☆4 生き方を教えてもらった
目を開けると、知らない空気を感じた。
眠れなかった夜。しんと静まった朝の温度に、少女はこの非日常がまだ続いていることを知る。
行灯さんの方は、まだ信じられそうだったけど。
自分のことをさらってきた、あの少年からは人間に対する敵意しか感じない。そのことが無性に不安で、彼女は胸元を握りしめた。
その時、布団の上にいたやえのところへ誰かの足音が聞こえてくる。
「……だれ?」
「おはようございます、御気分はいかがですか」
にこりと笑ったのは、行灯さんだった。
裸足のままで、やえは彼の後をついていく。案内されたのはあまりにも質素な台所で、そこには時代錯誤に忘れられようとしている炭が置かれた竈があった。
「あなたは竈で火をつけたことはありますか?」
「……ない」
「面白いことにね、案外こういった古いものの方が慣れるとご飯を美味しく炊けたりするものなんだよ。人間は、何でも不便だと言って足早に過去へ置いてこようとしているけどね……」
「そうなの?」
そんなこと、現代っ子である少女は知らない。
科学に囲まれて育った現代人であった彼女の目には、それがかえって新鮮に映る。
「良かったら、あなたもご飯を作ってみますか?」
「え?」
「生きるということの基本は食にあり、ですよヤエさん」
不思議な思いだ。
少女は殺されるためにここ連れてこられたはずなのに、何故かこの道祖神からもう一度生きることを教えてもらおうとしている。その提案は窮屈だった心を暖かくし、気が付けば警戒心は解かないまでも静かに頷いていた。
そういえば、手遅れになってから月之宮家の人間は料理の才能はまるでなかったことを思い出す。
案の定、天狗とは喧嘩になった。
「なんっだよ、このクソまずい朝食は……」
月之宮の末裔が用意した食事を生ごみでも見るような眼差しを向けていた天狗の少年は、口を押えて吐き気を堪えている。
「杉也。お残しは許しませんよ」
「父さん! こんなまずいもの食えるわけねーだろ! さながら牡蠣の殻でも食わされた方がよほどマシだってんだ」
「牡蠣の殻?」
「劇物だって意味だ!!」
ああ、そういうことが言いたかったんだ。この子の頭が良すぎてたまに言葉が通じない。
納得したやえに箸を向けて詰め寄り、杉也と呼ばれている少年は睨みつける。
「どうして父さんがいてこんな味になったのか理解しがたいけどな、飯ってのは命をいただくものなんだ。こんなゲテモノにされたら成仏できるものもできねえぜ」
「ひどい!」
あたしだって不味くしたくてしたんじゃないのに!
一触即発。喧嘩になりそうになった二人は火花を散らしてにらみ合う。
「あたしだって好きでこんなところに来たんじゃないもん! そんなに『食材』の気持ちが分かるなら、さっさとここから帰してよ!」
「あーそうだな! 生意気なお前なんか食ったところで消化に悪そうで吐き気がするぜ!」
「何よ! あたしと大して歳も違わないくせに!」
「な……っ」
今にも立ち上がりそうな姿勢で怒鳴りあう二人に、行灯さんがトン、とおもむろに両名の肩を押して席につかせた。
「……食事の時に、喧嘩をしない」
「だって行灯!」
「杉也。私に同じことをもう一度言わせる気かい?」
怖いオーラを出しながら凄みをきかせる行灯さんに、杉也は渋々と食事に戻る。落ち込みながらやえも箸を進めていると、道祖神である彼は仕方ないというようにこちらの頭を撫ぜてくれた。
「なんでも最初から成功する人なんていないですよ。そんなに落胆することはないんです。なるべく材料を無駄にしないことだけを、命への感謝を心がければそれでいいんだ」
「命への感謝を……」
……ごめんなさい。
やえは、思わず台無しになった食材に謝った。
すっかり萎れた花のようになった少女を見て、仏頂面になった天狗の少年は気まずそうに呟く。
「……ったく、行灯だけじゃ甚だ不安だ」
「それでは、杉也がこの子に色々教えてあげればいい。元々、自分がここに連れてきた子なんだから、彼女の生活の手助けをするべきではないかな?」
「……は?」
目を瞬かせた少年は、顎が外れそうな顔になる。その表情があまりにも間抜けだったから、やえは思わず小さく笑い出した。
