☆198 死因に満ちている世界
長い行列が見える。
くるくるとスカートを広げて回転した希未が、嬉しそうに言った。
「私の知っている中でクレープが一番美味しいのはこの店! ベリーベリーズ!」
深々と私は嘆息し、男性は物珍しそうな顔になる。
「ふーん、人気なんだね。この店は」
「お兄さんは日本に来てから何年ぐらいなんですか?」
「大分昔だよ。当てられるかい? 可愛い子ちゃん」
「へえー、海外からの一時的な旅行客というわけではなさそうですね、にしし。五年とか!」
当てずっぽうな希未の解答に、男性はしらばっくれる。行列の最後尾に並びながらそんな2人を遠巻きに眺めていると、彼は紫の瞳でこちらにウインクをしてきた。
「俺の名前はウィリアム。出身はイギリスだけど、一時期はアメリカにもいたかな」
「わあ、カッコイイ名前ですね!」
「はっはっは、英語圏じゃそこまで珍しくもない名前さ」
白人の男性、ことウィリアムと名乗った彼のセリフに、私は寒気を覚えた。
「ウィリアム……?」
ウィル・オ・ウィスプの伝承に出てきた亡霊の名前は、確かウィリアムではなかったか。
けれど、目の前の彼の瞳の色が違う。奈々子の云った不滅の迷鬼の特徴と符号しない。名前だけで怪しむのは良くないことだと思うけれど、警戒するにこしたことはないのだ。制服のスカートのポケットに入れてある小刀の柄を落ち着きなく触りながら、私はすっと目を細めてウィリアムのことを観察していた。
何にせよ、ここで私がボロを出すわけにはいけない。対象に不審がられることがないように振る舞わなくては。
「八重! ウィリアムってば、私みたいないじらしい女の子は見たことがないって!」
何も気づかずにはしゃいでいる希未が、頬っぺたを艶々させながら言う。
「……そう」
「よく分かってるよねー。我ながら私ほど健気な女の子はこの世にはいないって思うもん」
「あの……希未?」
どうしたら希未を安全にこの場から引きはがすことができるのか、とんと見当がつかない。恐々と彼女に耳打ちしようとするのだけど、
「……やっぱり早く帰りましょうよ。みんなも心配しているかもしれないし……」
「ウィリアム、奢ってよ! 私はこの南国パイン&マンゴー生クリームがいい!」
こちらの言う事を少しは聞いてよ!
ピキリと青筋を立てた私に対し、希未は喉を鳴らす猫のような機嫌の良さでウィリアムにクレープをねだっていた。
「いいよー。じゃあ、俺はこの店でおススメされてる三種のベリーとチョコレート生クリームにしようかな。君はどうする?」
ウィリアムの問いかけに、私は冷たい目をしたままで「カスタードバナナ」と一番安い組み合わせを告げる。
「りょ~かい」
ニッと笑った彼は、ミリタリージャケットのポケットから煙草を取り出すと、ライターでそこに点火する。たちまち煙がこちらに流れてきて軽く咳をしても、彼は周囲に気を遣う性情をしているわけではないらしく謝罪の言葉は無かった。
太陽に稲わら色の髪が透けて、彩度が薄くなる。紫色の眼差しで笑顔を浮かべたウィリアムは、少し身を屈めて私たちにこんなことを言った。
「君たちは、この近くの学生さんなのかな」
「はい! 私立慶水高校の二年生です!」
希未が嬉しそうに応えると、ウィリアムは何かを考え込むような仕草をする。
「ハイスクールかぁ……、でも、まさかアイツがそんな場所に潜伏しているわけが……」
「どうしたんですか?」
「……いいや、何でもない。ちょっとこっちの事情でね」
キョトンとした希未が、頼まれてもいないことまで喋り始める。元来じっとしていることが苦手な彼女の口を閉じることは不可能に近い。
「今は文化祭の準備の真っ最中なんですよ! 私たちはその買い出し係! クラスでは舞姫の劇をやることが決まってるんですけど、ウィリアムさんは森鷗外って知ってますか?」
「オウガイ・モリ……名前は聞いているよ。読んだことはないけど、古い腐れ縁が知識人でね。今回もそいつの為にわざわざこの街へ来たようなものだ」
「え、まさかウィリアムって彼女持ちですか?」
