☆189 ライバルの誕生
柳原先生の言葉に、遠野さんは眼差しを上げた。
彼はすごくがっかりしたような、呆れたような表情をしていて、そのことに遠野さんはただひたすらに戸惑っている。
どうしてこんな反応がされるのか分からずに、どうしてなのかと潤んだ瞳が問いかけていて……、雪男は落胆の溜め息をついた。
「オレ、お前さんにちゃんと待ってるって云ったじゃん」
「そのことは……劇の台本のことで」
「国語が得意なお前さんなら、ちゃんと読み取ってくれると思ったんだがなあ……。文脈から分からんかったかなあ……」
柳原先生の落ち込みが混じった言い方に、遠野さんは、「え」と頬を赤くさせる。すごく文句を言いたそうな先生は、ブツブツとこんなことを口にし始めた。
「あのな、オレだって愛だの恋だのでこの職を辞めたいとは思わないの。そんな無責任なことをしたら、お前さんとのことでオレがダメになったと周りに思われちまうだろ? だったら、遠野が卒業するまで色々待った方がよっぽど幸せにしてやれそうだとこれでも考えていたんですけどね?」
「そ、それって……」
「今はこっから先を云わせるなよ?」
流石の遠野さんにも私達にも、柳原先生が何を言いたかったのかはハッキリ伝わってきた。白波さんは頬を赤くし、希未は目をキラリと輝かせ、鼻息が荒くなった。みんなで息を潜めてその後を待つ。
「……どうして私なんかを」
遠野さんが、泣きそうな声で呟いた。
「可愛くもないし、性格も悪い……先生にとっては、優等生でも、ないのに」
言葉の端々に、信じるのが怖いという彼女の感情があった。それに対し、柳原先生は真顔で返事をする。
「え? だってお前さん、オレのこと好きになってくれたじゃん?」
「え?」
「だから、オレも……ついマジになって……。あれ? 違う? もしかして最近ではもうそこまでオレのことは好きじゃなかったり?」
オロオロしだした雪男に、隠れて見守っていた希未が幻滅の顔になった。ナメクジ男を目の前にしたような表情をしている。
「……もう、好きではありません」
「え、嘘!」
遠野さんがツンとソッポを向くと、柳原先生は悲しそうに叫ぶ。私にはすぐに彼女が本気でそういうことを言ったのではないことに気が付いたけれど、雪男にはどうもその機微が分からないらしい。
「もしも、先生のことを、好きになったのが私じゃなかったら、その子のことを好きになったんですか……。それって、私でなくても、いいってことじゃ……!」
――物陰の鳥羽がこっそり呟いた。
「そりゃまあ、普通はあんな言い方されたら怒るよな……」
天狗はつくづく呆れたといった目をしている。
「なんだか遠野さんが可哀想です……」
心優しい白波さんが遠野さんに同情している。
「これって、多分遠野さんはここで怒って見せることによって、先生から言質をとろうとしているのよね?」
コソコソと私がしごく真面目に言うと、みんなは微妙な顔をしてこちらを見た。
男性陣が引きつった笑みを洩らす。
「……八重、それを本気で云ってます?」と東雲先輩の言。
「……あの女は、本気で怒っているように見えるんだが」と八手先輩。
「うわちゃー、柳原やっちゃったな」
と、どこか楽しそうな松葉。
柳原先生が焦ったように、何事かを言うも私達には聞き取れない。
そこに遠野さんが、恥ずかしそうに何かを言おうとする。
「私は、先生のことが好きなんじゃなくって……」
「――ちょっと、ここからだとよく聞こえない……っ」そう言いながら、希未が身を乗り出す。
「希未、そんなに前のめりになると……!」
私が止めようとした時、ぐらりと世界が揺れた。足元のバランスが崩れ、一気に私達野次馬が遠野さんの方向めがけて地面に転がっていく。
