☆209 文化祭 (2)
私が私でなくなったような、嫌いだった自分がまるで人生の主役のようになれたような、そんな甘美な錯覚が消えぬまま。目の前にいる彼女の大きな瞳が満天の夜空の流星群みたいに輝いた。紅色の唇が動く。
「私、いつか月之宮さんに恩返しをしなくちゃいけないよね」
驚きに、私は飲んでいた緑茶を取り落しそうになる。白波さんは満ち足りた表情で言った。
「……恩返し?」
「しなくちゃいけないっていうか……私がそうしたい。もしもこれから未来で月之宮さんが助けて欲しいことがあったら、いつでも必殺仕事人の白波小春を呼んでください!」
そのおっとりとした口調とは裏腹に、なんと前向きで男らしい言葉だろう!
にこっとした彼女の笑顔に、私はたまらず笑い出した。
その反応に、相手は唇を突き出す。
「んもう、なんで笑うんですか」
「だって、仕事人とか云うから……」
そんな会話をしていると、階段を降りてきた希未が不満げな顔をしてこちらを見ていた。どうやら私と白波さんが仲良くしている様子が気に入らないらしい。
腰に手を当てて近づいてこようとした我が友人は、それより先に私へと話しかけた同学年の女子2人組に阻まれた。
「あの、月之宮さん……。少し、時間いい?」
いかにもサバサバしていてモテそうな子たちだった。何か用事があるらしいが、自分たちに集まる人目を気にしている。
「……そうね。白波さんはここで待ってて」
私がそう言い残して彼女たちと一緒に体育館を離れようとすると、何故か声掛けをしていない希未が衣装を着たまま付いてきた。
だが、2人組の方はそのことについては構わないようで、文句は返ってこない。
やがて、体育館の裏手に出ると、勢いよく頭を下げられた。
「ごめんなさい!」
何のことで謝られたのか理解が追いつかない。怪訝な表情をしているこちらがそのことを話すと、彼女たちは言いづらそうに告げた。
「私たちが、柳原先生と月之宮さんの写真を掲示板に貼ったんだ……」
「あ……ああー!」
つい最近の出来事なはずなのに、精神的には随分前の事件に感じた。もっと差し迫ったウィル・オ・ウィスプのことばかり考えていたせいで、すっかり忘れていたのだ。
「ふうん、八重に迷惑をかけたって自覚はあるんだ」
希未が鼻筋にシワを浮かべる。
「希未、そういう言い方はしないの」
「だってさ、アレって悪意を感じる事件だったじゃん。よくもまあ堂々と名乗りでることができたよね」
爪を立てそうなほどに怒りで拳を強く握り。小石を蹴った希未の悪態に、彼女らは縮こまる。ひとまず、この重い空気を払拭せねばと私が冷静に語りかけた。
「あなたたちは、何を思ってあんなことをしたのかしら?」
私の言葉に、向こうは慣れない敬語で途方に暮れた声を出した。
「……あの時は……偶然、街中で2人を見かけて。月之宮さんと先生が、その、不純交遊をしていると思ったんです。だから、正義感だけで……その……」
「深く考えてやったことではありません! 今では、月之宮さんがどんなにみんなの為に頑張る人か分かったから反省しかなくて……」
鼻の詰まったような口調に、後悔が滲み出ている。
不機嫌な希未は睨みつけると、
「それでのこのことお優しい八重に許してもらおうとしたの? どんなに都合のいいことを云ってるか自覚は? あれで傷ついた人間もいるんだけど? 謝ったぐらいで取り返しがつくと思ってるの?」と毒舌を吐いた。
「……希未、そこまで云わなくていいわ」
私が、苛立っている希未の口を塞ぐ。今にも噛みつき、殴りかからんばかりになっている友人でも、流石に私の指を食いちぎろうとまでは思わない。
「私、あの日は柳原先生にクラス演劇のことで相談があったの。決して、みんなが思っているような不純な動機があったわけではないのよ」
なるべく平常心で告げると、相手の顔色が悪くなった。
「だから、あんな風に取り沙汰されて、少しも傷つかなかったといえば嘘になるわ。ショックにも思ったし……人間というものに落胆もした」
けれど、それだけで済んで良かったとも思うのだ。
クラスのみんなにつるし上げられそうになったのが、遠野さんでなくて良かったとも。
突き詰めれば、それはこういう思いになる。
不幸になったのが、私で良かった。
何故なら、私は、自分というものが――、
「私は、私のことが元々嫌いだったから、その程度で済んだけれど。傷つく前に心が麻痺していたから、痛みを感じにくかっただけで、きっと悲しかったんだと今なら思うわ」
思うままに述べると、彼女らは不思議そうな顔になる。
「それって……どういう」
「分かってほしいとは思わない。あなたたちがもう二度と同じことをしないと誓ってくれるのなら、私は2人を許すわ」
居心地の悪い沈黙が、場を支配した。
まるで酸素が薄い高山を歩いている。そんな風に呼吸が浅くなって、胸が苦しくなる。
彼女たちを許したはずなのに、逆に断罪してしまったような気分になって罪悪感らしきものを覚えていると、物陰から誰かが悠然と現れた。
「……こんなところにいたのか、八重」
色素の薄い白金髪。恐ろしいほどに整った鼻梁の高い美貌。アクアブルーの瞳。温かく包み込むような低い声で、彼は私の名を呼んだ。
「え。東雲先輩……」
どうしてこんなところに。
そう問いかけようとすると、「探していたんだ」と笑いかけられた。
「もう用事は終わりかい? 悪いけど、ちょっとこの子を借りていってもいいかな? デートをする約束をしているんだ」
私を颯爽とお姫様抱っこした先輩の言葉に、2人組の目玉が落っこちそうなほどに見開かれる。瞬時に私の血液が沸騰しそうになったところで、希未が即答した。
「どーぞどーぞ! もう連れてっちゃってください! どうせ大した用事じゃなかったんだから! むしろ反対する奴らがいたらぶん殴ってやるってなもんですよ!」
「お……お幸せに!」
「月之宮さん、お幸せに!」
何故かそんなセリフを彼女たちにまで貰ってしまった私は、羞恥に白目を剥いて叫びたいぐらいの心境だった。
なんで……、なんでこうなった!
「東雲先輩、目立つから下ろして……」
真っ赤になりながらももごつくと、彼はにこやかに笑う。
「ダメです」
「だって、みんな、みんなが見て……って、先輩、いつから私たちのことを覗き見していたんですか!」
「さあて、いつからでしょうね」
一見機嫌が良さそうに思えるけれど、知り合ってから半年ほどになる(実際はもっと長いのだろうけれど)私には、その裏に隠された彼の苦虫を噛み潰したような心境に気が付いた。
「……先輩、もしかして怒っています?」
私をお姫様抱っこしている妖狐は黙って、口端をニヒルにつり上げた。




