☆314 置き去りにしないで
「……奈々子」
室内に入ってきた奈々子は、ため息をつく。
凍り付いたように動けない私に向かって、静かに言った。
「昔から八重ちゃんは諦めが悪いとは思っていたけれど、まさか本当にここまで栗村さんを助けに来るなんて」
「私がここに来るって予想していたの?」
「なんとなくだけど、そんな気はしていたわ」
私は彼女がテーブルに置いた救急箱に心がざわめく。……まさか、ずっとこの部屋で希未の手当てをしていたとでもいうのだろうか?
敵である彼女が何を考えているのか分からない。
しかしながら、これだけの用意があるというのなら、檻を開ける鍵も持っているかもしれない。
「……それなら私の云いたいことも分かるわね? 早く希未をこの檻から解放しなさい、奈々子」
「ねえ、八重ちゃん。あなた、本当にここから逃げられると思ってる? ここから出て、自分が確実に倖せになれると信じられる?」
静かな問いかけだった。
私は、唇を噛む。
「信じるわ、そうでないと意味がないもの」
「未来なんて何が起こるか分からないじゃない。そんな不確定要素の強いものにどうしてそこまで期待できるのか知れないわ。
ねえ、どうしてその大切なものがあたしじゃいけないの……?」
震えた声で、奈々子は話す。
霧がかった瞳が大きく揺れる。
近づいてきた彼女は、冷えた私の手をとって告げた。
「お願い、月之宮を出て行かないで」
「それは……」
「あたし、あんなに頑張ったのよ……っ あなたの好きだった小説は全部読んだ! あなたの為にゲームの物語を綴った。この三年間、あなたの魂を救うことばかりを考えてた……」
次第に奈々子の涙が頬を滴った。
「全部あたしが成りたかったものは奪われた。八重ちゃんの隣はあたしのものだったのに、アヤカシに全てを盗まれたようなものだわ。……ねえ、途方に暮れているの。この後の収拾のつけ方なんて、あたしだって分からないもの」
とめどなく涙を流して、奈々子は泣いた。
私に向かって。もしかしたら、自分自身に向かって。
「――お願い、八重ちゃん。あたしの考えた悪役令嬢のままでいて! あたしをこの残酷な家に置き去りにしないで…………お願い……っ」
その言葉は本物。
すがりつくようなその悲痛な声に、私は心が震える。
「お願い、お願いよ! だって謝ったって取り返しなんかつかない!
強がらなくちゃ生きてなんかいけない! あたしは人殺しなのよ、この激痛でどうやって息をしろっていうの……っ」
彼女の考えた悪役令嬢のままでいて欲しい――ある種純粋なその願いを、私は聞くことがもうできない。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。何故奈々子にこんな辛い思いをさせてしまったのか。
求められても、私は唯一彼女だけに愛を注ぎ続けるような人生を歩むことはもうできなくて。そして、そうすることが奈々子の為だとも思えない。
思った。
この子が、独りぼっちで可哀想だと。
そう感じたら、言葉は溢れるように出てきた。
「忘れたいと思っていたの。あなたが私の為に人間を殺してしまったことを、忘却してしまえば消えてなくなるのだと思っていたの」
奈々子の引きつったような眼差しが動く。
私は自分の感じたことを淡々と話した。
「でも、そうじゃないんだわ。……この痛みは、私たちが生きている証拠なの。人の心を持っている証よ。だからきっと、楽になってはいけないことだったんだわ。
それを何も感じなくなったらただの化け物よ。あたしたちは自分が人間だと証明する為に、この痛みに耐えなくちゃいけないのよ。
私は、あなたの為だけに生きることはできない……。できないけど、一緒にやり直すことはできるかもしれない」
「……何を……」
「それは、きっかけは些細なことだと思うわ。生きることをやり直すってきっと、簡単なことじゃないもの。それでも、少しずつ変えていくの。私は、もう……あなたを見捨てようとは思わない」
茫然としたように、奈々子は立っている。
そんな彼女に、私は微笑みかけた。
「……外に行こう、ななちゃん。もしかしたら世界はまだあたしたちのことを必要にしてくれるかもしれない。
座る椅子がなくても一緒に歩いてくれる人がいるかもしれない。愛してもらえるかもしれないじゃない」
「無理……むりよ、そんなの……できるわけがない」
「あたしは外で生きるってもう決めたの。それは完全に月之宮を出るって意味じゃなくて、もっと精神的な意味だけど。
そして、できるならそこにななちゃんも居てくれると嬉しい。あたしは、あなたと痛みを分かち合って生きていきたい」
「…………っ」
外の風が止んだ。
悲痛な表情をしていた奈々子は、今は子どものように泣いている。
こんな一言で彼女の闇を雪げるなんて思ってない。それは、もっと時間をかけてやっていくことだ。
けれど、不器用な彼女が私を救いたかったように。その過程は間違っていたとしても、私は彼女を救うことで返そうと決めた。
「ごめん……ごめんなさい……あたし、酷いことを」
「外に行こう、ななちゃん」
彼女は、泣きながら頷いた。