希未の言葉に、ウィリアムは噴きだす。腹の底から笑い声を上げた彼に周囲が訝しむような反応を向けるも、彼はしばらく笑い続けていた。
「そいつは男だよ! もっとも、俺はどちらもイケるんだけどさ。彼とそんな関係になるのは考えたこともないやー」
「りょ、両刀ってやつですか……」
「俺の場合、イギリスにいた頃から道は踏み外しっぱなしだからね」
「世の中には色々な人がいるものですねー」
そんなことを話して、20分くらいするとようやく私たちの順番がやって来た。ウィリアムが財布から出したシワシワの日本円で会計を済ませ、近くの花時計がある公園でクレープを食べる。
味がしない。カスタードも安っぽくないし、バナナはたっぷり入ってる。それなのに、今の状況を考えると呑気に味わって食べるわけもいかなくて、すごくピリピリとした神経で咀嚼することとなった。
食べている途中で、ウィリアムは言った。
「君たちに聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「なんでもどうぞー」
クレープに夢中の希未が返す。
「……君たちは、自分が生きていることは当たり前のことだと思うかい?」
「え」
公園に、冷たい風が吹いた。私の伸びてきた髪と、希未のツインテールが流される。前髪をあおられながら、ウィリアムは視線を落として楽しげに喋った。
「だって、考えてもごらんよ。この世は一歩道を踏み外せばあっという間に命を落とすような『死因』に満ちていると思わないかい?」
「な、何を言ってるんですか……」
「……極端な話、君たちが日常的に使っているような箸でも人は殺せるんだ。相手の眼球に突き立ててしまえば、そのショックで弱い人は死ぬよ。
ひどく単純明快な方法をとれば、簡単に人ってのは殺せてしまうんだ。それを押しとどめている他人の良心ってやつは、そんなに信用できるものなのかな」
希未が呆気にとられて、沈黙した。
楽しそうに、愉快そうにウィリアムは話す。話す、話す。
「例えば、広辞苑。これだって人を殺せるよね。撲殺だ。例えば、風呂釜だって人を殺せてしまう。溺殺だ。例えば、なんのへんてつもないネックレス。絞殺だ。例えば、普段使っている包丁。刺殺だ。例えば……」
こうして、ウィリアムは日常に潜むあらゆる殺害の可能性を羅列した後に、最後の一口のクレープを食べて告げた。
「……君たちは、そういったありとあらゆる死の可能性と共に共存しているわけなのだけど、そのことについては何とも思わないのかい?」
「…………」
「意識さえしてしまえば……いっそ、人を殺さないで生きることの方が難しすぎてしまうものなのに」
希未が、怯えの混じった表情になった。
私が懐から小刀を取り出そうとすると、彼は笑い出す。
「なーんてね、怯えさせちゃったかな?」
「……あの……怖いですよ。そんなことを、平然と語っているあなたが怖いです」
まるで、あらゆる殺人を既に試したことがあるような……、そんな落ち着きと狂気を内包した彼の態度に、私と希未は恐怖を覚えた。
「……そうかな?」
「…………っ」
口端をつり上げたウィリアムの笑顔に、私は心の底からゾッとした。人の形をした深淵を覗き見してしまったようで、彼の関心がこちらに向かわないことを願う。
……これは、戦ってはいけない相手だ。
通り過ぎることを願うことしかできない災禍。私たちを襲ってきた松葉以上に救いようのない、救われない化け物。
ウィル・オ・ウィスプ……っ、
カタカタ震えている私に近づいた彼は、こちらを見て薄く笑う。
「……そういえば、まだ君たちの名前を聞いていなかったね」
「……月之宮、八重」
「栗村、希未……」
目の前の恐怖に、誤魔化すことなんて思いつかない。
「ふうん。……不思議だな。ヤエ、君とはまたどこかで会うような気がするよ……。ありがとう、楽しい時間だった」
シーユー、グッドバイ。
そう言った彼が、ゴミを捨ててバイクを引いて歩いて行く。堂々と隠れもしないで、ウィリアムは消えていく……その方向は、私たちが説明をした通りではない道を歩いて行ったように見えたけれど、それを指摘する余力はもう残っていなかった。