「せ、先生のことが、だ……、だい、だいす……」
大好きの、最後の『き』まで遠野さんが言い終わる前に、彼女は、雪崩のごとく地面に転倒したこちらのことに気が付き硬直した。
「げ、」と柳原先生が声を洩らす。
「え、えっと……えへへ……」
私の背中の上で希未が視線を彷徨わせると、
「なんでちゃんと隠れててくれないんだよ!」と柳原先生は悲壮な叫び声を上げた。
今の発言で、私達の覗き見に雪男が関与していたことが遠野さんに伝わったらしい。ぼんっと音を立てて憤死しそうになった彼女は、黒目を上に動かし、次に横に動かし、最後に瞳孔を大きくしてわなわなと震え出した。
「よ、よくも……よくも……」
「と、遠野?」
「……よくも、真剣に悩んでいる私を、みんなの晒し者に!」
顔を真っ赤にした遠野さんは、柳原先生の首を力いっぱいアヒルの屠殺のごとく絞めあげた。彼女の怒りは仕方ないことだと思うが、先ほどまで最愛の如く話していた対象が、今度は一転し殺されそうになっていた。
だがそこは腐っても雪男はアヤカシだ。そう易々とは〆落とされない。
「ぐ……っ 悪かった! 遠野! オレが悪かったから許して!」
「……いくら先生でも、許せないことぐらい、あるんです! 可愛さ余って憎さ百倍! よくも! よくもよくもよくも!」
「ごめん、ごめんって! オレが悪かった! だから、その!」
「許してなんかあげない! 私と、こここ交際……いや、将来けっ結婚、してくれるまで、許してなんか、あげません!」
真っ赤で涙目になった遠野さんのプロポーズに、柳原先生が同じように顔を赤らめた。
一瞬、修羅場の時が止まる。
生娘のごとく朱に染まった雪男が、
「だから、そういうことは受け持ちが終わった後にして欲しいって云ってるのに……っ」と山ほど投入された砂糖の余りの甘さに悶絶して頭を抱える。
その反応に、ニヤニヤしたのは希未だった。
「おやあ? 先生ったら、満更でもないんじゃん♪」
「生徒は黙ってなさい!」
先生の懸命の返しにもいつもの余裕はなく、むしろ希未の意地悪な笑いを深めさせただけだった。
白波さんは驚いたように口元を押さえ、赤くなる。鳥羽は口笛を吹いた。呆れ顔の東雲先輩はため息を吐き、松葉は少し嫉妬した素振りを見せる。八手先輩は真顔のままで、私はどうしていいのか分からずに俯いてしまった。
こんなことで、本当に遠野さんと仲直りできるのだろうか。
むしろ、彼女を辱めただけなのでは……。
危惧を抱いたら、なんだか落ち込んでしまった私のことに気付いた遠野さんが、びくりと動く。彼女の瞳にも恐れが宿り、気のせいかそこには後悔も混じっているように見えた。
「月之宮……さん……」
私達は、2人とも踏み出すのが怖かった。
もしかしたら、傷ついてしまうかもしれない。相手の心を傷つけてしまうかもしれない。今まで重ねてきた思い出も、粉々に壊れてしまうのかもしれなくて……、それから逃れる為に人を遠ざけてきた私には、経験値が圧倒的に足りなかった。
それは、遠野さんも同じだろう。
人目を避けて内気ないい子を装って生きてきた遠野さんにも、本気の喧嘩をして仲直りをしたという経験はそんなにないはずだ。
ありったけの勇気を振り絞って、私はぎこちなく笑った。
「……ごめんなさい、みんなには私が頼んだの」
「……っ」
警戒を滲ませて、遠野さんは目を合わせてきた。
すぐに、この言い方では誤解を招いてしまうことに私は気が付いた。慌てて、拙い言葉を重ねていく。
「違う! 遠野さんをからかいたかった訳ではないの! ただ、その……私、どうしてもあなたと仲直りしたくって……そうしたら、希未が……」
……あれ? なんだかこうして一生懸命説明すればするほど、なんだか言い訳がましくなってない?