「……俺が、こいつを?」
「学とは誰かに教えて初めて身に付くものですから。妹分ができたと思って教授に励みなさい」
「それはないぜ、父さん!」
笑い出したやえを睨もうとして、杉也はその表情が予想以上に愛らしいことに気が付く。小さな一輪の花は、咲く前から匂い立つようで。しばらく瞬きもせずに見惚れた後、少年はようやく我に返った。
「……お前、優しく教えてもらえると思うなよ」
それは余りにも負け惜しみの言葉だったような気がするけれど。
今まで感じたこともなかった心臓の動悸に戸惑いながら、杉也は腹を決めて目の前の朝餉をガツガツとかきこんだ。
杉也は、毎日こちらの手元を見て言った。
「手ぬぐいの絞り方が違う」
そういって、丁寧に布を持ってバケツの水につけ、滴りのなくなるまできつく絞って見せる。
いつもと同じような仏頂面。妥協は許さない。
埃を落とすには、上から下にはたきをかけること。布団は朝一番にたたむこと。緑茶は、お湯を冷ましてから淹れること。山に住む、野鳥の声の違い。朝露はいつ消えてしまうのか。湿気た風の匂い。お天気の雲はどんな形で雨を教えてくれるのか。
みんなみんな、背丈が伸びる過程で八重は彼からあらゆることを教わった。
(あたしを殺すはずだったアヤカシから、あの日、人間社会に潰されそうだったあたしは生きるということを新しく教えてもらって。
気付かぬうちに、他愛なく喧嘩するようになって……)
息を吹き返した心。その眼差しに移った大地の緑や澄んだ川の景色がまばゆい。
「お前は本当に何一つできないんだなあ」
そう言って、杉也は空を見る。
「違うもん。最近は少しできるようになったもの」
「へーへー、俺の足下に及ばないくせによく言うぜ。布団のたたみ方すら知らなかったんだから、良家の御姫様ってのは恐ろしいね」
「だって、家ではベッドだったし……」
杉也は普通に嫌味な奴だ。
けれど、本当にたまに。その眦の向こうで、何か複雑な感情が見え隠れしているのが分かるんだ。
憎しみとか、嫌悪とか、そういった様々な気持ちを我慢して八重の面倒を見てくれているんだと分かってる。
(……本当は、あたしのことだって目障りなんだろう)
どうしてこの少年は、人間のことをあんなに軽蔑して憎悪を剥き出しにしていたのだろう。その事情も知らないのに、果たしてこんな風に一緒にいていいのか。
そのような悩み事をしている八重の隣で、杉也はスケッチブックに写生をしている。社にあるものは一体どのように調達しているのかは知らないけれど、大分年季の入ったそれに鉛筆で森の風景を書き込んでいた。
少女も行灯さんに渡された裏紙に書いてみたけど、早々に名画候補から脱落をした。
「……わあ、すごい」
隣で出来上がりつつある透明な水彩画を見て感嘆の声を上げると、杉也はぎょっとしたようにこちらを見る。
「な、なんだよ」
「すごいよ杉也! どうしてそんなに綺麗に書けるの!?」
小鳥の歌声と川のせせらぎの音がする。
禍根を忘れた八重の本心からの言葉に、杉也は動揺したようなパニックの表情で固まっている。
「……これ、そんなにすごいか……?」
「まるで美術館にあるみたいよ! 杉也って絵の才能があったのね。自分じゃ気付かなかったの?」
「別に人に見せたことなんてなかったしな」
照れくさそうに少年はソッポを向く。
そのまま、反射的にというように失笑を浮かべた。
「恥ずかしいこと云うなよ」
「どうして? 良いものは良いで、いいじゃない」
「あー、もう。お前といると調子が狂う! のけ!」
「他にもあるなら見せて!」
「俺は人間に褒められるために描いてるんじゃねえんだよ!」
(そこに何もなくても。初めての笑顔はやっぱり嬉しかったから。あたしは、どうして自分がここにいるのか忘れてしまいそうになる。
ねえ、杉也。
空を飛ぶための翼があるってどんな気分?
訊ねたら、傷つけるかな。差別されてしまったように誤解されてしまうかな。
でもさ、羨ましいんだよ。
あたしにはできないことができる君だから、地を歩く人間の気持ちなんて分からないって知ってるけれど。
やっぱり、この日々に意味がないだなんて思いたくないよ。
思いたくないんだよ)




