☆286 寒空の独白
かなり短めです。
奈々子の居場所は、中庭の木陰の近くだった。
ベンチで体育座りをしている彼女の下に歩み寄ると、暗く項垂れていることに気が付く。
私は何を言おうとして追いかけたのか。それを一生懸命に考えながら側に向かうと、顔を上げないままにこう言われる。
「云っておいて。あたしは、庶民なんかと付き合う気なんかないって……」
その断り文句を耳にして、私は思わず嘆息した。
「……どうしてそんなことを云おうと思ったの?」
奈々子は静かに呟く。
「……知っているくせに」
確かに、理由なら重々承知していた。
聞くまでもなかったことを喋った。正に無遠慮な質問だった。
「仕方ないじゃない。あたしには幽司様との婚約があるのだから……」
「でも……」
「私たちには自由なんてないの。選ばれた家系に生まれた務めを果たさなくてはいけない呪縛に囚われている」
濡れた声で、彼女は吐き出した。
今まで薄々と感じていた後悔が、私の心中でこみ上げてくる。
私はもっと慮るべきだった。
義兄と彼女の婚約がどういったものなのか、それを周囲に決められた奈々子の気持ちはなんだったのか。
そういったものにこそ、真実は隠れていたのだろうか。
あなたはずっと……足首を冷たい鎖に繋がれたような心地で、今もそこにいるのかもしれないのに。
「……ねえ、家の為だけに作られた子どもの気持ちが分かる?」
唐突に、そう訊ねられた。
戸惑うこちらに、奈々子は話す。
「八重ちゃんにはきっと分からないわ。だって、あなたはおじ様とおば様が愛し合って生まれた人間ですもの。月之宮で育てられたとしても、あたしとは根本的に違う。
あたしのお母様は、霊力の高い子どもを産ませる為だけに選ばれた妾よ。
あたしは、一度も御父様に手を繋いでもらったことがないの。愛されるためには、望まれるためには同世代の陰陽師と比べて一番になるしかなかったわ。誰かを蹴落とすのが当たり前の環境だった。そんな中で、あなたに出会ったのよ」
いつの間にか、空からは雪が落ちてきた。
濡れているのはその結晶が溶けたからなのか、それとも彼女が泣いているからなのか。
「あなたは自分が思うほどにあたしのことを好きじゃない。そんなこと、気付かないでいたと思ってる?
アヤカシにはあんなに惹かれていくのに、陰陽師という絆があったはずのあたしのことなんかいつだって過去に捨てていける人だった。
それが、どんなに……。どんなに!」
早口で彼女は訴える。
「歪んでいることなんか、分かっていたの。傷つけたことも、分かっているの。ねえ、虫が良すぎると思わない?
こんな歪な人間が、今更愛して欲しいと願うなんて、間違っているとしか思えないわ。誰かからの愛され方なんて、そんなの最初から知らないのに……っ」
その孤独な嗚咽は、悲痛だ。私は金づちで殴られたような思いになった。
ちっぽけな女の子が泣いているように見える。
誰もいない暗がりで涙を流しているように。
伸ばした手がいつも拒まれているばかりだったなら、人間はいつの日か求めることも忘れてしまうのではないだろうか。
期待することさえも、やがては痛みに変わってしまう。
そうして、誰かを陥れてはそれを痛み止めにしようと努める。
他人よりも自分が優れていると信じたくなる。無価値ではないという証明を探しても、最終的には答えがないことを知る。
善良な人間にとってその行為はより自分を自己嫌悪に導くものだ。
誰かを傷つけてしまう己のことが嫌いになってしまう。その負のスパイラルに嵌っていたとするならば、奈々子の心理状態は決して平穏なものではなかったことだろう。
「…………」
私たちは、どちらも自分のことで精一杯だった。
そのことが分かって、なんだか私までもが泣きたくなった。
何も声を掛けてあげることができずに、私は嗚咽を洩らしながら泣いている奈々子の背中をさすってあげた。
「今更、好きだなんて云えない……っ そんな資格なんてない……」
夕霧君を想って泣くあなたに、なんて答えたら正解だった?
中途半端な同情は毒にしかならない。義兄からの同意もなしに婚約を解消できるだけの権限もない。
だけど、気付いてしまったから。
孤独を抱えていたあなたの存在に、気付いてしまったから。
それは、きっと辛いことであっただろうと思うから。
あなたに幸せになって欲しい。
舞い落ちる雪の中でそう思ったのは、傲慢な願いであっただろうか。