これではダメだ。何がダメかって、覗き見したという事実をまるで誤魔化せていない。
いや、誤魔化す……というより、謝らなければいけないだろう。この状況は。
過程がどうであれ結果的に遠野さんと柳原先生のラブシーンを覗いてしまったのだから……もしも自分だったら、そんなことをされたら死にたくなるものね。
「遠野さん……っ その、」
「……本気で云っているの? 私と仲直りしたい、なんて」
警戒心を露わに、遠野さんはキツイ口調で迎えうってきた。それを見た柳原先生が、見るからにうろたえている。
「そんな態度とっちゃダメだろ、遠野!」と先生が悲鳴を上げる。
それを聞かないフリをした彼女は、未だ赤く腫れている目に真剣な色を湛えた。
「どんな事情であれ、覗き見してしまってごめんなさい……。それと、仲直りのことは私は本気よ。遠野さんの誤解を解けたらって思います」
「……誤解って……」
「柳原先生と私の写真が掲示板に載せられていたけど、あれは休日にクラスの演劇のことで相談していた時に撮られてしまったものなの。あの日は先生と喫茶店でほんの少しだけ会話しただけで、やましいことは何もないわ」
馬鹿正直なことだけど、私はなるべく隠し事をしないように説明をした。あの時に庇ってくれた鳥羽が驚いた顔をしているけれど、それは仕方がない。
こういう時に嘘をついてしまうと、後々まで辻褄合わせに苦労をするものだ。整合性のとれないことをしてしまうくらいなら、話せることは話してしまった方がいい。
そんな私の持論に基づいた説明に、遠野さんは睫毛をそっと震わせた。何を感じたのかは分からない。朗々と述べた後の私の心に静かな不安が忍び寄ってきた。
「……そう。……そのことについては、分かった」
暗い瞳でそう言った彼女に、白波さんが一生懸命援護射撃を試みてきた。たどたどしくも、可愛らしい声色でこう言う。
「そ、その、月之宮さんが、仲直りしたいっていうのは本気だよ!」
「……そもそも、それが分からない。仲直りって何。私たちは喧嘩をしていたっていうの?」
遠野さんに真剣な顔で言われてしまい、私は言葉を失った。
彼女の心が読めない。柳原先生と話していた時にはあれほど分かりやすかったというのに、今では何を考えているのかも不明瞭となっている。
彼女は、私との関係を円満な元通りにしたいとは思っていないのだろうか? 東雲先輩が、露骨に苛立った表情となった。
「女、貴様は今の自分がどのような立場か分かってモノを云っているのか? 力づくでいう事を聞かせるという方法もあるんだ……」
「ハーイ、東雲先輩セーブセーブ! 遠野ちゃんは女の子だから殴っちゃダメだって!」
いや、女の子じゃなくても乱暴はいけないと思いますけど。
とび出してきた希未の制止に、踏みとどまった東雲先輩が舌打ちをして眉間にシワを作った。忍耐力が低い。それを見た柳原先生が冷や汗をかく。
「遠野ちゃん、これから先、何か身の危険を感じたらボクに云ってね」
松葉が人好きのする笑顔で遠野さんに声を掛ける。
「お前、意外といい奴……」
鳥羽が、眉を上げて感心したように言うと。
「……え? 遠野ちゃんが殴られて必死に助けを求めるところを観察して楽しもうと思っただけだけど?」
「いい奴じゃない、本当にクズだこいつ!!」
松葉の本音に、鳥羽が叫んだ。
そのサイテーな発言に、辺りの気温が一気に低くなる。当のカワウソだけが、みんなの白けた眼差しの意味が分からずに目が点になっていた。
キョトン。
柳原先生が咳払いをする。
諸々のやり取りをスルーした遠野さんが、冷めた眼差しでこう口を開いた。
「……私が勝手に誤解して月之宮さんを叩いただけだから、これは喧嘩ですらないと思う。どちらかというと、ただの通り魔」
遠野さんにとっての分類に、私はどんな反応を返したらいいのか分からなくなった。
何故なら、私はその定義については結構どうでもいいと感じていたので、彼女が何を言いたいのかがイマイチ理解できなかったからだ。
「……あなたは、通り魔と仲直りしたいと思うの? どんな理由があっても通りすがりに乱暴を働くような女と、もう一度やり直したいと本気で思っているんですか?」
「…………」
なんとなく、彼女がどんな理屈で精神的に背を向けているのか理解できた。人間に暴力を振るってしまうことは、どう取り繕うともフォローしきれない遠野さんの欠点だ。
そういうことをしてしまうのは、確かに褒められたことではない。むしろ、普通の思考を持っていたら少しずつ関係を遠ざけていくべきなのだろう。
……遠野さんが言いたいことは、つまりはこの理屈だ。
けれど、私は怯えているようにも見える彼女へそっと近づいた。
