰りたいという本能は勿論ある。あるのだけれど、我儘なあたしはこの変わった日常が崩れてしまう姿も見たくはないんだ。
(杉也の愛しているものを、あたしも愛したい。
彼の心に住んでいるのと同じ風景を好きになりたい。あなたの描く未来を、隣で見守りたい。
そんな欲を知ってしまったあたしは、もうとっくに正義の味方としては失格で。それでも、自分は構わないって思った)
「時間が止まればいいのに」
(どうせ永遠にこの夏の君と一緒でいられないのなら。
あなたの奥底に向かっていくあたしの心を、誤魔化し続けることもできないから)
杉也とはあれからちゃんと話していない。
夕涼みの倦怠感。
畳に寝ころんでいた八重に、行灯が話しかけた。
「ヤエさん、お加減はいかがですか」
「……何もしたくないわ」
「そうですか、今、山のふもとで縁日が始まったところなのですか」
その言葉を耳にして、八重はがばっと身を起こした。星が瞬くように瞳を大きくして、彼女は喜んで叫ぶ。
「それってお祭り!?」
「はい」
行灯さんはにっこりとする。
「お祭り、です」
「どうして教えてくれなかったの!」
行灯さんは困ったようにくすくす笑った。
起きて間もない八重の瞳に最初に映ったのは銀白の髪。その色は幻燈みたいに暗闇に浮き上がっている。
もうじき消える自分を憂いるように。とっくに幽霊になってしまったように。
浮世離れした雰囲気をまといながら、行灯は持っていたお面を八重に手渡した。
「お山に無事に帰ってこれるように、道案内の効果を込めてあります。お金を渡してあげますから杉也と一緒に遊んでらっしゃい」
掌に渡されたのは、二千円のお小遣い。たったそれだけ、月之宮で貰っていたお金とは比べ物にならないほど少ない金額だったはずなのに、それがたまらなく心が弾んで仕方ない。
どうして、こんな些細なことで倖せを感じてしまうんだろう。なぜ、こんなに温かいものがこみ上げてくるんだろう。
その答えも知らないままに、八重は笑顔になった。
社の中で用意されていた浴衣に着替えると、少女は庭先へと駆け出す。
曇り空の背景。やがて小雨も降り出してきそうだ。先へ準備していた天狗が何者かの気配へと振り返る。すると、そこに立っていた人間の少女の装いへと瞠目した。
透き通るような肌に、血色のいい頬。黒髪は首筋を露出するように編まれ、綺麗に結い上げられている。涼やかな目元が印象的な彼女の面は、薄く大人びた化粧が施されて紅が差されていた。
どうしようもなく、胸が締め付けられた。押し倒して壊してしまいたいほどに。その衝動に杉也はくらりとしたものを感じる。
「……へえ、馬子にも衣裳ってやつか」
「そうかしら」
素直になれない杉也の言葉を、八重は恥ずかしそうに受け取る。
少しだけ残念そうな顔をしながらも静かに笑った。
「行灯さんが買ってきてくれたんですって」
「……そーかよ」
杉也はクソ、と胸の中で悪態をつく。
誰の策略かは知らないが、このように美しく装われては自分でも己の気持ちの自覚を促されて仕方がなかった。
天狗の少年にとっては、それがいいものであれ、悪しきものであれ……平常心を取り繕うだけで精いっぱいだった。
「そうだな、似合ってないわけじゃねえよ。そもそも、大抵の日本人はずん胴だから浴衣が似合うようにできてるんだ」
「それは褒められているの?」
「知らねーし。勝手に都合よく解釈すんな」
素直じゃない天狗が悪態をつくと、彼はふと悪寒を感じる。次の瞬間、背後から襲うように近づいた西洋鬼が杉也の身体を高く持ち上げた。
はっはっは!
「ダメじゃないか、小さなレディにはちゃんと褒めなきゃ!」
ウィリアムが高笑いをしながら杉也にハグをする。小動物にするように黒い髪の毛をかき回しながら、意地の悪い顔になった。
「それとも素直になれない理由があるのかい? こんなに愛らしいお嬢さんを目の前にして、そんなつっけんどんな態度じゃいつか愛想をつかされてしまうよ」
「ウィリ……アム!!」
「はっはっは、ほら見てこらん杉也。人間の血が混じっているとは思えないほどに健気で美しい姿ではないか。それともこの愚鈍な目玉はかき出して洗わないとよく見えるようにならないかな?」
「おぞましいことを素面で言うな!」
ぞぞぞ、背筋に寒気が走った杉也が逃れようと叫ぶ。辺りの空気がゆらぎ、弾けるような突風でウィリアムの抱擁から逃れた少年は身軽に着地する。
砂埃が舞い、西洋鬼が咳き込んだ。戸惑って傍観者にしかならざるを得なかった八重の手をとり、杉也がぶっきらぼうに叫ぶ。
「ほら、行くぞ!」
少年からの不意打ちの言葉。
繋がれた手。心臓が大きく鼓動して、
「……うん!」
少女は笑い返す。
羽が生えたように心が軽くなる。
君がいるだけで、こんなにも無敵時間だ。
雨が降ったって、どんな困難が待っていたって。
二人ならどこまでも走っていけそうな気持ちになって、八重はしっかりとこの感触を握り返した。




