☆227 みんなで帰ろう
「……鳥羽!」
慌てて声を掛けると、顔を上げた天狗が驚いた顔でこちらを見る。
「月之宮……?」
戸惑うように向けられた瞳に、彼の頭から今までの出来事の記憶が失われていることを知り、私はショックを受けた。
拳を握り、勢いで鳥羽の頬を殴る。
「な……、何するんだよ、てめえ!」
「うるさい……うるさい!」
何もかも忘れてしまった鳥羽にこの怒りをぶつけるのは間違っているとは思う。けれど、一回ぐらいはこうして殴る権利くらいあったはずだ。
やるせなさに涙が滲む。そんな私に、困惑顔をした鳥羽とウィリアムがこちらを見ている。
「ホントに馬鹿……っ」
この思いを、どう整理したらいいのか分からない。
私たちも散々な目に遭ったけれど、あんなに慕っていた父親を亡くしたコイツを切り捨てることなんてできない。
最後に行燈さんから頼まれてしまったから。そういう約束だから。
かといって、すぐになんでも水に流せるわけではない。不完全燃焼な怒りが今もぐるぐる渦巻いている。
歯を食いしばっている私に当惑の表情になったウィリアムが、優しく言ってきた。
「お嬢ちゃん、前に道案内してくれた子だよね? どうも俺も前後の記憶がないんだけど、ここで何があったのか分かる?」
悲しい。
「お前もか……、俺もちょっと今の状況が分からねーんだけど」
哀しい。
奪われてしまったものが、失くしてしまったものが大きくて、多すぎて。戸惑う彼らの様子に絶望を感じていると、松葉がため息をついた。
「まあ、ボクは覚えているんだけどさ……。どうすればいいんだよ、こんな場所に天狗と一緒に放置されて……」
「本当!?」
「わあ!?」
振り返った私の剣幕に、松葉が引く。
「だって、ほら、ボクって一応神様関係者だし? むしろ何で八重さまが覚えているのかそっちの方に疑問があるんだけど……」
「僕も覚えていますよ」
「妾も……」
気まずそうにそう申告され、私はようやく状況が分かった。
つまり、一度でも神様になったことがある者は今回のことを全て覚えているのだ。主犯格二名の記憶だけが消えてしまったというのは理不尽なものを感じるけれど、行燈さんのことを全員が忘却しなかったことにホッとする。
「……何があったんだ?」
「お前は一生忘れていた方が身のためです」
「いや、訳が分かんねえって」
キョトンとしている鳥羽からは、既に敵意のようなものは消え失せている。何を考えているのか分からないウィリアムに至っては幼子のような瞳になっていた。
「なんでだろう。俺、魂が洗われたような気分がするのに、なんだかすごく切ないんだけど……」
「……それは良かったですね」
「おかしいなあ、さっきまで街中にいたはずなのにな。あ、俺のバイク発見!」
ため息をつくしかない。
ふと隣を見ると、社のあった跡地には小さな道祖神の石像が一体立っていた。苔むした石は随分昔からここを守っていた証があって、たまらなく切ない心境になる。
両手を合わせて祈っても、もうここに神はいない。
その時、微かな声が聞こえた。
「うう、ん……つきのみや……さん……?」
小さく枯れた声に、慌てて視線を移すと、白波さんの意識が戻ったところだった。驚きに私は息を呑む。
「白波さん!」
長いまつ毛が瞬きをして、うっすらと彼女の唇が笑みを作る。
「白波さん……っ」
何度も名前を呼んで、白くまろい手に縋り付く。血色の悪く冷たい肌を野ざらしにするのは酷だ。私の着ている上着を脱いでかけてあげようとしていると、白波さんは優しい声で、
「鳥羽君はそこに居ますか……?」と尋ねてきた。
記憶はないはずなのに、びくりと鳥羽が身じろぎをする。そんな彼に向かって首を動かそうとした彼女はしかめっ面になった。
「…………ッ」
「そんなすぐに動いちゃダメよ!」
「月之宮さん……、私、さっき鳥羽君のお父さんに夢で逢ったの……」
途切れ途切れにそう話した白波さんは、菩薩のように優しい。意味が分からないながらも、彼女の言葉に鳥羽は聞き入る。
「……あのね、この世に帰ってくる途中で杉也君のことをよろしくって謝られたの。だからね、私は……」
「……そう」
「だからね、月之宮さん……。分かりましたって私は返したんだ」
白波さんに、鳥羽が言う。
「……俺、お前が何を言っているか分かんねーけど」
「うん」
「もしかして、その傷って俺が付けたのか……?」
「……違うよ」
誰にでも分かる見え透いた嘘。
ぐしゃりと鳥羽が顔を歪ませる。「なんでそんなことを……」そう呟いた彼に、白波さんが綺麗に笑った。
「でも、私は怒ってないよ」
「は……、」
放心状態になった鳥羽は口を半開きにする。
やがて、唖然としていた彼の頬に一筋の涙が伝い落ちた。ぽたり、ぼたり。しょっぱい雫が土の上に落下する。
「なんで……」
どうして泣いているのか自分でも分からないのだろう。戸惑いの表情を浮かべた天狗の手を、白波さんの手が包み込んだ。
「帰ろう、鳥羽君」
彼女は故郷と父親を無くした鳥羽に向かって、囁いた。
「みんなであの街に帰ろう」と。
それは、いつもと同じくらいに温かな言葉だった。




