☆241 バラ色と修羅
なんだか、最近東雲先輩との今後を考えてしまうだけで、世界がバラ色になったようだ。
寝ても覚めても妖狐との結婚生活を妄想しちゃうのは、流石に馬鹿になりすぎというものだろうけど。
できることなら、元の自分に戻りたいとか本音と裏腹なことを考えて、起きた直後の枕に羞恥で拳をバンバン打ち付けた。
おかしい。あの約束をした直後よりも、時間の経った今の方が精神汚染が進んでいる。相手はまるで気にしていないというのに、爽やかな脳内を取り戻さないことには日常に支障がでるのだ。デレデレとした顔を衆前公開は恥ずかしい。
そうだ。いっそのこと、彼の悪いところをピックアップすることで冷静さを確立するのはどうだろう! どんな人間にだって、欠点の一つや二つ存在するはず……って。
……そもそも、本性は人間じゃないし。
……先輩、アヤカシだし。
ああ、考えても考えても口元がにやけてしまう! こんなことを考えているのを知られたら、幻滅されるかもしれないのに!
あれ? もしも結婚するとしたら、毎朝の料理はどちらが作るのだろう。我に返ってみると……相手の粗探しをする以前に、今の腕前で手料理を振る舞ったら率直に離婚の危機だ。
世の中には、嫁のメシのまずさで別れる夫婦もいるという。
サッと自分の顔色が青ざめる。
ヤバい。先輩には以前にクッキーを食べてもらったことがあるけれど、このまま向上心も何もなく呑気に好意に胡坐をかいて、月之宮八重の殺人料理を改善しないのは非常にマズい。
まかり間違ったら東雲先輩と結婚した初日に自分の旦那をうっかり殺めてしまうかも。初夜の衣装とかそんなどーでもいいことに悩むより先に、そちらの心配をしろということだ。
「ど、どうしよう……」
まさか入り婿してもらうわけにいかないし?
シェフを雇うというのも、それはそれでどうなの? もしかしたら私、結婚後は普通の生活をすることになるのよね?
主婦業なんて私にできるのかな?
「っていうかあの馬鹿兄が帰って来ないことには、今までと同じように陰陽師の仕事は結局私がやるしかないじゃない!」
私は、気が付いた現実に枕に八つ当たりをした。
地域のパワーバランスを考えるとバックレることもできないのが悔しいところだ。
全く、どこにいるというのだ、あの風来坊は! もうこれでいなくなってから一年が過ぎたというのに、日本に帰ってくる兆しも見せやしない!
本来の跡継ぎは義兄さんだというのに、こんなことでいいのだろうか……。
「八重さま、何を騒いでいるの?」
ガチャリと開いた扉から、松葉の声が聞こえてきた。
「な、何でもないわ。少し嫌なことを思い至っただけよ」
「ふーん」
少し鼻筋にシワを寄せた松葉が、不信そうな目を向けてくる。じとっとした眼差しに冷や汗を隠しながら曖昧に笑って見せると、こんなことを言われた。
「なんだか最近、八重さまの様子が変。何か隠し事をしてるんじゃない?」
「き……、きき、気のせいじゃない?」
「なんかさー、こういうのって水臭いよ。僕だって一か月に数回ぐらいは何か役に立ちたい気分になったりするんだから」
「ひどく怠け者な統計ね」
私がそんな感想を洩らすと、松葉は複雑そうな顔をしていた。
「……それに、そんなことでもしないと僕がここにいる理由にならないじゃないか」
聞こえない程度の声で何かを呟かれる。首を傾げると、松葉はうっすら微笑んでこう言った。
「なあに?」
「……なんでもない」
なんだか様子がおかしい。
いつもならもっと距離感が近いはずなのに、先に階段を下りていくカワウソの背中はよそよそしさが増している。
それが妙に違和感を与えてきたけれど、ついぞ理由を聞きだすことはできなかった。
冬だというのに、温かさを感じる朝の陽ざしだった。
登校の為に校舎に踏み入れ、私は手持ちのシャーペンの芯が尽きていたことを思い出し方向転換をした。
購買に向かって急ぎ歩いていく途中、幾人もの生徒とすれ違いながら進んでいくと、校舎に入ろうとしたところで何者かに声を掛けられる。
「ねえ、あなた」
意表を突かれて振り返ると、風に髪を揺らした目の覚めるような美人が視界に飛び込んでくる。アッシュグレーのロングボブヘアーに、抜群のスタイルをきつそうな服に押し込めたお色気の漂う若い女だ。
年頃は24、6歳といったところに見える。眩しくて赤面しそうになるのは、高校という学び舎に似つかわしくない破廉恥な服装を彼女がしていたところだ。
「な……」
爆弾のような巨乳を揺らし、不審者の女は白い腕を軽く組む。ショーツの見えそうな極ミニのスカートから覗く素足に赤面しそうになってしまうと、彼女は薄く笑ってこう言った。
「……あら、あなた。思ったよりも可愛らしい子なのね。もしも暇だったら私と一緒にお茶でも……って、そんなわけないか」
ここは学校だものね、きっと忙しいわよね。と、女は口惜しそうな流し目を送ってくる。左目の下には黒子があった。
「ここではつまみ食いができなくって残念だわ」
「は、はあ……」
意味が分からないセリフ。
「ごめんあそばせ!
聞きたいのはね、この近くでアイスを売っている場所を知っていたら教えてもらえないかしら?」
……その薄着で、冬なのにアイス?
その言葉を聞いた瞬間に、私の中で疑問が浮かぶ。
どこかぐったりとした声で女性は疲れた笑みを向けてくる。どうやら冗談というわけでもないらしい。ならば。
それを聞いた私は、まるまる三十秒沈黙した後に。
「……そ、それならあちらの方に購買が」
「あら、ありがとう! ちょっと学校に尋ね人があって来たんだけど、なんだかすごく都会の暑さで火照っちゃって! ……なんだか色々持て余し気味なの、すっごくね」
ぺろりと彼女は妖絶に唇を舐めた。……明らかに不審者が校内に侵入しているのですが、そこのところは深く突っ込まない方がいいのだろうか。
……まさか、アヤカシ? 私はひくりと口端を引き攣らせる。
すると、混乱しているこちらの気も知れず、名も知らぬ女性は軽やかにステップを踏んで、華やかに笑んだ。
「……あの、誰を探しに来たんですか」
思わず不審に思いながらも訊ねてしまう。否、そこには訊ねざるをえない雰囲気があった。女の滑らかな足に履かれたヒールのついたサンダルからカツン、と音が鳴る。小首を傾げた相手が照れながら微笑みを浮かべた。
「うちの弟と東雲様にちょっと話があって」
「……へ?」
聞き間違いだろうか。すごく聞き慣れた単語が耳に飛び込んできたような。
カチンと凍り付いた私に、ひんやりとした風情の女性は綺麗にお辞儀をしていなくなる。呼び止めるタイミングを逸したうちに、放送室のスピーカーからチャイムが流れた。
きーん、こーん、かーんこーん。
私の顔が歪み、いつの間にか浮気をした妖狐への怒りの炎が宿る。
バラ色の世界が、一転して修羅に染まった。




