☆2 命拾い
目を覚ますと、やえは知らない場所にいた。
裸足に伝わるひんやりとした温度の板の間。吹き抜けの高い天上の梁は、ぎしりと音を立ててきしむ。掃除は行き届いているようだけど、他所の家に行った時のような知らない匂いがした。
手首はきつく縛られて、この床に無造作に転がされているみたい。だんだんと克明になっていく思考が、ようやく状況に追いついてきた。
……つまりは。少女、月之宮八重は木立であの綺麗な少年に攫われたってこと。
ぞっとするくらいに美しかった彼の容貌を思い出し、やえの幼い心臓が小さく跳ねる。
ポニーテールにまとめられた長い黒髪。東洋らしく中性的な顔立ちに切れ長の瞳。琥珀色に輝いてまるで本当の宝石のようだった。
外見をまとめたら神秘的。その一言に尽きる。
(もしもこれがただの誘拐だったら、すぐに月之宮家のみんなが助けに来てくれる。あたしの場所なんか簡単につき止めるし、誘拐犯だってやっつけてくれる)
それなのに胸騒ぎが収まらないのは、これが普通の出会いだとはとても思えないということだ。もしかしたら、あの時出会った少年は――、
そこに、荒々しい足取りで誰かが走って来るのが聞こえた。
視線を動かすと、締め切られていた扉をあけ放って現れたのは、少女を捕まえてここまで連れてきた男の子だ。
女の子と見間違えてしまいそうなほどに整った顔を険しくして、こちらを苛立たし気に睨む。その手に持っているのは長い刃渡りのナイフだった。
「……お前、起きたのか」
「あなたは……」
私のことを見下ろして、炎のような強い意志のこもった眼差しで彼は紡ぐ。
「はは、どんな気分だよ。生来神の子ども。アヤカシごときに捕まってこれから贄として料理されるっていう気分はよお……」
「料理? あたしを?」
その言葉を聞いて――、
心臓が冷える。
「なにそれ、月之宮のお金が欲しいんじゃないの?」
「そんなもの、誰が欲しがるかよ」
長い黒髪の少年は器用にナイフを一閃、くるりと回す。暗い室内の少ない明かりに反射した金属の輝きに魅了されたように目を動かして……狂ったように笑った。
「俺が欲しいのはなあ……、お前が分不相応に持っている全てだ。金なんてちゃちなもんじゃ満足しないぐらいに行灯は虐げられて、ギラギラに飢えてんだよ」
「お金ならあげる……!」
「だからんなもんいらねえって言ってんだろ。分かんねーのかよ、ガキ」
「あたしを誘拐したことはすぐにみんな気付くもの! ただの子どものあなたなんかすぐにお兄ちゃんが倒して……」
少女は、誘拐犯に生意気なことを言った。
ダン、と大きな音が鳴る。気が付けば勢いよく突き飛ばされていて、顔の横にはナイフがつきたてられていた。
「まあだ気付かねーのかよ、クソガキ」
室内に差し込む光が揺らぐ。
舞い上がったのは、砂ぼこり。少年の背中から大きく広がった翼は半透明に輝き、その存在と重圧を鮮明に伝えてくる。
「……俺は人間じゃない。お前も、勿論人間なんかじゃない。言い残してーことはこれで全部か?」
囁かれた言葉の意味も分からずに必死に頷く。
ナイフの柄が握られ、すっと相手の瞳から感情が消えた。
これで死んじゃうんだって、怖くなった。
(この子がアヤカシであることは分かったけど、あたしが人間じゃないってどういう意味だったんだろう。
もっとやりたかったことだっていっぱいあると思ったのに。誰かに謝らなきゃいけないことだってあったのに)
そんな後悔を感じながら瞳を閉じた。その端から、一筋の涙が溢れて落ちた。
「止めなさい、杉也」
その静かではっきりとした声が聞こえなかったら、やえは本当にここでアヤカシの少年に殺されているところだった。
首筋にあてられたナイフの冷たさが。
やがて、渋々といった具合にその凶器が少女の弱点から外される。どうしようもない恐怖から解放されたやえが目を開くと、猫の子のように少年を掴んでぶら下げた男の人が険しい顔でそこに立っていた。
「……君にはほとほと呆れました。いくら消滅が近いからといって、私がこんなことをされて喜ぶと思っていたのですか。杉也」
「邪魔をするな、父さん」
「いいえ、私は道案内の神として君のすることを許すことは到底できない」
「だったら、他に何か方法があったと言うのか!」
ゆっくりと首を横に振った男は、侮蔑的な眼差しを少年に向ける。
「しばらく私に話しかけるな。黙って自分のしたことの何が悪かったのか考えていなさい」
言われた内容よりも、その視線の温度の低さ自体がショックだったようで、少年は雷に打たれたように真っ白になる。
灰になった彼をよそに、未だ硬直していたやえに向かって男の人は穏やかに笑いかけてきた。
「この度は、うちの馬鹿息子が愚かなことをして申し訳ありませんでした。お怪我などはありませんでしたか?」
「…………っ」
(あ、この人は本当に優しい人だ)
それを肌で察したやえは、ホッとして一斉に涙が目から溢れてくる。
「……っく、あ、あたしのこと料理するって……」
「いやいや、そのような暴虐はちゃんと中止させますからっ 君のことは私は食べるつもりはまるでないから安心して欲しい!」
(ホントに食べるつもりだったんだ。
あたしのことを殺して食べちゃう予定だったんだ)
怖さに震えて、涙が全然止まらない。
「……たし、人間じゃないって」
「確かに、あなたはちょっと変わっているようだけどね。それでも全く人間ではないということではないようだから気にしないで……」
煮え切らない言葉。
泣いて泣いて、ようやく最後に一番聞きたかったことが聞けた。
「……お家に、帰してもらえますか?」
そう訊ねた瞬間、男の人は引き攣った顔で固まった。
視線が右にいき、左にいき、やがて頭を抱え絞り出すような声で呻かれる。
「杉也は本当にとんでもないことをしてくれた……っ」
まとわりつくような重苦しい空気の中で鼻をすすりながら思った。
何故だろう。優しいはずの彼のその返事が。
……まるでもうお前は二度と自宅へ帰れないと否定されたように感じてしまったの。




