☆5 帰してよ
(いつでも、君の笑顔を追いかけていた。
そうでないと、どこかであたしは今の生活に安心できなくて。ふとした拍子に見せるその色彩を瞳に焼き付けて、自分への肯定の言葉に変えて息をした。
駆け足の子ども時代。永遠にも思えたその時間が愛しい)
「ねえ、どうして杉也は……」
八重は何度もこの先を聞きたくなった。
その度に、理由をつけて呑み込んだ。
あたしは、今の日々が消えてしまうことが怖かった。みんなが人間でないことを知りつつも、やがて新しい家族のように感じていった。
(寂しくないわけではない。
本当の家族へ会えないことが辛い日もある。
不安が消えてしまうこともないけど、あたしはこのまま杉也との出会いを失ってしまうことがいつしか怖くなっていったんだ)
その日は綺麗な月が出ていた。
八重は、育てていた畑から日が暮れてゆっくり帰ってくる途中に、血相を変えた杉也がこちらに向かって飛んでくるのを見つけて驚く。
「杉也……?」
「お前、早くこっちに来いっ」
手を引かれて走り出す。
持っていたジョウロを地べたに落とし、八重と杉也は土臭い蔵の奥深くへ隠れる。口を手で塞がれ、何があっても逃げ出せるように扉へ張り付いて外を覗き見た。
「……息を潜めろ、何があってもここから離れるな。アイツに見つかりそうになったら逃げろ」
「アイツって誰?」と聞きたかったけど、真剣な横顔にやめておく。
外で、ずるずると何かを引きずるような音がした。
「どこだい? 行灯、杉也?」
狂ったような上っ調子の男の人の声だ。蔵の外で、聞きなれない人物がみんなを呼んだ。八重から離れた杉也が、なるべく堂々とした振る舞いで蔵の外へ出ていく。
「ウィリアム、夜に叫ぶな。森の皆が騒々しいと怯える」
「ああ、杉也。今日は本当にいい月夜だね、元気だったかい?」
そこで、来訪したアヤカシは鼻をひくつかせる。
「なんだか神の匂いがするなあ、杉也。お前からだ」
「なんの話だ?」
「高貴な匂いだ……まるでアヤカシのものとは似つかない。誰か他に来た客でもいたのかい?」
逆に、辺り一面に充満した生臭い臭いが八重の鼻に届く。
少女は視界に映ったウィリアムと呼ばれたアヤカシのいで立ちを見て、悲鳴を上げてしまいそうになった――彼は、全身を真っ赤な返り血で赤く染め上げていたのだ。
ぽたりぽたりと血の雫が地面へ落ちる。
話しながら二人はやがて、社の中へと入っていく。息も震えそうなほどになった八重は混乱する思考で硬直した。
「まさか……あのアヤカシが人を殺した?」
(杉也は最初、あたしのことを贄にすると云っていた。
あたしを食べない代わりに、もしかして他の子を犠牲にしたということ? それとも、口に出さないだけで次に殺される順番はあたしなのだろうか?)
「……いや…」
まだ死にたくない。
これまでに感じたことがないほどの寒気が走った。
「死にたくないよ」
自然と、震えた足で蔵の外へ出た。
冷たい夜風が、まるで気配を一変させたように感じた。
アヤカシのことを改めて怖いと思った。同時に人間らしい恐怖を思い出した。ガタガタと奥歯が鳴り、急いで山から逃れようと身体一つで小鹿のように走り出した。
行灯へ持ってきた土産を次々に差し出しているウィリアムに茶を出した後、急いで蔵に戻った杉也は八重がいなくなっていることにすぐ気が付いた。
「あいつ……、まさか」
独りでこの山を下ろうとしたのか?
半神である八重が夜の時間を一人で彷徨うのは危険だ。この辺りには雑妖が群れて彼女のことを狙っている。
自分たちが全く信用されていないことに苛立ちつつも、杉也は慌てて八重の残り香を追う。
道中の野山の木々が八重の居場所を隠そうとする。こちらを責めるように葉をならす。確かにそれは仕方がない面もあった。杉也は八重に一度刃物を向けたアヤカシだったのだから。
少女はまるでひな鳥のようだった。
ずっと隠しておければいいと思った。自分の心も、これから待ち受ける運命も何もかもを。
愛していたわけではない。好きになったわけでも、愛着を感じたはずもない。
(行方不明だ。憎悪も殺意も、
全部全部、アイツの言葉一つで全部なくして見えなくなっていくんだ。
人間を傷つけたい気持ちが消えてしまったわけでもないのに。
儚い願いを抱いてしまいそうなのはなんでだ。
気付くな。
頼むから、俺なんかの気持ちなんて……)
「…………っ」
見つけた。
今にも八重に向かって襲い掛かろうとしていた雑妖の群れをカマイタチで蹴散らす。鋭い刃で粉みじんにして、杉也は今にも叫びだしそうになった。
「こいつは、俺のだ!」
「杉……也、」
チリとなって消えた敵。その向こう側で少女は泣き出しそうな顔でこちらを見る。
それを見た瞬間に杉也の胸の奥で、なにか獰猛で暴力的な衝動が込み上げそうになった。
「大丈夫か……」
伸ばそうとした指先を、八重は払い落として拒んだ。
透明な大粒の涙がボロボロと零れた。杉也は心のどこかで勿体ないと思った。
「嫌いよ……」
八重は叫んだ。
「アンタなんか嫌いよ! 帰してよ、この人殺しっ」
少年は思っていたよりも激しく心が痛んだ。
騒ぎを聞きつけた行灯が迎えに来るまで八重はそのまま泣いていたし、杉也は頭が痺れて茫然と立ち尽くすしかなかった。