「ねえ、遠野さん……」
私は手指を伸ばして、問いかける。
「遠野さんは、私とは仲直りしない方がいいと思っているの?」
「……そうよ」
「どうして?」
「……それは、私が……っ」
「ねえ、だったらどうして、遠野さんはそんな風に泣いているのかしら?」
私の言葉に、遠野さんが呆然とこちらを見た。
彼女の両眼から頬にかけて伝っているのは、透明で純粋な雫だ。涙が溢れて、はらはらとこぼれていく。
「……私が、泣いて、いる?」
「そうだよ。遠野さんは、今、泣いてるの」
遠野さんは、私に云われてようやく現実に気付いたようで、口をポカンと開けていた。
自分が泣き顔を晒していることを悟った彼女は、「こっちを、見ないで……!」とつんざく声で叫ぶ。
「みない、で。わたしは、私を……」
「逃げないで」
身を引こうとした遠野さんの手首を強く掴み、私は真剣に訊ねた。
「泣いているってことは、私と仲違いしたくないって心の底では考えているんじゃないの? 遠野さん……」
「それは、月之宮さんが、お金持ちだからで……」
「嘘をつかないで! 遠野さんは、今度こそ私を傷つけない為に、わざと仲直りしたくないんだわ! もし、そんな理由で躊躇っているのだとしたら、あなたは充分に人を思いやることができるってことよ!」
「…………っ」
涙を零していた遠野さんの足下がぐらりと揺れる。その場に膝をついた文学少女は、今度こそ悲しそうに号泣し始めた。
嵐のごとく、遠野さんは泣き出した。その頭を白波さんが抱きしめると、彼女は悔しそうに言う。
「ひぐ……っ だって、私に、いいところなんて何一つない……。友達になったって月之宮さんの、得になるところなんてどこもない」
「いいところが無かったら、友達になってはいけないの? そんなこと云ったら、私だって自信がなくて泣いてしまうわ」
「月之宮さんは、頭がいい……」
「お生憎様、私は頭がよくても友達は数えるほどしかいないの」
そう言ったところで、希未がムッとした顔になる。自分を親指で差して、拳をまくろうとした。
「ちょっと八重!? 私はこんな女よりよっぽどいい友達やってると思うんだけど!? ああん、やっぱり憎たらしい! 遠野ちゃんを八重と仲直りする前に一発殴らせて!」
「……さっき僕を止めたのはどうしたんですか」
東雲先輩がため息をつく。彼によって首根っこを掴まれた希未は、ジタバタもがきながら叫んだ。
「八重は良くても、私は絶対許してなんかやらないんだから!」
その怒声に、遠野さんが俯く。
「……なんで、月之宮さんは私と友達になりたいの。許してくれるの。この学校にはいくらでも人間がいるのに、どうして私だったの」
うぐっ 答えにくい質問がきた!
どうしたらいいんだろう。マッハで思考を回転させながら、私はなるべくたどたどしくならないように口を開いた。
「きょ、共感したから、かしら」
私の気持ちを聞いた遠野さんは睫毛を瞬かせた。そこから、一滴の涙が落ちる。
「……共感……? 私、に?」
「ええ。上手くは言えないんだけど、遠野さんってすごく一生懸命じゃない。失敗もするけど、そうやって勇気をもって何かの為に行動できるところは尊敬するわ」
「…………」
「それに、前に蛍御前に云われたの。行動できない者は、もたらされた結果に文句を云う権利はないんですって。……まあ、でも、次に人を傷つけるのは良くないわね。今度こういうことしたら、絶交しちゃうわよ?」
……こ、こんな感じでいいのだろうか。
恐る恐る遠野さんの顔色を窺っていると、彼女は搾りだすような声で告げた。
「…………うん……っ」
泣き崩れた遠野さんを慰めていると、
「私、柳原先生と同じくらい、月之宮さんが大好き……!」
こんなことを云われて私は凍り付く。
え、百合ですか? ……百合の花が咲いちゃったんですか?
そんなことないわよね? 今のは言い間違えちゃっただけだよね?
気のせいか、妖狐と希未とカワウソのいる方向から、禍々しいオーラが噴き出した。彼らは互いの顔を見合わせると、手指の関節を鳴らし始める。
「ライバルは」
「排除」
「しなくちゃね」
ボキボキボキッ
白金髪の前髪をかき上げ、東雲先輩が黒い笑みを浮かべて要求する。
「……さあ、八重。その女をこちらに差し出しなさい。序列というものを教え込む必要がありそうです」
「そんなことしちゃいけませんっ!」
遠野さんを後ろに庇った私の大声が、中庭に響き渡った。気のせいか、文学少女の泣き顔はどこか恋する乙女のようにウットリとしていたように見えなくもない。
同性とはいえライバルの誕生に、ちょっと絶望した柳原先生が、背中を丸くして体育座りで落ち込んでしまったのが印象的だった。




