☆6 泣き疲れて
「やあやあごめんねお嬢さん! なんだかいらぬ誤解をさせてしまったみたいで!」
居たたまれない空気だった。朗らかに笑ったウィリアムと名乗る訪問者に対して、八重は呆気にとられるしかなかった。
お風呂から上がってきた杉也はタオルで髪を乾かしながら、ため息をつく。
「……お前、何か誤解しているみたいだけど。コイツが狩って持ってきたの、野生のクマの肉だから」
「え……」
ポカンと放心状態になった八重に対し、
「正当防衛というやつだよ、それもとびきり新鮮なやつさ! 弱ってきた行灯の滋養強壮にいいかと思ってね、俺が自ら仕留めてここまで運んできたんだ」
あの返り血で染まった服の訳が分かり、恥ずかしさに八重の頬が熱くなる。
ウィリアムはおかしそうにゲラゲラと笑い、お茶を淹れていた行灯さんがこう言った。
「夜の山で雑妖に襲われただなんて……大事になる前にヤエさんを連れ戻せて良かった。そもそも杉也、お前はいつも言葉足らずでいけない」
「…………」
ぷい、と杉也はそっぽを向く。
誤解で彼を傷つける言葉を向けてしまった。そのことにこちらが青い顔になっていると、ウィリアムがずいっと近づいてくる。
「……それにしても、君は本当に上等でいい匂いをしている」
「…………っ」
びくりと八重は震えた。
その聞き捨てならないセリフに杉也はきっと眦を吊り上げる。
「おい、ウィリアムいくらお前でも……」
「残念だねえ。こんなにも酒の肴になりそうな馳走をぶら下げられて、みすみす我慢をしなければならないだなんて。大分この娘に入れ込んでいるようじゃあないか」
そういいながら、社に来訪したアヤカシはナイフで手際よくクマの肉をスライスし、七輪で焼いている。畳の上にはまだまだ沢山の土産物が積んであった。
「弱ってきている行灯の糧になりそうなものは色々探してはきたのだけど、ね。
杉也。君はもう気が付いているはずだ。神と憎らしい人間の血を引くその娘を正しく食らえば、君の大事な父である行灯の命が助かるかもしれないことを……」
「……チッ」
「お前だって、最初はそのつもりで攫ってきたのではなかったのかい?」
八重は、息を呑んで顔を上げた。震える喉。恐怖を押し殺して、アヤカシたちへと問いかける。まるで、彼らが途端に恐ろしい化け物に変わってしまったように感じられた。
「何を……いっているんですか」
(訳が分からない。
ただ一つ理解できるのは、杉也が隠し事をしているということ。
あたしが成長するまでの二人の時間。あの優しい時間は、その上で成り立っていたものだということ)
「あなたは、あたしのことを。人間のことが……嫌いなんですか?」
「嫌いだねえ」
ウィリアムは、邪悪に笑って見せた。
その指先で、生の肉をつまみ喰らってみせる。そして滴った血のついた指先で人間の少女の頬をゆっくりと撫ぜた。
思わず、恐ろしさに鳥肌が立つ。
このアヤカシは、今まで出会った中でもひと際人間への怨念に満ちている……。
「俺は、ウィリアムウィスプ。伝承の特性上、道に迷いやすいアヤカシでね。先の大戦で日本に墜とされてからはずっとこの島国を彷徨って生きていた。そんな俺がこのような小さな神に救われるだなんて思わなかったけれど……」
かつて山中で行き倒れていたこの邪鬼へ、一人の清き道祖神が手を差し伸べたのだという。
『君がもしも孤独に迷うなら、私はいつだってその道しるべとなろう――』
そう言われた時のことを思いだしながら、ウィリアムは語る。
「人間は身勝手だ。救いを求めて神にすがっておきながら、時が経てばやがて行灯のことを忘れ、また違う欲を持つ。あんな欲深くて恩知らずな生き物、嫌いに決まっている。
確かに、俺は人を殺したことがある。人間のことも憎んでいるとも」
「ウィリアム」
止めようとした行灯を振り切り、月夜の風が吹き込む中。稲わら色の髪を翻して西洋の鬼は告げた。
「――だって、アイツらは行灯をこうして緩やかに殺していくのだから――」
「人間が……行灯さんを、殺す?」
「……いくら願われて生まれたとしても。人々にとって必要がなくなった願成神は、残された者の記憶と共に消えるしかない定めだ。俺は……」
杉也は苦しそうに掠れた声を出す。
「俺は、どうしてもそれが」
「どういうこと。分からないよ、どうして」
「もしも行灯が消えたとしたら、俺たちは父と共に過ごした記憶もなくなってしまう。信仰が消えるというのはそういうことで、行灯は遠い場所へと連れていかれて……しまうんだ」
「なんで。なんで行灯さんが」
(こんなにいい人なのに)
……忍び寄るような理不尽。
混乱の極致に達した私に対し、行灯さんが静かに口を開いた。
「私自身には、消えゆくことへの恐れはありません。
けれど危機感を抱いた杉也は私に延命をさせようと思い、神格を持っているヤエさんをこんなところまで攫ってきてしまいました。杉也に陰陽師からの危険が及ぶことを考えれば、あなたを月之宮へ帰すこともできない。そのことに対しては、本当に申し訳なく思っています。人の道に外れた行いをしているのは、親の私だって同じなのです」
(薄々と分かってはいたことだけど。
今の話で理解してしまったことがある。
杉也と行灯さんは血がつながった関係ではなくて。だけど、もしかしたらそれ以上に少年への行灯さんの存在は大きい。
神格が容易く差し出せるものだったなら、いくらでも助けたかった。それができたなら、どんなに良かったろうかと悔しく思ってしまう)
煙草の煙を吐き出した西洋鬼から、皮肉っぽい言葉をぶつけられた。
「……きっと君は、今までさぞや、恵まれて育ってきたんだろうね?」
その嘲るような内容に、何の反論もできない半神の少女がいた。
不気味なほどに星の明るい夜だった。空の藍色の雲も、ひと際色濃く見えた。幼い私はただひたすらに布団の中で泣くことしかできなくて、それが悲しくて泣いているのかそれとも悔しかったのかも混ざりあって。……いつしか疲れてそのまま眠ってしまった。




